3-7 山積
工業団地前から乗り合わせたボートが、平田の工場の前に差し掛かるまで三十分を要した。
ボートを操舵する事務局員が速度を落とし、1階事務所入り口に横付けしてくれた。
平田と、大代は脱出前に積み上げてあった土嚢の上に飛び乗り、ボートを見送った。
建物内は、全面の道路よりも50smほど床面が高かったので、工場内に侵入している水は80cmくらいの計算である。
施錠を解き、ドアを押すが水圧で開かない。奴らの抵抗だろうか。二人して体を預けて押してやっと開いたが、そこで目にしたものは廃墟そのもであった。物凄い湿気と悪臭で、息が詰まり目が痛くなった。玄関の状況がそれであるから、壁一枚向こうの生産現場はそれ以上かもしれない。
ただ、平田も大代も、検査機の安否を確認する必要があった。
——入るしかないな……
そう独りごちて、平田はドブ色の汚水の中に足を沈めていった。実際は腰下まで浸かっていただろう。不快感で反吐が出そうなのを、タオルで口と鼻を塞ぎながら、ゆっくり水中を歩いていく。工場内に入るドアも二人で渾身の力を込めて押し、20センチほど開いたところで、不要な書類ファイルをその間に挟んで、なんとか中に入るスペースを確保した。
工場内の中央に設置された作業台には、脱出時のまま検査機二台が鎮座していた。すでに細かい粉塵が検査機を覆い始めていた。
平田が計算した通り、検査機の底の面ギリギリで水の浸水は止まっていたようで、くっきりそこまで水が来た証が残っていた。
——なんとか、助かったようだな
——ええ、でも、この検査機はデリケートですから、できるだけ早く運びださないと……
——うむ、そうだな
しかしそうは言ってみたものの、今の状況では、200kgもあるこの検査機械を人手だけで運びだすのは危険極まりない作業であった。
——せめて、水が膝下くらいまで引かないと無理だな
——とにかく、ラッピングシートだけでも掛けて行きましょう
身動きが不充な状態と、蒸せるような湿気の中での作業は過酷だった。
作業を終えて外に出た時は、まるでサウナのムロから出てきた時のような爽快感に包まれた。
一本のペットボトルの水を二人して分けて飲むと、すぐにそれは空になった。
迎えの約束の時間まで二十分ほどあったので、二階の事務所のトイレに入って、洗面台の蛇口をひねった。
幸い、水は止まっていなかった。
トイレの簡易ウォシュレット*(1)で、全身を洗い、着替えを済ませた。
悪臭と泥まみれの半パンとTシャツをゴミ袋に詰め、リュックへ押し込んだ。
——このままだと、水が引いても使えそうにないな
——ええ、パーテションも腐ってますし、配電盤も水に浸かってましたから、全部やりなおす必要がありますね。それに、消毒もしないと……
——うむ……
平田は、水さえ引けば——という見通しが甘かったことを思い知らされたのと同時に、この先の見えぬ復興作業に、どんどん気分が沈んでいった。
帰る道すがら、平田と大代は一つの結論を得た。
——どっか探すしかないな
——南部だと、バンナーかチョンブリ辺りですかね
「レムチャバン」に保管してある機械を、仮操業できる場所を見つけて移設し、そこに従業員を呼び寄せる——、そこまでの構想は立ったが、何一つとして現状では目処が立っていない。
脱出のあの日以来、従業員の殆どは田舎に帰ってしまっている。
果たして、彼らは見知らぬ土地で一からの生活を受け入れてくれるだろうか————。
山積する問題の多さに二人は黙してその先を語れないでいた。
————————————————
【脚注】
*(1)「簡易ウォシュレット」:実際にそう呼ばれているわけではないが、これは筆者がそう命名しているだけである。タイの水洗トイレの横には必ず敷設されているもので、1mくらいのビニールホースの先に水をシャワー状に噴射するノズルが付いている。要するにそれを手で持って
自分でその部位めがけて水を噴射するという、簡易方式のウォシュレットである。実物写真はネット等で検索してもらいたい。
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