第17話 スミス海

 


 叩き付けるような雨の中、俺は温州(うんしゅう)と蘇芳(すおう)の姿を探していた。



 道すがら、降り続く雨を手の中に集め、口へ。

 不純物の少ない南国の雨からは水本来の味を感じる。

 水本来の味。つまり「無」だ。

 さらさらした水を口に含み、ごくりと嚥下する。

 無色透明のそれは唾液や血、泥といった異物を貪欲に取り込み、自ら透明であることをやめようとする。

 口内、食道、胃の澱が溶けていく感覚に、ふいぃ、と嘆息した。

 ひと昔前に流行ったデトックスとやらの意味がようやく分かった。なるほど気分がいい。身体中の毒素が抜け落ちるようだ。


 見上げれば鈍色の厚い雲。

 今にもごろごろと雷が鳴り出しそうだった。



 探し物のうちの片方、温州はすぐに見つかる。

 彼女が歩いた跡には点々と鉢が並べられ、大きな貝殻が口を上に向けていた。

 当座の用途を思いつかなかった黒目の歪な骨片も彼女にかかればお猪口に変わる。


 彼女はジンジャーの墓の前に屈んでいた。


「温州」


 ざあざあと降る雨の中では俺の声が届かない。

 ぬかるむ土を踏み、彼女の肩を叩いた。


「っ、おじさん」


 温州は手を泥だらけにしていた。


「何してるんだ」


「お墓、流れちゃうかも知れないから」


 温州はジンジャーの墓を埋め直していたらしい。

 見れば泥の隙間から僅かに花が見えていた。


「もうちょっと生きててくれたら、お水……たくさん飲めたのにね」


「……そうだな」


 遺骸の口を開いて真水を注いでやった方が良いだろうか。

 ――――いや、そんなことをあいつは喜ばないだろう。

 死んだ奴に構ってないで自分が生きる術を探せとばかりに、ばうっと強く吠えるに違いない。


「ナタネちゃんは?」


「緑目を殺すまでは死ななさそうだ」


 狂気に満ちたナタネの表情を追い出し、ぶるりと震える。

 ん、と温州は小さく俯く。


「おじ――――も……」


「何?」


 どざああ、と急激に雨足が強まる。

 俺と温州の間に降る雨は無数のガラス管のように見えた。

 蹲ったままの彼女は確かに俺を見上げているのだが、その表情が分からない。

 笑っているようにも見えたし、泣いているようにも見える。


 さああ、とリモコンで音量を下げられたかのように葉を叩く音が遠ざかっていった。

 とりわけ濃い雲が通り過ぎたせいか、世界が少し明るく見える。 


「何でもないです」


 にっこり。

 作られた笑顔を前に、俺も曖昧に笑う。


 蜜輪温州(みつわうんしゅう)はそのままジンジャーの墓に手を合わせた。

 濡れた黒髪が背に垂れ、毛先からは幾筋もの真水が流れ落ちている。

 白く濡れたシャツの先にはぽこりと膨らんだ背骨が連なり、素肌を流れた滴はスカートのウエスト部分に吸い込まれていく。


 ややあって、彼女は合掌をやめた。俺も合わせた手を離す。


「……行くか?」


「はい」


 立ち上がった温州は既に凛然とした表情を取り戻していた。

 おっとりした雰囲気は消え、降る雨は彼女の肌でぱちぱちと弾けている。


「あのヤドカリ、どう討ち取ります?」


 黒髪を濡らす雨も今は汗のように見えた。

 薙刀を背負う彼女はさながらどしゃ降りの合戦へと向かう女武者か。


「君はどう思う」


「方針は前回と変わりません。おじさんの言う通り、脚を潰すべきだと思います」


 蘇芳の元へ向かう俺達は短いやり取りを繰り返す。

 ぐじゅ、ぐじゅ、と靴の下で泥が呻いた。


「ただ、潰せるビジョンが見えません」


「……」


「ロープが切られるところまでは想定の範囲内です。でもあいつは……何と言うか」


「罠そのものに掛からない気がする?」


 先回りして言葉を拾うと、温州は深く頷いた。


「あのマトゥアハ、腕を切り落としていましたよね」


「ああ」


「新しく生えた腕……あれ、どう見ても一時間やそこらで生えるものじゃなかった気がします」


「ずっと前から切ってたんだ」


 おそらくは赤目のマトゥアハを殺した次の夕方。

 あの時点で緑目は「仕込んだ」。

 海辺に居座ることで逃走の可能性を匂わせつつ、盾鋏をそっと切り落としていた。


 目を引きやすい殻と腕を囮に、俺たちの虚を突く。

 呆れるほど単純な意識誘導(ミスディレクション)だ。

 今思い出しても己の間抜けさに腹が立つ。


「……もし私たちが途中であいつを襲っていたら、結果は違ったと思います?」


「思わねえ。あいつは多分、作戦を変えてたはずだ」


 俺達が一敗地に塗れたのは結果論ではない。

 仮に何らかの方法で奴の奇策を見破ったとしても、緑目のマトゥアハは次善の手を打ったに違いない。

 次善の手が通じなければ「島津の退き口」すらやってのけたかも知れない。


 思索に耽る俺を横目で見ていた温州が再び前方を見やる。


「罠は不意を突かなければ意味がありません」


「そうだな」


「十重二重に策を張り巡らせるような相手に私たちの知恵が通じるでしょうか」


「見破られても平気な罠を作るって方法もある」


「……できますか、おじさん」


「いや……」


 俺たちは兵法に通じた策士じゃない。

 ただのおっさんと女子高生だ。

 愚鈍な奴ならまだしも、一定の知性ある生物相手に「王手飛車取り」を突き付けるほどの賢さは無い。


「こちらの奇策が通じないのなら――――」


 温州は薙刀をきつく握りしめる。


「――――犠牲を覚悟で正面衝突するか」 


 どちらからともなく口を噤むと、雨足がまた強くなった。

 葉を叩いていた水はいつしか土を水たまりへと変え、ぽちょぽちょと軽い音を立てている。


「昨夜、片目を潰した。今のあいつには完全な死角ができてる」


「私達がそこを狙うと知っているのだから緑目は必ず先読みしてきます」


「いいや。俺達がそこを狙うと知ってるからこそ、あいつはそこへ注意を割り振らない」


「え?」


「不意打ちは読まれてる。俺達はそう考えて奴の死角に手を出さない。……と、奴自身は読んでいる。だから逆の手が使える」


 じゃんけんと同じだ。

 裏の裏を掻く。


「それも読まれているかも知れません」


 温州は悲観的だった。

 いや、この場合は現実的と言うべきか。


 俺達は奴に一杯食わされ、大敗した。結果、大切な仲間をも喪った。

 この経験は俺達に「緑目のマトゥアハと知恵比べをしても敗ける」という強烈なインパクトを残した。

 成功体験が人の成長を促すのであれば逆もまた真なり。

 失敗の経験は人間を萎縮させ、想像力を剪定する。


 敵をみくびらず、賢く見積もるのはいいことだ。

 だが物事には限度がある。

 どんなに知恵を捻っても敵はそれを読んでいる、敵はそれを見透かしていると考え始めると思考そのものが成り立たなくなる。

 考えても考えても敵が先回りしているかも知れないという恐怖。

 温州は正に今、その状況に陥っていた。


「今度失敗したら……また誰かが死ぬかも知れません」


 温州の唇は微かに震えていた。

 こんな時、俺が眉目秀麗な若い男なら彼女を抱きすくめて唇を塞いでやるのだが、そうはいかない。

 俺は彼女の頭を撫でることも、優しい言葉をかけてやることもできなかった。


「……」


 温州はそれきり、言葉を発しなかった。



 ざああ、と雨降る道を無言のまま歩く。

 俺たちの間には硬い雨が降り注ぐ。



(……)


 俺はある種の楽観が混じった覚悟を決めていた。


 緑目さえ殺せば、もう怪物は残っていない。

 ここから陸までの海はいつも凪いでいる。その気になれば泳いで帰ることもできるはずだ。

 守り神であり厄神でもあるマトゥアハを失った漁民共はおそらく生還者に手を出さないだろう。

 よくも神様を殺したな、殺してやる、なんて叫ぶ度胸があるのなら彼らはとっくにマトゥアハに立ち向かっている。


 つまり――――

 次のマトゥアハとの戦いでは。



 刺し違えても、いい。








 紫女川蘇芳(しめかわすおう)の歩んだ跡には象が歩いたかのごとき窪みが散見された。

 少しでも真水を蓄えようと骨をショベル代わりに使ったのだろう。

 雨水の溜まるそれらを追った俺達は石造りの建物へとたどり着く。

 青目と戦う前に発見し、有益なモノが見つからなかったので放置していた建物だ。


「みっちゃん。おじさま」


 蘇芳は公衆浴場のような構造物に身を丸める骸骨の手を握っているところだった。

 スポーツブラ一枚の女子高生はすっかり透けた乳房を隠しもせず、俺達に向き直る。


「……こんなとこにいたのか」


 俺は建造物の天井をぐるりと見渡す。

 石の外壁を雨が叩く音だけが響いている。


「二人とも風邪を引きますよ。雨が上がったら火に当たりましょう」


「火ってあの白い火?」


「そう。さっきちらっと見えたけど、普通に燃えてる」


 どういう原理なんだろうな、と呟きながら俺は浴槽の一つに腰かけた。

 骸骨が収まっているのは風呂の一つだけらしく、後はすべて空っぽだ。

 風呂の底には人為的につけたと思しき溝が走っており、外へと通じているようだった。


「しめっち」


 温州は薙刀を握ったまま、しげしげと骸骨を眺めていた。

 どこぞの民家で見つけたものより損傷と劣化が激しく、泥の塊のようだった。

 ここまで来ると恐怖より好奇心の方が勝るだろう。


「何か見つかった?」


「いくつか使えそうなものがあった。あれとか」


 蘇芳が親指で示したのは古代の貨幣のような代物だった。

 黒ずんでいるので素材は分かりづらいが、形は――――分銅のようだ。


「! それ……」


「知ってるんですか」


「ああ。めちゃくちゃ重い奴だろ」


 蘇芳は十個近く積まれたそれを爪先で軽く蹴る。

 分銅は音すら立てず、無言で蹴りを受け止めた。


「はい。重いです。合金の類かも知れません」


「何でここにこんなに……」


「さあ。漬物を作っていたようには見えませんが」


 俺と同じく浴槽の縁に腰かけた温州が弾かれたように立ち上がる。


「おじさん! これ、外に出すか天井を崩して水を溜めません?」


「お、それいいな」


「底、溝がありますけど葉っぱをきつく敷いてしまえば――――」


「待った」


 蘇芳が鋭く言葉を投げた。


「やめた方がいいと思う」


「どうして?」


 蘇芳は温州にではなく、俺に向かって話し始める。


「おそらくここはモガリのような施設だと思います」


「モガ……何だって?」


「殯(もがり)です。死者を棺に入れた後、白骨化するまで安置する葬祭形式のことです。ここがどういった来歴の島なのかは分かりませんが、文明の程度からしてそういった古代の風習が残っていたとしても不思議ではないかと」


「う」


 モガリとやらの意味は理解できなかったが、浴槽の底に走る溝の理由を知った俺は慌てて飛び退いた。

 おそらく腐敗した血肉を外へ流れ出させる為に作られているのだろう。


「ここまで風化していればほとんど関係ないと思いますが、やはりちょっと……」


「そ、うだな。やめとこう」


 俺は浴槽を覗き込んだ。

 確かに人ひとりが収まるにはちょうど良い大きさだ。


「日ごとに腐り、骨に変わっていく死者を観察するすることで気持ちの整理をつけるための儀式だったと聞いています」


「ふうん。……」


「入りたいんですか?」


 ふふ、と温州が笑う。


「全部終わったらな」


 俺は濡れた髪を手で撫でた。


「ここに入って寝てるから、次の日まだ息をしてたら泥を被せといてくれ」


「……何言ってるんですか」


 温州の声は笑っていなかった。

 程よく冷えた両腕に彼女の視線がちりりと突き刺さった。



 適当な場所に腰を落ち着けた俺達は外壁を叩く雨音に聞き入っていた。

 じゃり、かちゃ、と蘇芳が遺跡発掘調査員のように骸骨を検分する音だけが響く。



 ややあって、彼女は口火を切った。


「……大きく分けて三つだと思います」


「? 何がだ」


「マトゥアハに対して効果的な攻撃手段です」


 矢庭に話題を振った彼女はそっと死者を浴槽へと戻し、ぱんぱんと手を叩く。


「認識違いがあったら教えてください。おじさまは黒目を窒息死させて、赤目を燭台に吊るして殺し、青目を自滅させた、で合っていますか」


 ああ、と俺は彼女に語った話を脳内でリフレインする。


「前後の状況に食い違いがあるかも知れませんが、奴らに最も有効だったのは(1)呼吸器への攻撃、(2)奴ら自身の身体構造を利用した攻撃、(3)別のマトゥアハの器官を使った攻撃だと考えています」


「……たぶん合ってる」


 こく、と蘇芳は頷いた。

 彼女の歩いた跡にはぽたりぽたりと滴が続き、俺と温州の足元に広がる水たまりと合流する。


「では闇雲に罠を張るのではなく、それらを軸に戦術を練るのが良いかと」


「しめっちが考えてよ」


 温州が割り込んだ。

 彼女の横顔は明らかに俺の視線を避けていた。


「そこまで考えられる頭があるんだから」


 俺も深く頷いた。

 作戦立案に必要なのは論理的で合理的な思考だ。

 俺は場当たり的にマトゥアハを撃破してくたが、筋道立てて作戦を練ったのは赤目の時の一回だけだ。

 次に戦うのが赤目より用心深い緑目である以上、こちらもより頭の回る奴が指揮を執った方がいい。


 だが蘇芳は申し訳なさそうに首を振る。


「私は……責任を負えないから」


「責任? そんなこと――――」


「い、嫌。だってちょっとでも読み間違えたら――――」


 彼女はその先の言葉を飲み込んだ。


 そう。

 読み間違えたら「ごめん」では済まない。

 下手をすれば友を失い、自分の命をも失う。


 軍師や策士にはある種のふてぶてしさが必要になるという。

 味方を駒と断じ、時に捨てることすら厭わない、冷酷なまでの意志力。

 蘇芳にはそれが無い。


 ――――なら、やるのは俺だ。

 俺とて彼女達を死なせてしまった時に責任は取れないが、怨まれる覚悟ぐらいは決めている。


 いや。

 怨まれても構わないと思える程度には己の魂を安く見積もっている。

 何が何でも彼女達を助けたいと思う反面、俺の心の片隅にはいつも無言の諦観が居座っているのだ。

 そいつはこう呟く瞬間を待っている。

 やっぱり助けられなかったな、と。


「……呼吸器を潰すってのがたぶん最善手だ」


 俺が話し始めると二人は押し黙った。


「あいつらの庭は海だ。いくら強い怪物でも、息を止めて長く活動はできねえ」


「ヤドカリはどうか知りませんが、カニは脚の一部に水を溜めていると聞きます」


「水を溜めてる脚を探してみるか?」


「……そんなことするぐらいなら普通に脚を潰して回った方がいいと思いますけど」


 温州は浴槽に腰かけたまま、脚をぶらぶらと揺らす。

 ふて腐れたような物言い。

 どうやら俺は彼女の気に障ることでも言ってしまったらしい。

 だが今はそれに構っている場合じゃない。


「もし本気で窒息させるならどこにあるかも分からない「水溜り」を潰すより、落とし穴を掘るとか身動きが取れない状況に追い込んだ方が早いと思います」


「ああ」


 その通りだ。

 黒目と違い、緑目の呼吸器は見えない。ピンポイントで狙うのは難しい。

 呼吸の阻害は副次的な効果と考えておくべきだ。


「それにあんまり露骨にやるとこっちの狙いがバレる可能性がある」


 二人は「ヤドカリに作戦を見透かされる」という頓狂な話を否定しなかった。

 たぶんそれでいい。

 奴のことは過大評価してもまだ足りない。


「あのデカイのが入る落とし穴か……」


「地形を使えばできなくもありませんが、誘導する必要がでてきます」


「微妙だな」


 では奴ら自身の身体構造を利用するのはどうだろう。

 青目を仕留めた時のようにマトゥアハの巨体を逆手に取り、自滅させる策。


「状況が限定されます」


 蘇芳は短い言葉でこれを退けた。

 俺も同意見だ。


「鋏を自分に突き立てさせるとか、できないかな?」


「奴の体を利用する為には奴に近づかないといけない。あいつは私達が策を弄していることを読んでいる。おかしな近づき方をすれば見破られると思う」


 違いますか、と蘇芳に水を向けられた俺は重々しく頷いた。

 青目の時のようなハットトリックを二度も起こすのは無理だ。


 では、と俺は満を持してその可能性を口にする。


「別のマトゥアハを使う、か」


 二人がすぐに返事をしなかったのは、おそらくめいめい何か考えがあるからだろう。


 黒目のマトゥアハ。

 今や俺達の生存になくてはならない骨片。

 薙刀、刀、棍棒に加工可能で、極めて強靭。そして鋭利。


 赤目のマトゥアハ。

 遅効性の毒触手と強靭なヒレ。

 死体は海岸に打ち棄てられており、腐敗と発酵を待つばかりだ。

 蟹も近寄らないほどの毒素が生物を遠ざけているらしい。


 そして昨夜斃した青目のマトゥアハ。

 巨大ウツボと巨竜。


「……アレの解体が先ですね。血、脂、骨、皮、肉。使える部位が山ほどある」


「赤目の腺も残ってる。あれが一番いい」


 俺は温州が緑目を絡め取った時のことを思い出していた。

 あの強靭な腺は未だにちぎられも切断されもしていない。

 おそらく奴を仕留めるうえでのキーアイテムは『腺』だ。


 少し小さいが分銅もある。

 赤目の時のように決定打にはなりえないが、うまく使えば効果的な破壊をもたらすことができるだろう。


 他には何だ。

 何が使える?


 雨が降っても消えない炎。

 柔らかい土。

 木々。

 蔓。  


「……」



 幾つかの材料を検討し、俺は一つの案を出す。

 たっぷり小一時間ほどののプレゼンを添えて。


 温州と蘇芳は更に数時間かけて様々な角度からそのプランを検討し、吟味し――――


 ――――そして了承してくれた。






 半日は瞬く間に過ぎた。



 雨が上がって服を乾かした後、蘇芳は更なる攻撃手段獲得のために集落の捜索を提案した。

 俺たちは廃墟のごとき集落へ足を踏み入れ、民家や集会所、広い料理場、共同浴場、それに祭祀に使っていたと思しき広場を歩き回った。

 大したものは見つからず、俺たちは肩を落とした。

 蘇芳はしきりにおかしいおかしいと呟いていたが、その理由は教えてくれなかった。



 一日は瞬く間に過ぎた。



 ナタネの変貌は俺達を驚かせた。

 彼女は熱心に昆虫を捉え、片っ端から焼いて食らった。

 そして巨竜『青目の巣』を解体し、血脂にまみれたままふらりと姿を消したりもした。


 俺が復讐を焚き付けたことに対して温州と蘇芳は何も言わなかった。

 ただ求められるがままに彼女達はナタネに殺しの方法をレクチャーしていた。

 褐色の少女はスポンジのように二人の技術を吸収し、くつくつと笑っていた。



 最後の一日は瞬く間に過ぎた。



 俺は結局、温州を抱かなかった。

 彼女はどこかよそよそしかったのだ。


 おそらく俺が胸の奥にしまった感情、捨て鉢の自己犠牲に気づいているのだろう。

 そして弁明を待っている。


 死にに来た。

 俺はここへ死にに来た。

 だから君らを助ける為なら死んでもいいと思ってる。

 いざとなったら刺し違えてでもあいつを殺す。

 だから安心してくれ。

 ――――ほんの十数秒で済む話だ。


 だがそれを口にすることが温州にどんな変化をもたらすか、俺には分からなかった。

 彼女を発奮させるかも知れない。士気を削ぐかも知れない。余計な注意を払わせるかも知れない。 

 それが彼女の命取りになるかも知れない。

 どの反応が返って来るか分からない間は、何も話したくなかった。

 こんな無人島に来てまで、人心の機微への疎さは俺の足を引っ張ってくれるらしい。



 幸いにして俺のコンディションは上々だった。

 火傷痕のように黒ずんでいることを除けば腕の太さも戻っており、脚の痛みも引いている。


 俺は静かに殺意を研いだ。






 決戦の夜、天には満点の星空が広がっていた。

 時折ちかちかと瞬く星は静かなる観衆のようでもあった。




 最後のマトゥアハ、『緑目』は意外なことに正面から姿を現した。

 黒い海に浮かび上がった巨岩は徐々にその威容を露わにし、海水の膜が破られた。

 緑色の単眼が俺達を見上げる。


(来やがったな)


 片目を失い、盾鋏を捨てた「シャコヤドカリウミサソリ」は堂々たる足取りで上陸する。

 両腕は肉厚の偃月刀(シャムシール)。

 爪脚の一つ一つは慈悲の短剣(ミゼリコルド)。

 心なしか鋭さを増したように見える刃を突き立て、モスグリーンの怪物が貝殻海岸を踏み進む。


(……ビビんな)


 棍棒を吊るした俺は腕を組み、どっしりと構える。

 隣に立つ温州もまた、薙刀を握ったまま奴から目を逸らさない。


 距離は遥かに数十メートル。

 奴は俺達の姿を認めるや、速くもなく、遅くもないスピードで迫る。

 緑目の後方では、忘れた頃にからりからりと貝の山が崩れていた。


 どっくん、と心臓が一つ鳴る。

 それを合図に、どくっどくっどくっと心拍が上昇する。

 喉から音が飛び出しそうなほどの緊張の中、片手で口を抑える。

 見れば温州も同じことをしていた。


 俺が彼女から緑目へ視線を戻すと、彼女も俺を見るのが分かる。

 頬に触れる視線はやがて俺と同じ方を向いた。


「……おじさん」


「ん?」


「生き残ったらもう一回、できますから」


「一回だけか?」


「それはおじさんの働き次第です」


 ふっとか細い笑みが俺達の唇を過ぎり、消える。


 一軒屋程もある大ヤドカリは辺りに散らばる巨大ウツボ、青目のマトゥアハには目もくれなかった。

 ヒレの網を解いたことで奴らの死体は海岸に散乱している。

 恨みがましそうな青目は四方八方に向けられ、煙るような異臭が辺りに漂っていた。

 奴らが巣としていた巨竜は既に解体され、二目と見られぬ肉塊に変じている。


 距離、五十メートル。


 がりり、と一本の爪脚に体重が乗る音が届いた。

 ざりり、と次の脚。

 がり、とまた次の脚。


 がりり、ざりり、じゃり、ごりり、とヤドカリが歩を早める。

 早める毎に鼓動も速度を増す。


 がり、がりがり、がり、がりり、と徐々に徐々に歩脚の歩幅が狭まる。

 貝を踏む音が近づき、迫る。


(そうだ。来い……!)


 生唾を呑む。

 ビー玉のような唾液の塊が食道を下る。



 その瞬間、俺は「やってしまった」。



 ついと緑目から視線を外し、腹の膨れた一匹の青目を見た。

 あっと声を発する間もなく、緑目の軽やかなタップが乱れる。



 爪脚が高らかに持ち上がり――――




 ――――蘇芳の潜むウツボを貫く。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る