第11話 氷の海

 


 落下死する夢は何度も見た。

 溺死の夢も。刺し殺される夢も。

 いっそあのまま死んでいれば、と思いながら迎えた朝は数知れない。


 だが焼死を夢見たのは初めてだった。


 腕の肉が焦げ、炭化していく。

 鉄板など無いのにじゅうじゅうと肉の上で油が踊り、跳ねた滴が顔を叩く。針が刺すような痛みに耐え、どこが燃えているのかを探る。

 どこが燃えている? 腕だ。腕に決まっている。

 持ち上げた腕から肉が剥がれる。

 きれいに原型を留めた橈骨(とうこつ)と尺骨(しゃっこつ)が現れ、その向こうに道路が見える。


 ぷうう、と通勤を急ぐ自動車が二本の骨の向こうを走り去る。

 目でその後を追うと、俺の傍を颯爽とサラリーマンが通り過ぎる。向かいからは学生が。背後からはOLが。

 瞬く間に人の波に飲み込まれ、俺は左右を見回した。

 気づけば足が地を離れ、俺は人間の波に弄ばれていた。


 行き交う灰色の人間たちに押し流されながら、泳ごうとして手を動かす。

 波をひと掻きしただけで両腕は焼け付くように痛んだ。

 あっと声を上げて海に沈む。


 空っぽの肺が悲鳴を上げる。

 息苦しさが増していき、胸から樹状に痛みが広がる。

 波の向こうには魚眼レンズのように歪んだ人々。

 奴らは急いでいる。エレベーターが込み合う前に地上数十階のオフィスへ駆け込もうとしている。


 助けを求めようにも、俺はそいつらの波の中で溺れかけている。

 どうすればいいんだ。

 どうすれば。


 道路という海底に沈んだ俺は、ゆっくりと二度バウンドしてそこに身を横たえる。

 ぽここ、と泡が海面へ立ち昇っていく。

 泡の向こうに見えるのは俺を見下ろす巨大なビル群。

 太陽も見えないほどの巨体を前に俺はただ呻く。


 ああ、痛い。

 腕が痛い。

 腕が。


 腕が腕が腕が腕が腕が腕が腕が腕が腕が腕が腕が腕が腕が腕が腕が



「ぁ、ぁあああああああああアアアアアっっっっ!!!!!!」



 いっそあのまま死んでいれば良かったのに。

 かきむしるほどの激痛の中で、俺はいつものように目覚めた。







 怪物を殺した男がどうなるか。

 その答えは二通り存在する。


 一つはお姫様、財宝、王様、民衆の喝采に彩られた英雄譚。

 もう一つは血塗られた呪い、憎悪、陰謀、民衆の恐怖に塗り潰された非業の寓話。


 残念ながら赤目のマトゥアハは俺に後者をもたらしてくれた。


「はー……ォ、ぁ」


 ぱんぱんに腫れ上がった両腕は丸太のように膨らんでいた。

 腕を走るのは脈打つ血管などではなく、不気味なミミズ腫れ。

 指は不揃いなチクワのようにぶくぶくと膨れ、何枚かの爪は剥がれ落ちている。風が吹く度にむき出しの指がビリビリと痛む。


 実際にはビリビリどころじゃないのだろうが、高熱に浮かされる俺はすっかり痛みを感じなくなっていた。

 激しい嘔吐で傷ついた喉の痛みもとっくに気にならなくなっている。

 がらがらと絡む赤い痰だけが事態の深刻さを伝えている。


 初めは何かの毒に中ったのだと考えた。

 だがその割には下痢などの症状が出ていなかったので、俺はこの事態の原因が赤目の刺胞毒だと断じた。

 その結論を出すのに数時間かかるほど思考が鈍化している有様だった。


「おじさん」


 さらりと花弁の暖簾をかき分け、温州が顔を出した。

 彼女は蜂蜜色の斜陽を背負っており、俺は時間の感覚を取り戻す。


「気分はどうです?」


「ァ、ァあ。いい、今良くよくよ、くなった」


 俺は文字通り声を喉から絞り出した。

 んふ、と温州は微笑を浮かべる。

 打算も下心も完璧にしまい込んだ、慈母のごとき笑顔だった。


「ちょっと良くなったみたいですね~」


 彼女はシャツの裾を切り取って作った手ぬぐいを取り、鉢の海水に浸す。

 ぎゅうう、と絞られた布から滴が垂れる。


 俺の症状は悪化の一途を辿っていた。

 腕の激痛と肥大化に始まり、発熱、嘔吐、幻覚。

 バケツ一杯ほどの発汗は瞬く間に俺の生気をこそぎ落とし、ナタネと温州からは時間を奪い取った。


 二人が懸命に作り出した真水を俺は何度も何度も吐き出した。

 胃が食物はおろか水すらも受け付けなくなっているのだ。

 飢餓の地獄に堕ちたギリシアの亡者は果物を取ろうと手を伸ばせば枝が引き、水を飲もうと身をかがめれば地が砂漠となる責め苦を受けているそうだが、今の俺も似たようなものだ。


 温州の差し出すバナナも、ナタネの差し出す真水も、口にすることができない。

 毛穴から噴き出す汗で体臭が濃くきつくなり、髭に浮いた汗の玉が時折涙のようにぽろりとこぼれた。


「今……何時だ」


 カサカサ、と干上がった湖底の土がめくれるような音。

 それが自分の声だと気づくのにずいぶん時間が掛かってしまった。


「時間なんて分かりませんよ」


 鉢巻姿の温州は俺に近寄り、そっと身体の汗を拭う。

 ひやりとした触感に目を細め、はっと思いとどまる。


「緑目、は」


「ナタネちゃんとジンジャーが見てます。動いてませんよ」


 温州は頬から顎、顎から首へと手拭いを動かす。

 湯浴みを終えたばかりの亭主にそうするように、甲斐甲斐しく。


「冷たいですか?」


 首を振る。

 まだ表情に不安を残していた温州が目元を緩めた。


「夜は震えてたんですよ、おじさん。昼はこんなに暑がってるのに夜は寒がって。どうしようって思っちゃいました」


 よる、と力なく呟く。

 いつのことだ。お前と一緒に寝た夜のことか。


「違いますよ。昨夜です」


 ゆうべ。

 昨夜。


 ああ、そうだ。

 俺は温州と寝た次の朝にはこのザマになっていたのだ。

 嘔吐と高熱に繰り返しうなされる余り、


 ――――待て。

 じゃあ今日は


「立たないでください」


 俺が動き出す気配を察し、温州が鋭く制止する。

 腰の砕けた俺は彼女の手一つでぽんと寝かされてしまった。


「明日の夜、マトゥアハが来ます」


「……!」


 どきりと心臓が高鳴る。

 どくっどくっとしばらくぶりに血液がポンピングされ、淀んでいた血が競争をするように動脈を走る。

 じりじりと両腕が痛んだが、心地よい痛みだった。


「そな、備えッ」


「進めてます。緑目の脚を潰すためのあれこれですよね」


「ッ! ……っ!」


 俺は必死に地面を押して立ち上がろうとしたが、温州の哀れむような目がすべてを物語っている。

 少なくとも今日、俺は立ち上がることができない。


「罠に武器にまた罠。ちょっと少ないかも知れませんけど」


 温州は背中の薙刀を見せる。

 だがこんな枝切れが緑目に通じるわけがない。


「たり、ねえ」 


 アル中のように温州へ手を伸ばす。

 彼女は俺の手をぺしんと叩き落し、長い黒髪をさらりと揺らした。

 その「ぺしん」だけぜ両腕がひび割れるほどの激痛が走る。


「そうですね。おじさんが治ってませんから」


 俺の身体を清め終えた温州は新しい手拭いを寄こした。


「吸ってください」


 赤子が乳房に吸い付くようにちゅっと吸う。

 甘い。それに仄かに塩辛い。


「ナタネちゃんが作ったんです。それなら吸ってくれるかもって」


 ひからびたミイラになりかけていた俺は夢中で手拭いに染みた蜜を吸う。

 病死寸前のハムスターが綿棒で与えられた水を吸うような状態だ。

 俺がひとしきり蜜を吸ったところで温州はその場に丸くなる。


 彼女の目は赤く、目の下の隈も濃い。

 俺が倒れ伏したせいで、看病、緑目の監視、水と食糧の確保を実質一人で取り仕切っているのだろう。

 すまん、と小さな声で告げる。彼女に休息を取るよう諭した俺自身が温州を苦しめている。惨めさに消えてしまいたかった。

 さらさらと温州が首を振る。


「死なないでください、おじさん」


 もちろんそこには、「私が生き延びるために死なないでください」というニュアンスが隠れている。

 俺が彼女の生死に関わる立場になかったら、こうも献身的に看病してくれることはなかっただろう。

 それを思うと幾ばくかの寂しさがこみ上げる。


「わ、ァってる」


 死なねえよ。目でそう告げる。

 ――――少なくとも、お前たちを無事に帰すまでは。









 最後の朝、俺は温州に肩を預ける形で即席ベッドから身を起こしていた。


 熱は多少引いた。飲まず食わずが続いたお陰で嘔吐の衝動も引っ込んでいる。

 問題は脱水症状と極度の疲労で、声を発するのにも腕一本持ち上げるのにも膨大なエネルギーを必要となる。

 当の腕は相変わらずぱんぱんに膨らんでおり、役に立つかどうかは怪しい。


「ほ、本当に行くんですか?」


「ああ。行く」


 喉はまだいがらっぽいが、暢気に寝ているわけにもいかない。

 体調は万全には程遠い。

 控え目に言ってもインフルエンザ程度の熱が出ているのではないかと思う。

 だがもうこの昼間しかないのだ。 


(今寝たらおしまいだ……!)


 重い脚を引きずり、一歩外へ。

 ずしりと全体重が乗り、膝が軋む。

 一日二日寝たきりだっただけで人はこうも活力を失うのか。


「罠、どこだ」




 緑目の脚を潰す。

 その目的の為に温州とナタネが用意したのは蔓を編み込んだ丈夫なロープ類だった。

 これを重量に反応する罠と組み合わせ、奴の動きを封じる。


「場所、どこにしたらいいと思います?」


「……そうだな」


 蔓は十分に丈夫で、そうそう簡単にはちぎれない。

 だが奴にはあの鋏がある。

 果たしてこれで良かったのか。

 もっと丈夫さに比重を置いた罠の方が良いのではないか。

 今からでも遅くない。方針を変えて正面対決を挑むか。


(いや)


 もう作り直している時間は無い。

 温州とナタネの仕込んだ罠を信じて挑むしかないだろう。

 準備にたっぷりと時間を割けたことなんて今までの人生においても一度もなかった。


 わん、と近くでジンジャーが吠えた。

 ナタネの傍を脱け出してきたのか、彼は俺に向かって威勢良く吠えている。

 わん、わん、わん、と。


「おお。お前にも心配かけたな」 


 白い犬に纏わりつかれ、束の間痛みを忘れる。


(俺が本当にダメになったら、頼むぞ……)


 犬しか頼る相手がいない状況に苦笑し、俺達は罠の配置を考える。




 帰り道、おじさん、と温州が短く俺を呼ぶ。


「あれ、何ですか……?」


「?」


 振り向いた俺が見たのは目立たない場所に隠された建物だった。

 他の建物と違い白い石造りで、鶴に覆われているせいでそれまで発見できなかったのだろう。


「……」


 何だ。中には何がある?

 温州と共に中へ入った俺が見たのは風呂場のような構造物だった。

 中には土埃と一体の骸骨が入っていた。

 衣服は身に着けておらず、体を丸めている。


(何だこれ……?)


 あれこれと考えてみるのも良かったが、時間が無い。

 手頃な物資がないことに落胆した俺達は身を休ませるべく拠点の磐座へと戻る。





 最後の夜、予想外の事態が二つ起きた。



 一つは、三日目の夜になっても緑目が一向に目を覚まさなかったこと。

 奴は大きな盾で目元を庇い、満ちていく海に体の半分を浸からせたままだった。



 そしてもう一つは。


 ――――最後のマトゥアハ、『青目』が姿を見せたこと。


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