第13話 フンボルト海

 

 甲羅から滑り出した一つ目ウツボの大群は雪崩の速度で迫る。

 地獄の剣山を想起させるおぞましい牙がかち鳴らされ、マトゥアハをマトゥアハたらしめる「目」が俺を見据えた。

 闇に光る無数の青目。


 俺は矢も盾も投げ出す勢いでUターン――――


(……!!)


 しない。


 できない。


 なぜならウツボの大群のうち半分ほどは温州とナタネの居る方角へと向かったからだ。

 ぐねぐねと蛇行するアナコンダ並みの巨躯が石柱に咲いた灰色の炎を通り過ぎ、腐敗しかけた赤目の死骸を通り過ぎる。

 奴らの視線の先では恐怖に顔を歪めたナタネと温州が立ちすくんでいた。


「温州ッ!! ナタネッッ!!」


 そうだ。今の俺は一人じゃない。

 俺が逃げ回れば逃げ回った分だけ窮地に陥る奴がいる。

 正直に言えば重たい。煩わしい。面倒だ。

 だが行かなければ。


 元来た海沿いの道ではなく、斜面の脇を駆け上がる。

 かなり急だが両手をつけばかろうじて這い上がることができる道だ。

 すぐ傍で上へ上へと向かうウツボ共の動きは速い。緩やかに蛇行していなければあっという間に引き離されていただろう。


 俺の背後に迫っていた奴らは急斜面を這い上がることができず、先遣隊の後に続く形で温州達へ襲い掛かる。


「くっ! ぐうっ!!」


 石を掴み、砂に指を立てるその度に気を失うほどの激痛が走る。

 もし少しでも手を抜けばあっという間に滑落してしまうだろう。

 恐怖で尻穴が凍る。爪の剥げた指から血が流れる。砂埃を浴び、瞼の裏にまで小石が溜まる。

 だが手を止めない。目は閉じない。


 ウツボ共と競い合うようにして斜面を駆け上がる。


「おおおおっっ!!!」


 苦しみの崖を這い上がった時点で、俺はウツボ共に対して十メートルほどのアドバンテージを得ていた。

 たった十メートル。十秒足らずで消える優勢。

 だが意味はある。


「温州!!」


 女子高生と少女は樹上に逃げ込もうとしていた。

 ナタネは温州の肩に捕まり、その温州は口に薙刀を咥えて木を登る。


 これも火事場の馬鹿力と言えるのか。

 的確に太い枝を掴み、踏み、掴んだ温州が地上5メートルほどの位置に陣取り、口から離した槍を握る。

 根元に到達した俺はたたらを踏み、白い下着を見上げていた。


「おじさん! 登ってっっ!!」


「バッカ野郎! こいつらウツボだぞ!! 登って――――」


「来るわけないでしょ! ウツボですよ!!?」


 はっと俺が状況を飲み込むのと、首筋に突き刺さる視線を感じるのが同時だった。

 奴らは標的を俺に変え、ブラックマンバの速度で迫る。

 サーチライトのような青目に見据えられ、背筋が凍る。


「っ」


 判断は一瞬。

 登るか。よすか。


 俺は後者を選んだ。


「っおじさん!」


「登れるかよ俺が!!」


 このふくよかな体型であの二人のように木を登れるか。

 仮に登れたとして枝が折れる危険性がある。


 俺は腐りかけた民家に飛び込み、炊事場へ。

 棒きれ一本で支えられた、田舎の便所のような窓の縁に足を乗せ、どうにか屋根へと這い上が――――



 ずるっと足が滑る。



「ヒッ!」


 ずどん、と尻から地面に落ちた。

 室内ならまだしも滑落した先は屋外だった。


「おじさんっ!?」


「ジューグッ!!」


「いっ、あ……」


 顔を上げれば、海に臨む申し訳程度の藪にぎょろぎょろした青い目が迫っている。


 直感した。

 間に合わない、と。


 ウツボの大群は既に俺との距離を5メートルまで詰めている。


 地面を押して立ち上がる間に3メートル。

 振り返った時には2メートル。

 窓枠に片脚を乗せた時点で1メートル。


 ぎりぎり、追いつかれる。


(――――ッ)


 きゅううっと心臓が縮んだ。小便が漏れた。

 こんなにも死は呆気なく訪れるのか。

 祈る暇も辞世の句を詠む間もなく、ウツボの一団が俺目がけて飛びかかり――――



 ジンジャーの荒々しい咆哮が夜気を裂く。



 わうわうわうわうっ、と吠えたてた白犬を前にウツボ共が二の足を踏む。

 ウツボが二の足とはおかしな話だが、奴らは思いがけない敵を前に本能的に急停止した。

 きっと犬などというものと相対するのは初めてなのだろう。


 すぐさま地面を押し、窓枠に飛び乗る。


「ジンジャーッ!!」


 ぱんぱんに腫れた腕を伸ばす。

 わんっと一声吠えた戦友が白狼のごとき跳躍で俺の腕に飛び込む。

 毛の少ない彼をしっかりと抱きかかえ、まずジンジャーを屋根の上へ。

 続いて俺が這い上がり、そこで逃亡劇は終わった。


 苔でぬるぬるになった屋根には既に小さな植物の芽が吹いていた。


 数メートル下では大腸と小腸をぶちまけたかのようにウツボがうねり、ぬめっている。

 じっと見つめていると催眠術にでもかかってしまいそうで、俺は夜空を仰いだ。

 間抜けなほどきれいな月が見えていた。


「はっ、はっ……はっ」


 もうダメだ。もうスタミナが切れた。


「おじさん!」


 十メートルほど先から温州が声を投げる。

 彼女の足元にもウツボの大群が迫っていたが、どうやら見立て通り木登りはできないらしい。

 苛立ちまぎれなのか、青目共は互いに噛み付き合い、威嚇し合っている。


「大丈夫ですか!?」


「平気だ! そっちは!?」


「大丈夫です! 爪が割れただけ!」


 大事じゃねえか。そんな悪態をつきかけ、俺は海を見やる。


 ドジョウタイマイリュウグウノツカイだったか。リュウグウノドジョウタイマイだったか。何でもいい。

 ともかくあの巨大な奴は貝殻海岸にぼうっと腰を落ち着けていた。

 襲ってくる気配も、移動する様子もない。


 つまりあの巨体は「生きた巣」。

 真の『青目』とはこの巨大ウツボの大群のことだったらしい。


(何て数だ)


 二十匹近いマトゥアハの群れは俺と温州の足元を行ったり来たりしている。

 まるで地下アイドルのパンチラ目当てに群がるカメラマンのようだ。いや、この執拗さは犯罪被害者に群がるマスコミか。


 これまでのマトゥアハは巨大だったが、一体だけだった。

 今度のこいつらは小柄だが数が多すぎる。囲まれたらどんな悲惨な最期を迎えるか、考えたくもない。


(一匹ずつぶっ叩く訳にもいかねえ。どうする……)


 今この瞬間は安全だ。観察と思考をする余裕もある。

 だがそれは長くは続かないだろう。


 海に目を凝らすと『青目の巣』の向こうには緑目のマトゥアハがどっしりと構えている。

 白いサンゴの殻を被ったヤドカリは未だ動かず、見るに値しないとばかりに盾鋏で顔を覆っていた。


(あいつが今襲ってきたら逃げ場がねえぞ……!)


 最悪の事態はいつ訪れるとも限らない。

 ぱんぱん、と両頬を叩く。顎の肉にが漣が立つ。


(考えろ。考えろ俺……!)


 ウツボ。ウツボだ。

 肉食性の魚。ヒレが頭から尻尾まで繋がっており、カワハギやマンボウのように平たい。

 だが、と真下を見る。


 夜のプールを照らすライトのように青目が俺を見上げている。

 身体こそウツボの常識に収まっているが、奴らの頭部は三角形で平たい。マムシにそっくりだ。

 あの形なら陸上でも支障なく獲物を食い殺せるのだろう。 


(!)


 陸に揚がっている。ということは肺呼吸か。

 いや違うな、と俺は奴らの棲んでいた場所を思い出す。

 こいつらはあの巨大生物の甲羅に棲みついていた。とてもじゃないが肺呼吸で生活できるとは思えない。

 鰓(えら)だ。こいつらの呼吸方法は、鰓。


「……なるほどな」


 奴らの体はひどくぬめっている。

 おそらく保水性の高い粘液が陸上での鰓呼吸を可能にしているのだろう。緑目と似たタイプだ。

 つまり時間が経てば自然とこいつらは水場へ戻る。


(ってことは)


 青目の巣を再び見る。

 あの甲羅にはこいつらの居室スペースが確保されており、そこには海水がたっぷり詰まっているということだろう。

 例えるなら空母と戦闘機か。

 燃料が足りなくなれば帰投し、補給を得てから再び出撃する。




 俺の仮説が正しいことは十数分後に立証された。



 陸上でうねっていた青目共は潮が引くように一斉に斜面を下っていったのだ。

 奴らが甲羅へ飛び込む度に、ドジョウ竜が痙攣していた。

 その様はまるで子供達に秘所をまさぐられる盲目の奴隷女のようで、何となく勃起してしまった。



 木から飛び降りた温州とナタネが合流する。


「おじさん!」


 俺は胸に飛び込んできた二人を抱き止め、よしよしと頭を撫でてやった。

 ジンジャーはちぎれんばかりに尾を振っている。


「どうしますか、あれ」


 ナタネは安堵感で泣き崩れてしまいそうになっていたが、温州はすぐに切り替えた。

 葉っぱの鉢巻を巻いた女武者は薙刀を振る。


「上から一匹ずつ潰しましょうか」


「いや、危ねえ」


「緑目が来るかも知れないからですか?」


「それもあるが、槍ごと持っていかれるかも知れん」


 海棲生物を銛で仕留める時、最も危険なのがインパクト直後だ。

 釣り針を食らった魚は死にもの狂いで暴れる。奴らは時に竿すら海中へ引きずり込む。

 体長5メートルはあろうかというウツボに槍を立てたらどうなるか。

 十中八九、温州は競り負ける。地面に引きずり下ろされてミンチにされる。


「蔓の罠は……ダメですよね」


「あんなぬるぬるしてちゃダメだな」


 俺はしばし考え、言う。



「……あのデカイのに乗り込んで巣ごと潰す」



「っ、だめです」


 温州はきっぱりと否定した。

 その目には怒りの色が見える。


「殺すより護るんじゃなかったんですか! 時間がかかってもいいから屋根の上で待ち伏せして一匹ずつ確実に――――」


「あそこにもたぶん人が居る。お前のお友達か、先生のどっちかだ」


「……」


「待て待て」


 俺は考え込もうとする温州を軽くどついて思考を中断させる。

 そして初めて、彼女に怒気をぶつけた。


「決めるのは俺だ。お前じゃねえ」


 確かに護りに徹すれば最小限のリスクで青目を殲滅する可能性が見えて来る。

 だがもし戦闘が長引けば? 今夜討ち取ることができなければ? 次に青目が姿を見せるのは三日後だ。緑目に至っては六日後になるおそれがある。

 次に出くわしたその時、中の女は死んでいるかも知れない。

 今この場で守勢を選ぶということはとりもなおさず、囚われの女を見殺しにすることに等しい。

 だから温州には考えさせない。選ばせない。決断させない。


 若い頃、上司によく言われた。

 お前に責任を取る権利は無い、と。

 今や俺がその立場だ。

 あの上司のように立派な背中にはなれなかったが、それでも。


「決めるのは俺だ」


 もちろん、緑目が動かないという保証もない。

 屋上からちまちまと青目をいたぶっている内に奴が動き出せば一巻の終わりだ。

 つまるところ、攻めようが護ろうが一定のリスクは生じる。


「そんな……私……」


 頬を張られでもしたかのように温州が顔を伏せた。

 その指先は裂け、血で濡れている。木登りをする時に相当な無茶をやったのだろう。

 俺は心の中で彼女に深く謝りながらもう一つの懸念を口にする。

 ――――少しずるい言葉かも知れない。


「あそこが本当に青目の巣なら、必ず潰さなきゃならねえ」


「?」


「卵があるかも知れんだろ」


「っ! そうか……そうですね」


 温州の表情は驚愕から納得、決意そして逡巡へと変化した。

 逡巡の後、彼女が行き着いたのは覚悟。


 すまん、と俺はまた詫びる。

 マトゥアハが卵生かどうかなんて俺には分かりっこない。

 卵があるかも、なんてのは無数の可能性の一つに過ぎない。


 俺はこの二人と一匹を護ってやりたい。

 だが護るというのは何も命を救うことだけじゃない。

 今ここで友人を見殺しにするなんて体験をさせれば、蜜輪温州(みつわうんしゅう)の人生は「終わる」。

 俺は懸念を口にすることで温州の背中を押したのだ。

 一秒でも長く生き残る道ではなく、命を懸けて誰かを救う道へ進ませた。


 これは正しいことなのだろうか。

 もしこれで温州が死にでもしたら俺は命の重さに耐えかねて死ぬかも知れないのに。

 いやそれは中の子たちを見殺しにしても同じだ。

 いいのか。本当にいいのか。

 捕まっている二人を見殺しにして温州とナタネの生存に全力を尽くすべきじゃないのか。

 いや。どの道マトゥアハとの戦いは避けては通れない。緑目と青目が同時に襲ってきたら俺たちは死ぬしかないのだ。

 今やらなければ事態はもっと悪くなるぞ。


 脳内で冷静な俺と熱い俺、愚鈍な俺と狡猾な俺が問答を続けている。

 答えは出ない。俺の目には正しい道が見えない。


「作戦、あるんですか」


 温州の声ではっと我に返る。


「勝機はある」


 聞きたいです、と少女は呟いた。


「あの巣はたぶん独立した縦穴になってる」


「どうしてそう思うんです?」


「気性が荒いからだ。さっき喧嘩してる青目がいただろ? ああいうのが一つの穴に収まってるならもっと皮膚がズタズタになってなきゃおかしい」


 ん、と温州は少し悩んでいるようだった。


「独立した縦穴になってたらどうにかできるんですか?」


「できる」


 たぶんな、と心の中で付け加える。

 勝率は三割程度。いや二割か。


 十割勝てる完璧な策があればどんなに嬉しいことだろう。

 いつもそうだ。俺の手札はせいぜいワンペアだ。困難に対してフルハウスで挑めた記憶が無い。

 だったらワンペアでも勝てるようにイカサマをしなければ。



 準備を始める。



「ジューグ!」 


 見張りに残したナタネの指差す方を見ると、甲羅から連中が飛び出すのが見えた。

 インターバルは約十五分。


「屋根に乗れ。気を抜くなよ」


 緑目を見やる。

 奴はまだ動かない。




 続いての襲撃を俺達はある程度の余裕をもってかわすことができた。

 その次もだ。


 わらわらと這い寄る青目共は民家の屋上に避難した俺たちを恨めしそうに眺め、約二十分後、酸素補充のために巣穴へ戻る。

 最後の一匹が視界から消えるのを見送り、民家を降りた俺はジンジャーを伴って斜面へ。


「温州! 青目はいい。緑目に注意しろよ」


「分かってます」


 温州とナタネは民家の屋根に登っている。

 俺が前線に出れば青目は俺を狙うはずだが、万が一ということも考えられる。

 女武者は腰に骨太刀、背中に薙刀を背負い、幼いナタネを庇って立つ。


(……)


 青目を斃す用意を整える間も緑目の奴は動かなかった。

 盾鋏の隙間から緑色の目でこちらを窺っている。


(横っ腹なんか叩かせねえ)


 俺はヤドカリ野郎に最大限の注意を払いながら尻を上げる。

 腰でじゃらりと袋が揺れた。

 中に入っているのは黒目の細い歯だ。これを釘に使う。

 板は使わない。使うのは赤目のヒレを薄く削いだ皮の山。

 つまり奴らの巣穴をマトゥアハの皮膚で塞ぐのだ。


 弾力のある赤目のヒレは決して丈夫ではないが、青目、つまりウツボの口は先端が尖っていない。

 奴らの口は獲物を「挟む」構造になっているので、「突く」ことに向いていない。すなわち真っ平らな壁を突き破ることができない。

 後は簡単だ。巣穴に閉じ込めた奴らを順番に屠っていく。


(問題は黒目の針がどこまで刺さるか、だな)


 赤目の消化液にすら耐えた骨だ。期待以上の働きをしてくれると信じるしかない。


 イメージしろ。

 奴らが完全に巣穴に引っ込む。

 俺が甲羅に乗り込む。

 赤目のヒレをぶわりと広げ、骨の針を添える。テントのペグを打ち込むように棍棒で力いっぱいがあん、があん、があんと三発。

 しっかりと食い込む。これを数度。

 ぱんぱんに張ったヒレが奴らの出口を塞ぐ。

 周縁部に巣食う奴から片付けていく。


(……うし)


 再襲撃までの時間は、およそ十五分。

 俺のスタミナが持つのもそれぐらいだろう。

 十五分でケリをつける。


「相棒」


 をん、と白犬が吠える。


「俺に何かあったら、二人のこと頼むぞ」


 ぐるる、とジンジャーが低い声で唸った。


「冗談だ。……行くぞ」


 わん、と彼は威勢よく吠えた。




 命がけの「だるまさんが転んだ」が始まった。




 俺とジンジャーがスタートダッシュを切る。

 斜面を駆ける。風景が横に流れ、消える。


 温州が警告を発する。

 はっと顔を上げる。緑目は――――動いていない。



 ちらりと青いものが視界を過ぎる。

 青いウツボ。


 ――――青いウツボ。



 アイロンを押し付けられるような激痛が走る。

 よりにもよって脚に。 


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