第5話 緑の海

 

 残念ながらサマーキャンプで教わった知識に「食い物の見つけ方」なんて項目は無かった。

 水を手にして、火を熾して、ロープを結んで、葉っぱを重ねて雨露を凌いでもメシが無ければ飢え死にするだけだというのに。

 いつだってそうだ。

 生きる上で肝心なことは誰からも教えてもらえない。

 生命保険の仕組みだって、年末調整の意味だって、ハローワークの使い方だって、本当に必要になるまで誰も教えてくれない。

 で、必要になった時にはもう手遅れなわけだ。

 ――――今の俺のように。


(……水はもういいな)


 十分に喉を潤し、小さな鉢三つ分ほどの水を蓄えた俺たちは島内の探索に乗り出した。


 正直に言えばまだまだ足りない。

 どちらかが腹を壊して脱水症状にでも陥ろうものなら破綻する量だ。

 人間は水さえあれば命を繋ぐことができると言われているので、ひたすら水の確保に努めるのも選択肢の一つではあるのだろう。

 だが俺達の置かれた状況下において「命を繋ぐ」ことは生に直結しない。

 俺達は太平洋のど真ん中を漂流しているわけでもK2で遭難しているわけでもない。

 マトゥアハを殺さない限り生き残る道は無い。


 生きるだけなら水があればいい。

 だが殺すためにはカロリーが、熱が必要なのだ。


 さくさくと落ち葉を踏む俺の足音に、ぺたぺたというナタネの足音、とととっというジンジャーの足音が続く。

 振り返り、きょとんとするナタネの足裏を手で払う。土が固まってボロボロになっていた。


「……ん。靴ぐらい何とかしてやらないとな」


 幸い、この島には大人の手より大きな葉を持つ植物が自生している。

 これを数枚組み合わせ、そこらに生えている長い地上茎と小枝で結えば即席の靴の完成だ。


「!」


 泥だらけの足裏が保護されたことでナタネは嬉しそうにしていた。

 主の喜びを感じ取ってか、ジンジャーも一声わんと鳴く。


「よしよし。……お」


 膝をついてジンジャーを撫でていると、葉を結わえるのに使った地上茎の先にゴボウのようなものが見えた。


(……どうするかね)


 山の幸と海の幸。

 確率論で行けば前者の方が危険度が大きいように思える。

 海で毒貝・毒蟹・毒魚に中ったなんて話はめったに聞かないが、毒草や毒キノコを調理してお陀仏する老人の話はしょっちゅう耳にする。

 しかもここは日本じゃない。ワラビは食えるとかヤマゴボウは食えないとかいう俺の常識は通用しない。

 見慣れない山菜は食わないが吉だし、食糧は海に求めた方がいい。


 ――――が、海にはマトゥアハがいる。

 ちょっとした洗い物ぐらいなら平気だが、狩猟採集のように没頭しがちな作業にを水辺でやるのは避けたい。


「ナタネ。これ食えると思うか?」


「ん……」


 ナタネはじっとゴボウらしき植物を眺めていたが首を振った。


「だよな。まあ持っては帰るか」


 俺はバッグ代わりの鉢に根をちぎって詰め込んだ。

 ぶち、ぶちち、とちぎりながら考える。


 ここは今でこそ無人島だが、かつては有人の島だった。

 人が居住していたのが1年前なのか50年前なのか分からないが、間違いなくこの島で生活を営んでいた人々がいる。

 それはとりもなおさず自然環境にも手が入っていることを意味する。


(野菜とか果物が生ってるはずなんだよな、たぶん)


 島民の主要な栄養源は魚介類だろう。

 だがそれだけでは到底栄養を賄いきれない。

 何らかの形で炭水化物だとかデンプン質を摂取していたはずなのだ。


(コメ……はねえか。麦も怪しいな。ってことはイモだろ)


 イモ。

 どこかで芋を栽培していたはず。

 家の庭なら具合がいいのだが、家屋から離れた場所で栽培していたとなると厄介だ。

 芋類の葉は特徴的だから見れば何となく分かるだろうが、繁茂する植物に覆われてしまってはどうしようもない。


 かと言ってそれを探していれば日が暮れてしまうだろう。

 マトゥアハに備えなければ俺たちも少女も死ぬ。


「ナタネ。ここヘビはいるか?」


「?」


「スネークだ。スネーク。バッドスネーク」


 俺が片腕をにょろにょろと動かすとナタネは理解してくれたらしい。

 残念なことに彼女は首を横に振った。


(いねえのか)


 いや、単に「見たことがない」という意味かも知れない。

 毒蛇に噛まれるリスクが減った半面、食い物として蛇を捕えることもできなくなった。


「じゃ蜂はどうだ?」


「?」


 俺は指で宙を摘まみ、ぶううう、ぶすっ、とナタネの二の腕を摘まんだ。

 少女はくすぐったそうに笑い、小首を傾げる。


「ビー?」


「イエス! ビーだ!」


 んん、とナタネは少し考え込み、やがて首を振った。表情は優れない。


(わからねえ、か)


 それから少しだけナタネに疑問を投げてみた。

 熊。いない。

 猪。いない。というかナタネに意味が通じなかった。知らないのだろう。

 蛇。いない。

 蜂。いない。

 犬。ジンジャーだけ。


(虫刺されと毒草だけか。当座気を付けるのは)


 助かったと思う反面、ますます食糧事情がひっ迫する。

 およそ考え得る高カロリーな生物がこの島にはほとんど棲みついていないのだ。

 空を見れば鳥は飛んでいるが、道具も無しにあれを捕まえるのは不可能だろう。


 くうう、とナタネの腹の虫が鳴った。

 つまみのミックスナッツが少しだけ残っているのだが、あれは万策尽きた時のために取っておきたい。


(何食えばいいんだ……)


 徐々に焦りが募る。


 時間は限られている。

 闇雲に食い物を探せばかえってエネルギーを消費してしまい、マトゥアハに備える時間が無くなってしまう。

 内陸に何も無いのであれば腹をくくって海岸に出るしかない。


 どうする。

 貝か。魚か。野草か。芋か。

 頬を伝った汗が顎に至り、線香花火のようにぷるぷると震えた後、音も無く地面に落ちる。


 ナタネが不安そうに俺を見上げていた。

 俺は眉間に寄っていた皴を揉み、にかっと笑ってやる。


「心配ねえよ。ちょっと国会答弁のこと考えてただけだ」


「?」


「おっさんだからな。つい考えちゃうのよ、そういうの」


 どっしりと構えなければならない。

 俺は大人をやらなければならないのだから。


 そして俺は楊枝を咥えたの武士のごとく悠然と歩き出す。

 ナタネも足取り軽く俺に従った。




 探索の途中、藪の中でいくつかの赤い実を認めた俺は慎重に一粒を口へ入れた。

 苦い。それに酸っぱい。

 ぺっと吐き出す。


「ダメだな」


 とても美味そうな野イチゴに見えたのだが、食えたものじゃなかった。

 きつすぎる酸味もそうだが、苦味が混じっているのが良くない。

 人の作った毒は甘いが、自然の創った毒は苦いのだ。


「こっちはどうだ」


 ブラックタピオカのようなサイズの黒い粒を見つけた俺は慎重にそれを齧る。

 舌触りは茱萸(ぐみ)に近い。

 耳かき一杯分。

 耳かき一杯分だ。


「……うん。うん」


 じわりと舌先に広がる酸味。

 種は小さかったが、念のため吐き出す。

 八割方は酸味だが、二割の甘味が俺の食欲を刺激した。


「ナタネ。持って帰ろう」


 俺が指示するより早く、ナタネがてきぱきと鉢に実と茎を詰めていく。

 夜まで待って、俺が腹を下さなければセーフだ。


(……)


 この数時間で分かったことがある。

 ナタネは島の生態系に通暁していない。

 例えば民家に鉢植えがあることは知っていても、どんな生物が棲んでいるかまでは知らないのだ。

 これは彼女がこの島の住民でないことを意味する。

 おそらくナタネはガイド達が住んでいた集落側の人間なのだ。


「?」


 少女が首を傾げていた。

 そして俺が手を動かしていないことを諌めるような目をする。


「分かってる分かってる。おっさんの手は思った通りには動かないの」


 今、彼女の素性は関係ない。

 仮に脱獄囚だろうと売春婦だろうと、俺が護るべき相手に違いはないのだから。


「!」


 腰をかがめた俺はとんでもない事実に気づく。


「スマホ!」


 びくっとナタネが震え、ジンジャーもばっと後ずさった。


「あ、や、何でもねえ。スマホが通じれば……」


 電話が繋がれば助けを呼べる。

 更にネットが通じれば大使館にSOSを出すことだってできるだろう。

 どうして今まで気づかなかったんだ。


 俺は自分の愚かしさを呪い、ある事実に気づいてまた己を卑下する。


(……って、呼べても場所が分からないんだよな、っていう)


 俺はここまでガイドの車に連れられてやって来た。

 地図機能を使えば分かるかも知れないが、果たして俺の旧式の携帯端末が海外の地理を正確に表示してくれるのか。

 というか、事前設定もなしで海外で携帯は繋がるのだろうか。

 勝手に現地の回線に乗ってたりしないだろうか。


(ああもう! いい! 後だ!)


 繋がったらそれはそれで良し。

 だがどの道、救助が来るまでの食糧は確保しなければならないのだ。

 俺のやることに変わりはない。


「よっしゃナタネ! この黒い実をもっと」


 ――――と、何かが視界の隅で動く。

 遠くではない。すぐ近くだ。


 ふと、すぐ傍の太い樹を見る。

 胸の中心で心臓が飛び上がった。


「うおおっ!?」


 もぞりと動いたのは茶色のイナゴだった。

 ただし手のひらより大きい。ちょっとした魚並みのサイズだ。


「びっ、びっくりしたぁ……」


 後ずさった俺を見てナタネが笑いを噛み殺していた。


「や、笑うなよぉ。こんなでかい虫、日本にはいないんだっつの」


 大きなイナゴは木の幹をするすると降りていく。

 スタイルは細長いショウリョウバッタではなく、ぷっくりしたコオロギに近い。

 太腿に当たる部分が太く、脛に当たる部分はギザギザしていた。


「はー……何食ったらこんなでかくなるんだよ」


 イナゴが去るのを見送った俺は、数分後、人生最高のスピードでそいつを追いかけることになった。


 ――――食えるだろ、これ。








 ファーブルに言わせれば昆虫の味は甲殻類のエビやカニに似ているらしい。

 バターで炒めると美味い、と昔読んだ本に書いてあった気がする。


「っと、こうか」


 硬い殻の隙間から首にナイフを入れ、介錯する。

 刃が肉に食い込み、ぷきゅ、と断末魔を思わせる音が漏れる。

 ぷくぷくと茶褐色の体液が泡立ち、脚がばたつく。



 イナゴを次々に捕獲した俺達は北の海岸に戻って来ていた。

 灰色の炎は音も無く風に揺れ、俺達を遠くから炙る。



 野生動物の類例に漏れず、大きなイナゴは動きが鈍かった。

 キリギリスのように肉食で、もしかするとこの島の生態系においては結構上位に位置していたのかも知れない。

 だから捕まえるのは容易だった。

 ナタネも虫に抵抗が無いのか、俺の見様見真似で細長い石のナイフをイナゴの首に入れている。


「脚はたぶんそのまま焼けばいけるぞ」


 ぽきぽきと脚を折る。

 残った胴体からまず羽をもいだ。

 硬羽も薄羽も根元から折り取り、頭部にかけて続く鎧のような殻も剥く。


 後は内臓だ。

 胴部をひっくり返し、柔らかい腹にすらりとナイフを入れる。

 噴き出した体液はひどく臭い。ペンキに腐った牛乳を混ぜたような独特の異臭だ。


 白い貝殻の絨毯を赤茶けた血で汚しながら俺はワタを取り除く。

 食える部位はおそらく腹部だけなので、頭部を切り落としてからアジのように開き、針金を通した。

 蒲焼きスタイルとでも言えるだろうか。


「……さすがに虫に毒は無いよな」


 こいつの主食が毒草でないことを信じよう。

 俺とナタネははめらめらと燃える灰色の炎に蒲焼を翳した。



 やがて焼き上がった昼飯兼晩飯は――――


 びっくりするほど美味かった。



「おお! これいいな!」


 味は確かにエビに近い。

 実際にはエビより臭みがあるのだが、やや弾力のある肉の触感がかなり似ている。

 焼き過ぎたせいで焦げ目も入っているが、そのお陰で味が単調にならずに済んでいるのも良い。

 きちんと味付けをすれば腹だけでなく心も満たされるだろう。


「ナタネ。うまいか? グッド?」


 こくこくこく、とナタネは激しく頷いていた。

 ジンジャーもはふはふと食らっているので、毒の心配もなさそうだ。

 どうやらこれで赤目と対峙するまでの食糧難は解消されたらしい。

 貴重な鉢を使うのも勿体ないし、共食いの恐れもあるので、イナゴ共は民宿の倉庫に放り込まれていた衣装箪笥に閉じ込めることにした。


「さて」


 腹ごしらえを済ませた俺はナイフを海水で洗いながら気づいた。

 刃を柄に留めているピンが緩み始めている。

 まあ黒目を殺す時にだいぶ無茶をさせたから当然だ。


(ヤバイな。刃物がないと何もできねえぞ)


 イナゴの調理ならナタネのように石を使うという手もあるが、今度は水の確保に必要な薪の処理が追いつかなくなる。

 かと言って島内に刃の錆びていない金物が残っている可能性はゼロだ。


(赤目をぶっ殺す武器のことも考えなきゃならんしな。どうするか……)


 途方に暮れつつあった俺は海を見やる。

 否応なしに視界の隅で蠢く「そいつ」の姿が目に入った。


 ――――黒目だ。


 あれほど巨大に見えた巨魚は今やすっかり縮んでしまっていた。

 まるで気の抜けた風船だ。

 奴の死骸はカニさんトリさんのランチになっている。このままディナーにもなるのだろう。


(……待てよ)


 ざくざくと貝殻を踏んで死骸に近づく。

 凄まじい腐臭が鼻をつき、何度か吐きそうになった。

 虫が集り、カニが集り、浅瀬には魚までもが集った死体は惨め以外に表現できない有様だった。

 こんな死に方はしたくない。

 葬式をあげるという行為がいかに文明的であるかを思い知らされる。


 だらしなく開いたままの口腔には白い乱杭歯が並んでいた。

 動き出さないかびくびくしながら口の中に手を入れ、にちゅりと腐肉から歯を抜く。


(でけえ……!)


 直径十センチはある。

 見れば口内の歯は長さがバラバラで、長いものは二十センチに達しようとしていた。


(使えるぞ。こいつの死体……)


 歯だけじゃない。

 肉。

 皮。

 それにあるのなら骨。


 どれもこれも貴重な資源だ。


「……」


 俺は奴との激戦に思いを馳せる。

 奇怪で、傲慢で、おまけに俺を見下した奴ではあったが、死んでしまったとなれば話は別だ。


 俺は一度だけ合掌し、奴の解体に取りかかった。





 手に入ったのは数十本の乱杭歯と顎から頭蓋にかけての骨だけだった。

 丈夫な背骨や強靭な尾が手に入ればベストなのだが、本格的に解体しようとすれば海に入らざるをえない。

 作業に没頭して別のマトゥアハの接近を許したら一大事だ。

 溶かされずに残っている巨大な背骨に少なめの後ろ髪を引かれながら、俺はその場を後にする。



 解体を終えて貝殻海岸に戻ると、ナタネが空の鉢を使って何かを作っているところだった。

 何かと見れば靴に使ったのと同じ葉っぱを漏斗状にして鉢に差し込んでいる。


「! トラップか!」


「イエス」


 ナタネは甘い声で肯んずる。

 彼女は貝殻海岸に穴を掘り、鉢を埋めて見せた。

 葉っぱは円錐を逆さまにした形で鉢に差し込まれており、生物から地表から入るのはたやすいが、一度入ると抜け出せない構造になっている。


 ナタネはそこにイナゴの臓腑をミンチ状にしたものをぶち込んでいた。

 俺もマトゥアハの歯にこびりついた肉片をこそぎ落とし、そこに混ぜ込む。


「海に置くのか? シー?」


「イエス。エン……ゼア」


 ナタネは内陸の奥地を指差した。

 何か確信があってやっているのだろう。


 ちょうどナタネが示した辺りの樹上に民家が一つ引っかかっていた。

 以前にも目にしたその光景が俺の危機感を刺激する。


 思わず振り返り、海からマトゥアハが迫っていないことを確認した。


(……少なくとも一匹、陸にまで揚がってくる奴がいるな)


 陽は海へと沈みつつある。

 僅かな紫の滲んだブロッサムピンクの空。


「ナタネ。罠、三つぐらいにしとけ。ジャストスリーだ」


「スリィ?」


「ああ。戻ろう。ナイトカミングだ」





 マトゥアハは夜に活動する。

 俺とナタネが同時に眠りこけるのは危険だ。

 遅めの午睡(シエスタ)で心身の疲労を落とした俺は、廊下の灯りを頼りに「赤目」に思いを馳せる。


 黒目の牙。

 黒目の骨。

 そして――――


「ンン」


 マットレスの上でナタネが呻く。

 ギコギコ、と階下では例のイナゴが酷い音色で異性を誘っていた。

 この音の中で眠れるのだから、メンタル面は心配しなくても良さそうだ。


 俺は改めて黒目の牙を結んだ斧に目をやる。

 牙は研ぐまでもなく鋭い。

 少し太めの植物の蔓で結んだ手斧は思った以上の重みがある。


 武器は揃った。

 ――――問題は戦術だ。


 考えろ、と自分に言い聞かせる。

 俺は奴の姿かたちを知っている。それは圧倒的なアドバンテージのはずだ。


 赤目はクリオネの下半身にクラゲの触手を生やしたような形状で、胴体には無数の目玉が浮いていた。

 捕食方法は触手の生えている方から直に胃袋を吐き出し、消化液をまぶしてからの丸呑み。


(クリオネ……クリオネか)


 弱点は分かる。

 胴部に集中している内臓だ。

 だがそれ以外にも有効な部位はあるはず。


 黒目の時のように呼吸器へのダメージを狙うのは不可能だ。

 おそらく赤目には肺も鰓も無い。奴は皮膚呼吸をする生物だろうから。

 ――――逆説的に、奴が陸上で活動できる時間は極めて少ないと推察される。


 体内からの破壊を狙うのも難しい。

 黒目の肉すら溶かす消化液を浴びれば俺はあっという間にヤマイモだ。


 赤目は外部からの攻撃でなければ殺せない。

 外部から胴体中央の臓器を潰す。


(そうなると触手が問題だな……)


 あの触手、クラゲのように見えたが実際のところはどうだろう。

 クラゲの触手なら刺胞がある。毒を持っている可能性が高い。

 タコなら大当たりだが、イカなら大外れだ。イカの吸盤には牙が生えている。


(捕まったらアウトって考えた方がいいな)


 待て。

 体内からの破壊は期待できず、体外には毒のある触手だと?


 ――――どうやって殺すんだ。


(……)


 ぱちち、と廊下で薪が爆ぜる。


 考えろ。

 クリオネクラゲにどう対処するのか。


 俺は体力が長持ちしないおっさんで、味方はナタネとジンジャーのみ。

 どちらも言葉が通じない。


 武器は限られている。

 奴を殺すにはどうしたらいいのか。






 二日間で分かったことは少なくない。

 一つ。一日分の水の確保には半日を要する。

 一つ。携帯は通じない。

 一つ。黒い実は食える。甘いものは心を満たし、胃を騙す。

 一つ。真に逼迫した環境において性欲は減衰する。

 一つ。葉っぱで尻を拭くのは理に適っている。



 二日間で手にしたものは多い。

 貝殻で作った釣り針。

 蔓のロープ。

 葉っぱの器。

 雨を受けるための細筒。

 民家を解体して得た木板。


 民家にも色々なものがあった。

 ちょうどよい大きさの石包丁。

 ボロボロになった枝織りのハンモック。これは再現性があるのが良い。

 用途不明の分銅が二つきり。大きさは洗面器より少し小さい程度だが、転がさないと運べないほどの超重量の代物だった。漬物石だろうか。


 それに人骨。

 そいつの手にした本はまだ腐っておらず、真新しいものだった。

 英語で何かが書きなぐられていたが、俺には理解不能だった。

 いくばくかの硬貨と錆びついたナイフ、それにメガネを拝借し、俺はそいつを埋葬してやった。



 二日間の凪を経て。


 ――――再び、嵐の夜が訪れる。





 部屋で座禅を組んでいた俺はゆっくりと立ち上がる。

 せめてもの気付けにとビールをひと口。

 ――――せっかくなのでもうひと口。


 俺は背中に槍を担いでいた。

 流木と黒目の牙を掛け合わせた二本の槍だ。

 腰には手斧を数本。

 そしてJ字に加工した黒目の骨。


 ナタネは前線には出さない。

 彼女は怯え切っていたし、とてもじゃないが戦えるとは思えない。

 ナタネにはナタネの役割があるのだ。


 陽は沈み、窓の外には黄色い月が見えている。

 ナタネの言葉を信じるのであれば、じきに赤目のマトゥアハが姿を現すだろう。


「……おし」


 ぱあん、と両頬を手で叩く。

 廊下の炎が目に滲み、網膜にオレンジ色の残像が残っていた。




 部屋を一歩踏み出す。



 窓の外から俺を覗き込む巨大な「目」を見る。



 ――――赤じゃなく、緑色の目を。



 息を呑む。


 民宿が激しく震動する。

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