その二、火の玉がこんにちは!

 紀乃は崩れるように、ペタリと座り込む。

 藤の宮が入った西対の屋に程近い控えの間だった。

 運び込まれた荷物の整理と片付け。気落ちした藤の宮を慰めて元気づけ、着替えさせてから北の方に到着の挨拶に行かせ、戻るとすぐに使われていなかった西対の屋を人の住める居住空間に変える。

 気が付けば、時はすでにもう夕刻。

 絵式部にも手伝えと言いたいが、何やらあっちで交渉こっちで話し合いと忙しそうだ。居なければいないで怒られることもないのだが、すべての責任はずっしりと紀乃の肩に。



 長いため息を吐き、次は何から片付けるか、などと考えていると、若い女房が二人顔を見せた。痩せて目がパッチリした娘が鈴鹿すずか、ぽっちゃりして髪がからすの濡れ羽色に輝く娘が小夜さよだ。

 右大臣家が付けてくれた三人の女房のうちの二人なのだが、彼女たちがいやはや……。

「紀乃さん、宮姫さまが呼んでます」

「室に来て欲しいそうです」

 声を揃えて言う二人に、紀乃は問い返す。

「どんな御用かしら?」

 二人は顔を見合わせ、小首をかしげる。

 そのときの状況で、推測くらいできるだろうに!

 紀乃はそっと息を吐く。

 この二人、とにかく腰が重い。今も用件を伝えたら室に戻るのかと思えば、紀乃の横に座り込み、お喋りをはじめる始末だ。

 右大臣家の家令に聞いたところ、二人とも各地に持つ荘園の有力者の娘らしい。

 結婚のときの箔付けといったところだろう。車宿りの網代車と隋身たちは彼女たちを送り届け、そのまま右大臣家の下働きをしながら残っている、彼女等のお付きの者たちだそうだ。

 地元では下級貴族の娘のわたしより、よっぽどお姫さまだったのだろうが、お付きの必要な女房ってのはどうなのよ。宮がいなかった昨日までは、お登りさんらしく、毎日のように都見物に出掛けていたそうだが、そんな者を付けられたほうがいい迷惑だ。



 紀乃は内心の憤懣を隠して、疲れた腰を浮かしかけた。

「わたしが参りましょう」

 室の奥で片付け物をしていた常磐ときわが、すでに音もさせずに立っている。

 彼女は右大臣家が付けてくれた女房の最後の一人。

 前々から右大臣家で働いていたそうで、紀乃と同じ歳らしい。両親は右大臣のテコ入れで、国司として地方に下っている受領の娘だ。

 彼女には、藤の宮の表着の整理をしてもらっていたのだが、もう綺麗にたたまれてひつに仕舞われている。

「―――でも……」

 常磐は笑顔で首を振る。

「ちょうど対の屋に火を入れて回る刻限だし、紀乃さんはもう少し休んでいて」

「そぉう……悪いわね」

 にこやかに出て行く常盤を見送って、紀乃はその場に座り直した。

 すると、隣から。

「やな感じ!」

 鈴鹿がボソリと呟く。

 それを聞いて、小夜が下手な口真似で続く。

「朱鷺姫さま、朱鷺姫さまって―――昨日まではべったりだったのに」

「宮姫さまが来たら、急にゴマすっちゃって」

「ねぇーっ!」

 二人は顔を見合わせ、声を揃える。

「ちょっと、やめなさいよ」

 紀乃は先輩女房の顔で、二人を嗜める。

「これからはみんなで一緒に働くのだから」

「だって……」

 二人が甘え声で唇をとがらす。

「わたしたちなんて、近づけてもくれなかったんですよ」

「そうそう、御前に出るのはまだ早いって」

 へぇ~、常盤さんって朱鷺姫さま付きだったのか……。

 内心はどう思ってるのか知らないが、彼女ひとりで三人分は働いてくれている。それだけでも、助かった。

 紀乃は先輩顔を崩さず、二人に向ける。

「それこそ色々教えてもらって、早く一人前にならないと。陰口を叩いてたら、仲良くなれないわよ」

 二人は不満そうな顔をしたが、それが若さなのか、移り気なのか、すぐに表情を変えてお喋りに戻る。そして、顔を紀乃に向けたと思ったら、たじろぐ本人を他所に、二人でにじり寄ってきた。

「紀乃さんは宮中にいらしたことがあるんですって?」

「宮中のお話をしてくださいな」

 誰から聞いたのよ……。

 紀乃は心持ち腰を引き、二人から距離を取る。



 宮中での思い出とは、とかく思い出したいようなものでもなく、賑やかな隣のお屋敷を塀越しに見ていたようなものだ。

 今ならその理由もよくわかる。

 当時は今上帝、大皇の宮のご子息が即位したばかりのころだ。

 それでも先の帝の弟宮、久の宮さまを宮中に残していたぐらいだもの、先の左大臣は衰えていく権力を取り戻そうと躍起になっていたに違いない。

 その切り札とも言える久の宮さまが、敵の右大臣の娘を娶ったのだ。これは最高の裏切り行為であったろう。

 先の左大臣と久の宮さまのあいだで、どんな遣り取りがあったのかはわからない。しかし、これだけははっきりとしている。

 久の宮さまは宮中での後ろ盾を失ったのだ。

 その証拠に、何かと派手な宮中で、久の宮家はとりわけ慎ましい生活をしていた。

 藤の宮の遊び相手とは口実で、実は乳母の年端もいかぬ娘まで引っ張り出さねばならぬほど、久の宮家は困窮していたのだ。



 紀乃は曖昧な笑みを浮かべ、二人から間を取る。

 宮中に措いて、権力も無く、財力もない者など影と同じだ。その家に仕える小娘なんか、空気と同じ、まったく目に映らなかったに違いない。

 唯一人、東宮が泣いただの擦り傷をつくっただのと、日頃の鬱憤晴らしに怒鳴り散らして怒った承香殿の中宮だけが特別だ。

 それも、いい思い出なんかではない。しかし、目を輝かして詰め寄る彼女たちは、こんな話など聞きたくもないだろう。

「そうねぇ……」

 紀乃は顎に手を当て考えながら、二人に目をやる。

 話したいこと、知って欲しいことはたくさんある。

 すべてを受け入れてもなお、凛とした顔付きで、すべてに立ち向かっていた久の宮さまの姿。

 いつも笑顔を絶やさず、ほのぼのと自ら立ち働く御内侍さまの美しさ。

 御二人の仲睦ましい御様子。

 だけど、どの話も彼女たちの期待に応えるものではない。

 紀乃は明るさを装い、在り来たりの話を語って聞かせた。

 帝の御前で開かれた、管弦楽の宴。

 琵琶は右近の少将藤原高彬卿、横笛は宰相の中将京極弼真卿などなど、誰もが知る宮中の公達たちだ。その音色は華やかに美しく、夜のしじまを縫って響いたこと。

 そして、夜のお召しで清涼殿に渡る女御の方々。

 先導の香炉を持った女童に、十数人の女房がつき従う。うねるような御髪おぐしに光る金の釵子さんし、透きとおるような紗の領巾ひれを肩にかけて裳裾を長く引く艶姿あですがたは、まるで天女に見紛うばかりだったこと。

 時には軽妙に、失敗談を交えて笑いをとる語り口に、二人は身を乗り出すように夢中になり、うっとりと聞いている。

 その光の裏にあった影のお話は、わかる人だけわかればいい。

 紀乃は短く息を吐いて、話を締め括った。そのとき―――。



 キャッ!

 息を呑むような短い悲鳴。

「―――宮……!」

 スクッと立ち上がると驚き顔の二人を残し、紀乃は脱兎のごとく控えの間を飛び出した。

 簀の子縁を足音も高く、駆け抜ける。

 きっとすごい姿だろうが、カッコなんて気にしてられるか!

 そのままの勢いで、西対の屋に飛び込むと、そこには誰もいな……いた!

 御簾の向こう側の隅に、小さくなって蹲っている。

 紀乃は御簾に潜り込み、そっと声を掛けた。

「宮、何があったの?」

 丸めた身体をビクッとさせ、藤の宮が恐る恐る振り返る。そして、紀乃の姿を認めたとたん、「紀乃……」と呟き、見る間に目の端に涙を浮かべ、そのまま這いよると、紀乃の膝に顔を埋めた。

「どうしたの?」

 紀乃は頭に手をやり、優しく髪を撫でた。

「―――出たの……」

「出たって……物の怪が?」

 藤の宮がプルプルと首を振り、泣き顔を上げた。

「火がゆらゆらと……」

「火……?」

 コクリと頷き、藤の宮は震える指で明り取りの格子こうしを指差す。



「はじめはポッと灯りが燈って……なんだろうと見ていたら、ゆらゆら揺れてパッと……」

「パッとね……」

 紀乃は疑わしそうに、格子に目をやった。

 黒く塗られた細い角材が、縦と横に細かく組み合わせて幾何学模様を作っている。いまは夕暮れの薄闇が透けて見えた。

 確かめてみようと立ち上がりかけた紀乃の腕に、藤の宮が抱きつく。

「何か出たら、どうするの」

 そんなもの出るわきゃない。しかし、いつになく宮は真剣なようす。

 紀乃がどうしたものかと考えていると、簀の子縁から二人の足音が。

 遅れ馳せながら、ただいま参上ってとこか。普段なら叱りつけるところだが、それなら彼女たちに活躍してもらおう。



「どうしたんですか?」

「びっくりしちゃいました」

 口々に入ってくる彼女たちに、紀乃は笑って指示を出す。

「ちょっとそこの格子を見てくれるかしら」

 二人は疑うようすもなく格子に向かい、四隅を調べ、上の半分を外に押し上げて辺りをキョロキョロ。

 ハラハラドキドキで見詰める藤の宮のことも知らず、丹念に調べあげる。

「何もないですよ」とは鈴鹿。

「誰もいません」とは小夜。

 証拠を残す、マヌケな物の怪もいないか。

 紀乃は顎に手をやる。そして、対の屋を見回し、藤の宮に向き直った。

「常磐さんが控えていたでしょ。どこに行ったのよ?」

「釣り殿に火を入れて来るって……」

 ふ~ん、これだけの名家なら、誰もいない無駄な場所に火を入れてもおかしくないけど、わざわざ常磐さんが……。

 紀乃は格子に目を戻す。この薄闇なら人影もはっきりしないだろう。ましてや格子越しに、目撃者はのんびり屋の宮だ。驚かすなんてお茶の子済々、簡単なことだろう。

 考え込む紀乃を他所に、二人はまだ格子を調べている。

「どうしたんですか?」

「なにかあったんですか?」

「ちょっとね。宮が火の玉を見た、なんて言いだして……」

 二人がギョッとして格子から飛びのく。

「酷いです!」

「何かに取り憑かれちゃったら、どうするんですか!」

 口々に歩み寄る二人に、紀乃は煩そうに目を向ける。「だから、何も居なかったでしょ」

「そういう問題じゃないです」

「もしもの時の話です」

「物の怪なんて居ないわよ」

 紀乃が二人を宥める。しかし、そこに藤の宮が真顔でしゃしゃり出た。

「―――でも、わたくしは本当に見たのよ。間違いないもの」

 腕にすがりついたまま、紀乃を見上げる藤の宮に、目の前に座りこんで前のめりに詰め寄る二人。

 いけない、いつの間にか三人に増えた。

 紀乃はあっちを向き、こっちを向いて宥めにかかる。しかし、あっちを宥めるとこっちが騒ぐ。こっちを宥めるとあっちが口を出す。四人でワイワイガヤガヤと騒々しくしていると、妻戸から声がした。

「あら、皆さんで何やら楽しそうに……」

 いつの間に帰って来たのやら、常磐がそれまでと変わりない微笑みで、燭台に火を入れるのに使う脂燭しそくを片手に立っている。仕事がら物音に敏感な紀乃もまったく気が付かなかった。

 猫みたいな、人ねぇ……。

 紀乃の視線に、常磐が顔を向ける。

「紀乃さん、ゆっくり休めまして?」

 常磐の微笑を、紀乃は無言で見詰めた。

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