その九、 隠されていた陰謀

 牛車は前列に二人、後列に二人の四人乗りだ。

 席次は進行方向に、前列の右が一位、左が二位、後列の左が三位、右が四位となり、前後列が向き合って座る。

 前列の右側に難波参議なにわのさんぎが座り、後列の右に紀乃が、その左に藤の宮が座を取った。

 牛飼いの掛け声に、牛車が静かに滑りだす。

「せまい車中や。そろそろ被り物を取って貰ってもええかな?」そして、安心させるように、にこやかな笑みを見せる。「わしはあんたのお母はんと対面したこともる。心配あらへんって」

 相手は参議だ。

 市で助けてもらったこともあり、無下に断るわけにもいかず、紀乃は藤の宮に扇を広げさせてから市女笠いちめかさを取ってやる。そして、自分の市女笠を取り、後方に重ね置いた。



「これは噂以上や!」

 驚きに見開いた目を、難波参議は懐かしそうに細める。

「ぱっちりした目元なんて、まさに生き写し……」

 そして、にへぇらーと笑みを浮かべた。

「わしがここまで出世できたんも、あんたのお母はんのおかげやでぇ。

 なんせ内侍ないし恋しさに、雨が降ろうが雪が降ろうが、それこそ先触さきぶれに行き当たっても坊主に祈祷きとうさせてな、毎日毎日、出仕しゅっししたもんや。

 たとえ疲れていても、内侍のあの笑顔でな、ご苦労様なんて言われみぃ、疲れなんてすぅーと吹き飛んだもんや。

 もちろん、わしとあんたのお母はんのあいだには何もあらへん。内侍は、わしにとっては高嶺たかねの花やったからな。

 恥かしゅうて、よう文も書けんかった。それでも、あの笑顔に出会えただけで、ええ思い出やっ!」



 夢心地に目を細める難波参議をまえに、紀乃はそっと息を吐いた。

 思い出に浸る参議には悪いが、老人の昔話に興味などない。それよりも気になるのは、宮の噂とやらだ。これまで宮の噂など聞いたことなどなかったが。そう言えば東宮もよく耳にすると言ってたけど……。

 内心を押し隠し、紀乃は上目使いに参議を見た。

「宮姫さまの噂とは、どういったものなのでしょう?」

「そりゃ、あんた!あの内侍の娘やで、噂半分やとしても充分に美人や。若いもんが騒がんはずがないがな」

 そして、じとーと紀乃を見る。

「あんたんところにも、十や二十の文が届いたはずや。

 まずはあんたをたらし込んどいて、姫の寝所に案内させようってやからや、直接に金品で釣ろうって輩から」

 そんな文や品など貰った覚えはないが、ピンッとくることならある。

 大皇の宮の御前でのお取り調べだ。

 おそらく大皇の宮と絵式部は、余計な噂が耳に入らぬよう邸中の者たちに堅く口止めをし、届いた文と品のすべてを調べていたのだ。

 だけど、お取り調べをしたからと言っても、疑っていたのではないのだろう。もし疑惑があったのなら、あんな簡単に開放してくれるはずがない。

 あの女狐ども、三条邸に引越したら今まで通りの監視ができなくなると踏んで、直に釘を刺しやがったな……。



 その姿をどう思ったのか、難波参議がケタケタと笑う。

「バカ正直に文を送ったもんなら、ごちゃまんとおったやろな」

 最近の貴族はスレてて、財産もない姫には見向きもしないのかと思ったら、あの女狐どもが握り潰していたのか……。だけど、そうとわかれば未来は明るい。ちらり作戦は、成功間違いなしだ。

 ―――となると、この参議の軽そうな口を閉じさせなければ!

 東宮と何かある、なんてペラペラと喋って回られたら、寄り付く虫もいなくなる。

「そんなこととは露とも知らず、市で助けて頂いたことと言い、重ねがさね御礼申し上げます」

 紀乃は居ずまいを正し、丁寧に頭を下げた。

「ご存知とは思われますが、東宮と宮姫さまは宮中で育った幼馴染。本日は宮姫さまの日頃の無聊ぶりょうをお慰めしようと、東宮と頭中将さまとで企画して頂いたことにございますれば―――」

「わかっとるって!」難波参議が皆まで言わせずにさえぎった。「わしにも若い時分、覚えがあることや」

 そして、ニーと笑って声を潜める。

「先の中納言の一姫いちひめがな、行き遅れのクセしよって気位がたこうてな、わしの文など見向きもせーへん。

 そいでな、市に連れてったるって言うたんや。そしたらな、コロリッと落ちよった。今では口煩くちうるさい、わしの北の方や。

 そやけどな、あんとき買うてやった安もんのくしを、今でも大事に持ってたりするのを見ると、愛しい気持ちも湧いてくるっちゅうもんや」

 そして、破顔して付け足す。

「あんたさんくらい美人やと、男は準備もいらへんけどな、女子おなごはそうもいかんやろ。

 一つひとつ思いを重ねて気持ちを高めんとな」

 そして、意味ありげにニヘラーと笑う。

「いきなり、そら初夜やって言われても、困ってまうわな」

 何で、そうつやっぽい話になるんだ!

 紀乃は頬を紅くする。隣の宮など、紅くなった顔をうつむけ、扇の影に隠れてしまった。

「だから、そうではなくて―――」

「隠さんでも、えーて! わしも参議の端くれ。とうに知っとるでぇ」

「何を知っているのか知りませぬが―――」

「何をって……」

 難波参議が不愉快そうに顔をしかめてうなった。

「そやから、寝役ねやくのことや!」



 はぁー!紀乃は驚きに目を見開き、口をぽかんっと開けた。その横で藤の宮も、扇の上から目を覗かせたまま、まばたきも忘れて固まっている。

 添い寝役とは、元服の儀の夜に一夜を共にする女性のことを言う。

 要は早く言ってしまえば政略結婚で、後の正妻となるわけだ。

 光源氏の正妻、あおいうえも添い寝役だった。

 しかし、相手が東宮ともなると、その正妻たる中宮ちゅうぐうの位は、摂関家せっかんけの姫だけに許された特権である。宮家筋の宮は、血筋だけなら皇后きさきにもなれるが、それを支え続けるだけの後見がない。

 おそらくは先例の女性たちのように、東宮が帝に即位したのち、正式に宣旨せんじを受けて複数いる女御にょうごの一人となるのだろうが……。

「そんなこと―――!」

 強く否定しかけて、紀乃の声は牛車のきしむ車輪の音に消えて行く。

 よくよく考えてみれば、すべてがピタリと当てはまるのだ。

 昨年の秋口に行われた、女の成人式である宮の裳着もぎは、当初は正月に予定されていた東宮の元服の儀に、そう間を開けることもなく、かと言って宮中に入るための準備には充分の調度よさだ。たぶん東宮の元服の儀から、逆算して決められたからだろう。

 そして、ことあるごとに呼び戻す不自由をかこっても、片腕とまで言われた絵式部を手放し、宮の御側役おそばやくに就けたこと。

 宮中に入るともなれば、経験があり、有能な女房が必要となる。絵式部なら文句の付けようがない。

 それから、何よりもこの話を裏付けるのは、急な三条邸への引越しだ。

 あの時、絵式部は駄々をこねる朱鷺姫をなだめることもなく、好きにしろと言い放った。

 それもそのはず、相談役なんて子供好きの宮を誘惑するための理由付け、建前に過ぎない。その真の目的は、宮を三条邸から宮中に入れるためだ。

 そうすれば、宮の後見役こうけんやくを右大臣が務めることに、異議を唱える者などいなくなる。

 だけど、それは宮にとって……。



「ほんまに知らんかったんかっ!」

 難波参議の驚きの声に、紀乃は我に返った。

 ふと隣を見れば、藤の宮はまだ茫然としている。

 紀乃は膝の上の小さな手に、そっと手を重ねた。

 藤の宮の戸惑いに揺れた瞳がゆっくりとこちらを向く。安心させるように紀乃は微笑み、顔を参議に戻した。

「牛車を停めてください」

「何や藪から棒に!」

 難波参議が飛び上がらんばかりに驚いて目をむく。

「大皇の宮に御会いする御用ができました」

「せやかて、もうすぐ左馬守さまのかみの邸―――」

 言いかけて難波参議が慌てて口をつぐむと、仕舞ったというように顔を背けた。

 耳を澄ませば聞こえてくるのは、低い声で言い争う男たちの声。俊と呼ばれていた若侍と、頭中将が付けてくれた護衛の二人だ。

 どうやら護衛の二人も、道が違うことに気が付いたらしい。

 この参議、にこやかな笑顔の下で、何を企んでいるんだ?

「ちょいと所要がある言うたやろ。ちょいちょいと済ませて、その後に送るつもりやったんや。

 すぐ済むさかい、あんたらはちょいと待っといてくれんか」

 ちょっと待っているあいだに、何が起こるんだ?

 不審に思いながらも、紀乃は内心を押し隠す。

「参議のお邪魔はできません。わたしたちは徒歩で向いますがゆえ、参議はこのまま行ってください」

女子おなごの身で外歩きなんて―――」

 皆まで言わせず、紀乃が遮る。

「そのための装束しょうぞくでございますから」

 そして、微かな笑みを口元に浮かべた。

「それとも往来の真中で、大立ち回りを御所望ごしょもうですか?」

 牛車の外の言い争いはさらに激しさを増し、今では紀乃たちの耳にも普通に聞こえてきている。

「さぞや評判になることでしょうねぇ」

 難波参議の顔が苦虫を噛み殺したように歪む。

「評判になって困るのは、あんたらも同じやろ」

「わたしたちは都の片隅に暮らす、女の身。また元の暮らしに戻るだけにございます。

 無くすものなら、官職に就かれている参議のほうが大きいのでは?」

 額に刻まれたしわを肯定の答えと取り、紀乃は物見窓ものみまどに顔を寄せて二人を呼ぶ。すぐさま二人が前に立った。

「徒歩で院に向います。護衛をお願いします」

 指示の意味を飲み下すような間を置き、嬉々とし返事が響いた。

「はっ、かしこまりました!」

 すぐに牛車が停められた。

 紀乃は藤の宮の装束を直してやり、頭に市女笠を被せて顔を隠す。そして、自分の笠を手に取ると、難波参議のぶっきらぼうな声だ。

「お付きのもんも世間知らずの小娘かと思うとったら……名だけ聞いておきましょか」

「お褒め頂きまして、光栄にございます」

 紀乃はにっこりと微笑んで見せる。

「紀乃と申しまする」

 難波参議は不機嫌そうに、無言で鼻を鳴らした。

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