【序】Ⅱ『レインボウ商店街』


〇 〇 〇


 気分が沈む。

 全身が重い。

 頭痛が酷い。


 陽介は険しい表情を浮かべたまま鉛が詰まったような足取りで自転車を押していた。

 お互いに赤の他人である。どうしてそう思ってしまったのか、陽介自身も理解出来なかった。

 頭の中がグチャグチャに掻き回される感覚に彼は顔を顰める。それはまさしく病院を脱走するきっかけとなった【白黒の絵の具】であった。

 

 単に憧れているだけだ。〈本当に?〉

 曲も好き、メンバー全員も好き。〈表面だけ?〉

 それはファンだから。〈そう思っているだけだろ?〉

 大したことしか出来ない。〈気付いてないだけでは?〉


「俺には関係無いことじゃないか。」 

 

 理想は追わない。現実しか見ない。

 〈現実を変えろ。〉〈理想を目指せ。〉


 この想いを否定しよう。諦めよう。

 〈その想いを肯定して。〉〈信じるんだ。〉


「ああ、煩い。」


 うるさい、煩い、五月蠅い。指図するな。放っておいてくれ。一度は死んだようなものじゃないか。苛立ちを露にするように、透き通った青い瞳が常闇の色へと塗り潰されていく。

 暗い歩道は陽介以外の人間は存在しなかった。だが彼の心には誰かの声が届いていたのだ。


 姿無き者達の声に陽介の心が恐怖と嫌悪によって黒く蝕まれようとした時、視界に【虹の橋】が入り込む。

 しかし本物ではない。橋を架けるようにデザインされたアーチ状の看板。チープだが味わいのある彩色。虹の橋を渡るように取り付けられた文字の羅列。

 陽介は足を止める。其処に記された『レインボウ商店街』という名称が視界に入った。


 門としての役割を果たす看板の下を潜る。三軒先の食堂から微かに聞こえてくる賑やかな笑い声と温かな光に彼は笑みを零した。


「何を馬鹿なこと考えてるんだか。」


 酷い空想と幻聴にずっと耽るなんて、と陽介は苦笑する。同時に常闇の色に染まっていた瞳が夜明けの空のように青色へと変化していることを彼は知る由もなかった。

  

〇 〇 〇


 食堂の側庭に足を運ぶと陽介はブロック塀の上を歩く猫のように狭く長い通路をそそくさと進んで行く。住居用の玄関に辿り着くと彼は押し進めていた自転車を手早く折り畳んだ。


 慣れた手付きで鍵を取り出すと玄関の施錠を解いた。扉を開けて帰宅すると直ぐに戸締りをし、自転車を靴箱の傍らに置くと急いで靴を脱いで揃えてから店舗へと繋がる薄暗い廊下を駆け抜ける。


 6、7歩も満たない内に辿り着いた先で待っていたのは眩しい笑顔と明るい笑い声であった。カウンター席5つと四人用テーブル席3つの広過ぎず狭過ぎない店内は夕方という時間帯もあってか常連客で埋め尽くされている。

 

 八百屋を営むオオカムルフ星人のウルフ谷と果物屋を営むガルオン星人の獅子崎が自分の店で取り扱う商品が如何に美味しいのかを今日も元気に力説し合っていた。

 魚屋を営むスキュウギュショ星人の烏賊倉一家が和気藹々とイカたっぷりの焼きそばを頬張っている。

 常連客である肉屋の相川はクリーニング屋を営む田宮と熱燗を飲み交わし、パン屋を営む片桐姉妹は田宮の妻と「どこのスーパーが安いか」について熱く語っていた。

 

 陽介はもう一度店内を見渡す。生まれた星も姿形も違う人達が集まって笑い合いながら楽しそうに食事する光景は彼にとって掛替えのない大切な日常の一コマだ。


 今日はつらく悲しい事があった。でも何事もなく此処に帰って来られただけでも意義がある。

 多くの色彩が飛び交う空間に安堵すると陽介は最後に厨房に目を向けると五十代後半の女性が豪快に中華鍋を振っていた。

 

 所々に白髪が覗く長髪を一つにまとめ上げ、白い三角巾をキッチリと被っている。割烹着の上からでも分かる程に恰幅の良い体格を指摘して拳骨を食らった過去を思い出しながら陽介は笑顔で告げた。


「ただいま、おばちゃん!」

「あら!おかえり、陽ちゃん!」


 おばちゃんと呼んで慕う恩人にして家主である明美は明るく応えると完成した野菜炒めを皿に盛り始めた。

 陽介は一瞬だけ表情を曇らせて今日の出来事を言うか言わないか悩んだ後、あっけらかんと伝える。


「ごめん、おばちゃん!今日も仕事ダメだった!」

「やだっ、玄さんったら人を見る目がないわね!」


 こんな素敵な子を紹介してやったのに、と明美は日高に文句を言いながら野菜炒めが盛られた皿の表面をラップで包み込んだ。


「陽ちゃん、ゲルギル沢さんから出前の注文が入ったわ。野菜炒め、大盛りよ。」

「分かった!直ぐに着替えるから!」


 陽介は大きな足音を立てて廊下を走り、二階に続く階段を駆け上がる。明美は「うがい手洗いもしなさいよね!」と張りのある声で伝えた。「了解!」と返事が厨房に届くと彼女は手の焼ける下宿人に笑みを浮かべる。


 明美が陽介に出会ったのは2年半前に遡る。彼女が夫を亡くして日が浅い頃だった。夫の遺した店を畳むか否か悩みながら続けていた時である。

 翌日の仕込み中、裏口で大きな物音が聞こえたのだ。 残飯を漁ろうと徘徊していた野良猫達が慌てふためいたように甲高く鳴きながら立ち去る足音までも聞こえ、当時の明美は恐怖のあまり身を強張らせた。

 

 警察沙汰なのでは?と怯えながら護身のために愛用の中華鍋を持って恐る恐る裏口の戸を開けると一人の青年が転がっていたのだ。

 入院用の寝間着姿でぐったりと横たわる青年に明美は悲鳴をあげそうになるも、弱々しく上下する彼の上半身を見て『生きている』と気付く。

 静かに近付くと微かに聞こえる呼吸音に彼女は慌てて青年を店内へと招き入れた。


 自分よりも背が高く体格の良い青年を運べるか不安になりながら肩を貸した瞬間、予想を覆す軽さに驚いて直ぐにカウンター側の一席に座らせてから大きなおにぎりを3個握ってあげたのは今も覚えている。


 不格好になってしまったおにぎりを皿に乗せて出すと困惑と不安を滲ませた青い瞳を向ける青年に拙い英語で「ヒアユアー」と言えば彼はおにぎりを鷲掴みして物凄い勢いで頬張り始めたのだ。


 涙を流しながらおにぎりを食べる彼に対して憐憫の情を催してしまい、「アンタで良ければ好きなだけ居て良いのよ」と話しかけていたことは今でも忘れない。

 おにぎりを残さず食べてから流暢な日本語で「ごちそうさま、ありがとうございます」と青年が感謝の言葉を口にした時は度肝を抜かれて思わず噴き出してしまったのは懐かしい思い出である。


 大きな災害で記憶を失い、本当の名前が思い出せないと語る彼に【陽介】という仮初の名前をあげた。

家を出た息子達の部屋が空いていたから落ち着くまでの間は下宿させることにした。


 最初は不安だった。なんて馬鹿なことをしているのだと自覚していたし、後悔もした。

二人の息子が他の惑星に移住してしまった上、夫は他界して自分独りだというのに身元が分からない人間を拾うなんてどうかしている。


そう思いながらも2年半の月日が流れ、気付けば陽介とは親子のような間柄を築いていた。

 自立しようと出来る限りの仕事を頑張り、食堂の手伝いを積極的にしてくれる。

自分を母親のように慕い、お客さんや近所の人達に気を遣ってくれる。


 こんなにも優しくて素直で頑張り屋な子が実は極悪人だったら?と明美は時折考えてしまうことがある。

 田宮の妻からは「まともな経歴の持ち主じゃないかも」と出て行って貰うように勧められた。相川からは「あいつには底知れぬ何かがあるぞ」と警告された。

 そして陽介を息子のように可愛がって面倒を見ていた日高に至っては怯えた様子であった。


(あの目で殺されちまうかと思った。)


 そう呟いて震える日高の姿は彼女の記憶に新しい。彼は明美に陽介を辞めさせざる得なくなった事件を語った。


 事の発端は先月の上旬に遡る。従業員同士の喧嘩を止めようと陽介は間に割り込んだと言う。

 逆上していた従業員の片割れに殴られた直後、一瞬だけ見せた表情にその場にいた全員が凍り付いたとのこと。


 陽介の青い瞳が不気味な黒紫色の殺意に染まり、微かに動く唇からは呪詛のような言葉を吐き出していたように見えたらしい。

 刹那的な出来事の後、何事もなかったように陽介は喧嘩の仲裁に入ったと明美は聞かされている。


 その異常過ぎる行動が騒動の張本人達や責任者として喧嘩を止めようとした日高に恐怖を植え付けたと言っても過言ではない。


 その事件を話す日高に対して明美は否定、出来なかった。陽介が普通の人間ではないという現実を一番よく知っているのは彼女自身である。

 もしかしたら宇宙では名の知れた極悪人かもしれない。惑星の一つや二つは破壊しているかもしれない。それでも明美は陽介を信じていたかった。


 心中に芽生えたモヤモヤを打ち消すように明美は手元に置いていたピーマンや筍を千切りにすると少量の胡麻油を引いた中華鍋の中に放り込んで混ぜ合わせた。

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