第8話 雨の日

 人が人のことを想っていられる時間はどのくらいだろう。

 例えば、楽しい思い出は色褪せないとか嫌なことは時間が解決してくれるとか、そんな話をよく聞くけど、俺にはいまいちピンとこなかった。忘れたい嫌なこともはっきりと覚えているし、忘れたいと思っても忘れられない自分のことが嫌になることもある。そうして忘れたいことが余計忘れられなくなる。負のスパイラル。

 これは俺があの人のことをまだ想っているということなんだろうか。だとしたらこの感情の名前はなんなんだろう。


 優斗の家を出てからしばらくすると雨が降ってきた。

 6月も後半に入り梅雨は明けたと思っていたのに、俺の心を映したかのような空はただの曇り空というわけでもなく大雨になるわけでもなく、何とも言えない微妙な降りかたをしていた。これでは傘を持っていないことを嘆くことも、走ればずぶ濡れにならずに済むという希望的観測をもつこともできない。俺はただ仕方なくため息をつくしかなかった。

 そういえば、いつだったか青葉夏菜にため息をつくと幸せが逃げると言われたことがあったな。

 俺は吐いた息を吸いなおそうと深呼吸をした。何も変わらない。少し自分で笑ってしまう。今まではこんなこと気にしたことも無かったのに...


 濡れながら歩いているとローリエが見えてきた。雨宿りしたい気持ちはあったがこんなに濡れていては迷惑かもしれないと今日はやめておくことにした。大して降っていないとはいえ傘もささずに歩きっぱなしだとさすがに体に応える。

 このままだと本当に俺が風邪をひくかも。そう思い足を速めたところでポケットから振動音。

 着信?誰からだろう。液晶を見た俺は思わず苦い顔をしてしまう。


 「雨宮香里」


 しばらくの間、携帯は手の中で振動を続けていた。





「水樹、今びしょ濡れじゃない?」

「結構濡れてる。なんで?」

「こっちこっち」

 声がした方を向くとローリエの入り口から顔を出す香里先輩がいた。ちょっと待っててと電話越しに言うと香里先輩は店の中に戻ていった。俺はローリエの軒先で香里先輩を待つことにした。

 それから程なくして香里先輩が出てきた。

「お待たせ」

 傘を広げながらそう言うと半分スペースを開けたまま、行こうかと微笑んできた。

 相合傘ってことか、なんだかなぁと思いながらも俺は香里先輩の厚意に甘えることにした。

「先輩なんで俺のこと分かったの?」

「ローリエで大学の課題してたら、傘もささずに歩いてる人がいてなんか濡れてるなーと思ってたら水樹だったから」

「そうなんだ。大学ってどんな感じ?楽しい?」

「楽しいかな。やりたいことできるし、自由だし。水樹は進学?就職?」

「まだ決めてない」

 そういえば進路希望調査まだ提出してなかったな。そろそろきょーちゃんに何か言われそうだ。

「そういえば、先輩今どこ向かってるの?」

「私の家だけど」

「えっ」

「水樹をこのまま家まで送ってもいいんだけど、送った後また自分の家まで帰るの面倒くさいでしょ?それよりは私の家に行って雨が止むまで待つか、傘借りた方がいいと思うんだけど」

「確かにそうかもしれないけど...」

 俺は釈然としない気持ちで先輩の話を聞いていた。

「遠慮しなくていいのに」

 香里先輩に笑顔でそう言われると抱えているモヤモヤが膨らんでいくようだった。



「服、乾燥機に入れとくね」

「はい。ありがとうございます」

 なんだかんだで香里先輩の家に行くことになり、お風呂まで貸してもらっている。何やってんだ俺。

 風呂から上がり、リビングに行くと先輩はキッチンにいた。

「服ちゃんと乾いてた?」

「まだ少し濡れてるけど大丈夫だよ」

「そっか、はいこれ」

 香里先輩は俺にマグカップを渡してきた。熱い。

「冷えた体には熱いココアだよ」

「ありがとうございます。コーヒーじゃないんですね」

「私のはコーヒーだよ。水樹はエネルギーが必要でしょ」

 先輩から受け取ったココアを一口飲んでみる。かなり甘い。でもこの甘さは不快じゃない感じがした。

「ここで立ちっぱなしもなんだし座ろうか」

 そう言って香里先輩はリビングにあるテーブルに向かう。

 あんまり長居しても申し訳ないと思い、傘を借りてそのまま帰ろうかと思ったが、先輩に引き留められたので結局雨が止むまで待つことにした。

「長居してもいいんですか?」

 どうして?と香里先輩は首をかしげる。

「親が帰ってきたときに知らない男が家に居たらビックリすると思いますけど」

「あぁ、それなら今日お母さんは遅くなるから大丈夫だよ」

「お父さんは?」

「お父さん? んー、お父さんは戻ってこないよ」

 戻ってこない?どういう意味だろう。

「なんか引き留めちゃってごめんね?今日はちょっと水樹と話しがしたいんだ。って言っても話すことがあるわけじゃないんだけどね」


 俺と香里先輩はしばらくの間無言だった。テレビの音がリビングを満たしているのにそれすらも耳に入ってこない。ただ向かい合ってそれぞれのマグカップを口に運ぶだけ。それでも帰る気にはなれなかった。

 きっと、香里先輩も俺と同じ気持ちを抱えてるのだ。そう俺が思いたかった。思わなければこれから香里先輩のことを理解できずに、関係もあやふやなままに終わってしまう。それだけは嫌だとはっきりと思うことはできた。それだけ香里先輩は俺にとって大切な人なんだ。

 だから、これは俺から話しをするのが2人のためなんだと思った。いや、俺自身のためだ。

「先輩、先輩は俺のこと、どう思ってる?」

 香里先輩はうつむき、マグカップを両手で包んだまま動かない。

「俺は先輩のこと、大切な人だと思ってる」

 香里先輩が顔を上げる。

「先輩として、友人として」

 黒く澄んだ瞳が俺の顔を真っすぐと見つめる。その瞳にどんな感情がこもっているのか俺には分からない。

「正直、俺は先輩のことが分からない。4年前あんなことがあって、なのに俺の前にいきなり現れて何でもない風に接してきて、俺は先輩とどんな風に接したらいいか分からなかった。先輩が昔みたいに振る舞う度にどういうつもりなんだろうって、何を考えてるんだろうって思ってた。いきなり俺を拒絶しといて何を、何を今更...」

 話すうちに体温が熱くなる。自分でもこれ以上はやばいと思っていても止められない。決壊したダムを塞き止めることなんてできない。

「俺がどんな気持ちでこの4年間を過ごしてきたか。あの時のことを忘れたいと思っても忘れられない。忘れようと思えば思うほどはっきりと思い出す。たまに夢に見る時だってある。その度にまだ引きずってる自分が嫌になる」

 言葉にすればするほど感情が膨れ上がっている。息が詰まりそうになる。苦しい。

「俺は、先輩のことが嫌いだ」

 そう、俺は先輩のことが嫌いだ。でも、

「それでも俺は、先輩と一緒にいるのが楽しかった。中学の頃もこの前のデートも楽しかった。だから、先輩が大切だっていう気持ちを嘘にしたくない。だから」

 俺はいつの間にか泣いていたらしい。涙が一筋、頬を流れた。

 その時見た香里先輩の目にも涙があった。

 俺はその場に居られなくなって気づけば駆け出していた。

 香里先輩の声も、テレビの音声も、激しい物音も何も聞こえなかった。

 なんで泣いてるんだよ。


 結局その日は雨が止むことはなかった。

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