その六、 春の訪れ……

 頭中将とうのちゅうじょうの来訪を告げる先触さきぶれが訪れたのは、もう日も高くなり、紀乃は寝不足に目をしょぼしょぼさせ、藤の宮は和歌の勉強に飽きあきし、欠伸を袖で隠して噛み殺しているときだった。

 紀乃のこめかみを一筋の汗が流れ落ちる。

 引越しの忙しさに取り紛れ、文は引越し荷物に突っ込んだまま、問題は棚の上にうっちゃったままだ。

 今日すぐにどうこうあるわけではないだろうが、いったいどんな顔して会えばいいのだろう。やはり、ここは宮に話して……。



 そっと横目で藤の宮を覗き見れば、うきうきと浮かれたようすで自ら使った筆を片している。

「あのね……相談があるのだけど―――」

「これはいったい!」

 常磐ときわの叫びにもちかい声に、紀乃の可細い声はかき消された。振り向けば、妻戸に二人組みを引き連れた常磐が目を吊り上げている。

 常磐は対の屋を素早く見回すと、足早に御簾の前に立つ。

 紀乃は子供のようにうなだれた。

 みんなの前で告白する勇気などない。

 常磐は呆れたように嘆息する。

「こちらはわたしたちが用意しますから、紀乃さんは宮姫さまの御召し変えを!」

 言うが早いか身をひるがえす常盤の背に、紀乃は驚き顔を上げた。

「御召し変えって……ぜんぶ?」

 対の屋はそれぞれが独立した家と同じだ。

 そこで働く紀乃たちは十二単じゅうにひとえを着崩すことはないが、主である藤の宮はもっと楽な小袿姿こうちぎすがたをしている。これにを着けて、唐衣からぎぬを着せればいいと思っていたのだが……。

 振り向いた常盤のこめかみが引きっている。これは逆らわないほうがよさそうだ。



 紀乃はすぐさま背を向け、逃げるようにその場を後にする。そして、新しい一揃いを用意して、藤の宮の元に戻る。

 紀乃が用意したのは、表が淡緑で裏が濃緑の若草襲わかぐさかさねだ。藤の宮の小袿を脱がせ、さっそく着付けに取り掛かった。

 横目に見える御簾の外では、珍しくもパタパタと忙しそうに二人組みが働いている。初めて対面する宮中の有名公達ゆうめいきんだちに、興奮した面持ちだ。

 その二人組みに、常磐が釘を刺す。

「頭中将は右大臣家に婿入りするやも知れぬお方、くれぐれもご無礼なきように!―――わかりましたか?」

「は~い!」

 二人は声を揃えて返事をするが、常磐の背に向けて舌を出す。そして顔を付き合わせてひそひそと……。

 しかし、興奮して上ずった声はまる聞こえだ。

「頭中将だって、五年も十年も待てないわよね~」

「お子さまより、わたしたちのほうがね~」

 意味ありげな笑みを交わす。

 常磐の豹変の理由、二人組みの思惑はよくわかった。

 告白しなくてよかった……。

 紀乃は胸を撫で下ろし、着付けに集中する。

 襟元に手を回して色目を整えていると―――。

「わたくしは、紀乃の幸福しあわせを願っている」

 藤の宮が囁いた。

「……?」

 怪訝そうに目を細めて見つめれば、いたって真面目に見詰め返される。

 どうやら宮にも、何らかの思惑がありそうだ。前回のこともあるし、ここはじっくりと問い詰めて、聞き出したほうがよさそうなのだが……。

「紀乃さん、準備はよさそうね」準備が整い、御機嫌なようすで常磐が御簾の前に立った。「それでは頭中将を御迎えに参りましょう」

 二人組みはと見れば、ぶーたれて口先を尖らしながら室の隅に控えている。出来るなら三人で行ってきて欲しいものだが、常磐のなかでは出迎えは上位の女房の仕事らしい。

 絵式部が不在ともなれば、そのお鉢は当然―――。

「さぁ、早く参りますわよ」

 常磐に急かされてしぶしぶ御簾を出る。横目で見下ろす宮は何もなかったかのように素知らぬ顔で、すでにちょこんっと座に着いている。

 何もなければいいのだけれど……。

 紀乃はため息混じりに対の屋を後にした。



 長いわた殿どのを通って向かったさきは東車寄ひがしくるまよせだ。

 ここでも、常磐の能力が如何いかんなく発揮される。

 二人組みのお付きの従者たちはさっさと追い出され、残った下働きたちも整然と配置された。

 宮のときもこうしてくれれば、あんな騒ぎにならなかったのに……。

 紀乃はぶつくさ言いながらも、目立たぬように常盤の影に膝を着いて座をと取る。しかし、「何してるの!」の一言で前に押し出されてしまった。

 ほどなくして、頭中将が乗る車が到着した。

 もう逃げ隠れもできず、紀乃はうつむき加減に牛が外されるのを見守る。すだれが巻き上げられ、内に垂らされた飾り布の壁代かべしろを左右に分けて、頭中将が姿をあらわした。

 今日は珍しく狩衣姿かりぎぬすがただ。萌黄もえぎ布衣ほうい赤花あかはな指貫さしぬきが色鮮やかに映える。

 いつもの厳しい顔も、幾分か和らいでいるようだ。

 頭中将はしじを降りると、紀乃に向けて微かな笑みを浮かべた。

「どうやら絵式部殿は御留守のようですね?」

「―――はい」紀乃は紅く染まった頬を隠すように、慇懃いんぎんに頭を下げた。「大皇の宮さまが殿上でんじょうされるのにあたり、その準備と手配のために院に戻り、本日は失礼させて頂いております」

 その返答に、頭中将が軽く頷く。そして、車を振り向き、牛を繋ぐために伸びたかなえを軽く叩いた。

 どうやら、もう一人、誰か乗っているらしい。

 スタッと勢いを付けて立ち上がる足音がすると、烏帽子えぼしの少年が壁代のあいだから顔を出した。

 辺りを興味深そうにきょろきょろ見回し、牛車からパッと飛び降りる。薄水色の水干すいかんに、飾りひもの白い菊綴きくとじが揺れた。もう元服げんぷくを迎えるかという年頃だ。

 少年は紀乃の前に立つと、口角をあげてニッと笑う。

 今にも大きな声で話しだしそうな、その笑顔はどこかで見たことがあるような・・・・・・・・・・えっ!

 紀乃は目を大きく見開いた。

 どうして、ここに東宮が……?

 驚きに、声もなく口をパクパクさせる。

 頭中将が含み笑いを浮かべた口に、そっと扇を近づけた。

「本日は藤の宮さまに御挨拶したいとのことで、わたしが御世話になっている御仁ごじんの御子息を御連れした。御取次ぎをお願いしたい」

 ポカンッと東宮を見上げていた紀乃は、慌てて口を閉じた。

 そっと辺りを見回してみても、頭中将の僅かばかりの供人と隋身ずいしんだけだ。

 これは予定された訪問でもなければ、公式な行啓ぎょうけいなんてとんでもない。思うに、顔を見知っている絵式部の留守を狙って、宮中を抜け出して来たのだろう。

 すると身分も素性すじょうも、すべては内緒だ。



 紀乃は小首を傾けると、指先でちょいちょいと合図を送る。

 常磐が怪訝そうに口元に耳を寄せた。

「宮に、対の屋を人払いするように言って」

 耳元で囁くと、常磐が訝しそうに眉根を寄せる。それでも紀乃が視線を送り続けていると、一礼のもとに身を翻して姿を消した。

 紀乃は改めて向き直り、深々と頭を下げる。

「本日のご訪問、誠にありがとうござりまする。宮姫さまにおかれましても、お忙しい身でおられる頭中将さまのお優しい御心遣いに、いたく感激した面持ちにございます。

 火急な引越しに心身ともにお疲れと御心配申し上げておりました、わたしどもと致しましても、ほっと胸を撫で下ろす心地。

 失礼ながら、わたしどもからも御礼申しあげます」

 紀乃は長々と挨拶の口上を述べる。

 西の対の屋の人払いをするための時間稼ぎだ。それを思いやってか、頭中将も二言、三言と言葉をつづける。

 唯一人、東宮だけは退屈そうだ。欠伸あくび混じりにきょろきょろと、一時もじっとしていない。それでも、せかさないだけ、大人になったのか。

 頃合いをみて紀乃は座を立ち、先導のために列の先頭に立った。すぐ後ろに元気な足音が続く。

 長い渡り殿を歩くあいだ、東宮は所どころで足を止めて頭中将に質問を繰り返す。

 訪問先の邸宅の造りや庭園の草木に目を向け、その主人の趣味や感性に注目するのは貴族としての基本だ。

 子供だとばかり思っていたが、東宮も大人の階段を登っているのだろう。

 紀乃はそのたびに足を止め、頭中将が一つひとつ丁寧に答えるのを待つ。

 まるで頭中将は、至らない弟を導く兄のようだ。微笑ましい思いで見守っていると、頭中将に視線でさきを促され、紀乃は踵を返した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る