退屈な祈り

水園トッ去

第1章

1-1

  退屈な祈り


                           水園ト去


 息が白く、臭い。酒の匂いがした。寒さの上を滑るような高揚感。エリオットは居酒屋『溺れる樽亭』を出た。飲み過ぎとわかっていたが、毎晩こうなる。 エリオットの営む仲介業は閑古鳥が鳴いていた。収入は減るが、食欲も睡眠も減らない。だから困る。どうにもならない日々に嫌気が差し、毎晩飲んでしまう。悪循環だった。やめられない。

 帝都自由都市マリアノフの貧困街カジート地区のルメールダニー通り。冬となると辛気臭さが増した。居酒屋、阿片窟、賭場、故買屋、売春宿、乞食。塵、枯れ葉、朽ちた木材、ネズミ、乾いた吐瀉物、見慣れた景色の合間を歩いて家へ。

 物陰から音がした。木の板か何かの倒れる音。

 エリオットは視線を向けた。目の前が暗闇になった。

 黒い袋か――?、頭巾を被せられた――。

「やめろ!」とエリオットは言った。

 剥がそうと抵抗するが、脇に重い一撃を喰らった。「やめて下さい」とエリオットの言葉が懇願に変わった。

「静かにしろ」

 知らない声だった。男の声だ。足音は複数。

 数人いるのか――?

 夜討ちに心当たりがないわけじゃない。去年、阿片に関わる事件に首を突っ込んだ。

 手を後ろで縛られる。

「足はいいのか?」とエリオットは言った。「俺は走って逃げる」

「問題ない」

 後頭部を殴られた。

 意識が飛んだ。


   ■


 どこだ――。

 暗い。揺れている。

 エリオットの意識が戻った。

 身体を動かした。手足が縛られている。芋虫のように腰をくねらす。何も変わらない。視界は暗いままだ。頭巾を被せられていた。

「静かにしろ」

 またあの男の声だ。すぐ近くから聞こえる。

 馬車か荷車か。何かに乗せられて、どこかへ移動中だろう。後頭部と右脇腹の痛みがぶり返す。

 クソ――。

「お前は誰だ」とエリオットは言った。

「俺を忘れたのか? ま、俺もお前のこと忘れてたけどな」

 誰だ。

 こいつはおちょくってるのか。それとも本当に知り合いなのか。

「名前を教えてくれよ」

 エリオットは言った。

 被せられた黒い頭巾の中に自分の息が充満する。酒臭い。今後は控えよう。

「もう着く」と男。

「もう着くって名前なのか?」

 エリオットは言った。「だったら、お前の親は相当な馬鹿だ」

「静かにしろ」と男。

「それしか言えないのか?」

「それしか言えない」

「これは馬車か? 荷車か?」

「馬車だ。問題あるか?」

「他のことも言えるじゃん」

「静かにしろ」

 馬車が止まった。「着いたぞ。降りろ」

「立てない。足が縛られてる」

「おい、誰かこのボケを担げ」

 足音で男が馬車から出て行ったのがわかった。それからすぐにまた誰かが荷台に入ってきて、エリオットを担いだ。

「優しくしてくれ。さっき殴られて痛むんだ」

 無視された。

 乱暴に担がれ、どこかへ運ばれていく。

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