第十六話 『開幕』

 

 父さんから『雨竜家』の秘密を聞かされた後、僕は脱力して項垂れた。

 酷い頭痛に襲われるのと同時に失われていく愛しい人の記憶。初めて味わうといってもおかしくない程に、『痛覚』とは厄介なものだと実感する。


「…………」

「いいざまね。ずっと貴方のそんな顔が見たかった。でも、まさかお父様が協力してくれるとは思わなかったけれど」

「協力? そんなつもりは一切ないぞ双火。嵐道から真実を聞かされて我等を殺したい衝動に駆られるのは理解出来るが、愚かな選択をしたものだ」

 僕は大声で此処から出せと叫びたかった。天音に会いたい。天音に会いたいんだ。そして、何も知らなかった日常に戻れさえすれば、それ以外に何も要らないとさえ思える。


 僕は突然牢獄を訪れた双火姉さんにすら、今は全く興味を持てなかった。恐れているのは別の事。

(僕はどれだけ記憶を失ってしまったんだろう……嫌だ。これ以上、天音の事を忘れるのは絶対に嫌だ!)

 喉がカラカラなのと、頭が痺れる様に重くて上手く唇を動かせない。


「安心しなさい。あの女は今この本邸へ向かってるわ。再会に向けて歓待の準備を整えないとねぇ?」

「ーーめろ……」

「あら? 今何か言ったかしら? 声が小さ過ぎて聞こえなかったわね」

「やめ、ろよ。天音に、何か、したら、ーー『殺すぞ』?」

 僕は辿々しいながら思わず溢れた台詞に、自分自身が一番驚いた。明らかに一瞬意識が遠退いたのが分かる。僕が抱いた殺意では無く、何者かの想いを代弁をした気分だった。


「双火。既に記憶の蓋は開かれてしまった。逃走するなら今をもって他に無いぞ」

「……お父様、私にもう退路は残されていないのです。仰りたい事は重々承知しておりますが、天音との決着をつけずして、『雨羽ういばね』の未来はあり得ません」

「それこそ『雨月うつき』に唆されているだけだと、何故気付かないのだ!」

「あの男は『雨竜うりゅう家』の崩壊に興味なぞありませんよ。あるのは異常な迄の『本物の天理バケモノ』への執着ですわ」

「……愚か者が」

 この人達は一体何を言ってるんだろうか。僕だけを蚊帳の外にして繰り広げられる会話に着いていけずにいた。


「さぁ、『再会』の準備を始めましょうね。貴方はこれから何も見えない暗闇と、何も聞こえない静寂の世界で、あの女が来るのを待てばいい」

 その言葉を最後に補聴器を外された。どうして今までそうしなかったのか不思議だったけど、多分僕をこの状態に陥らせる事こそが目的だったのだと予想は出来る。

 暫くすると、一度解かれた手足の枷に別の『何か』が再び装着された。


「天音……来ないで……」

 引き摺られていく身体。そんな中、振り絞って漏らした自分の声すら殆ど聞こえやしない。それでも確信があった。きっと天音は自分の命を投げ捨てても僕を救いに来るだろう。


 暴れてでも思惑を阻止してやろうという意思は、先程から鼻腔を擽ぐるジャスミンの甘ったるい香りに打ちのめされた。

 唯一秀でた感覚さえ潰しに来る周到さは、姉ながら見事だと思う。


 ーー何も見えない。

 ーー何も聞こえない。


 まるで、自分が糸で吊られた人形にでもなったかの如き絶望が支配する。次第に足裏から伝わる土の感覚から、邸宅の外へ出たのは分かった。

 そっと触れられた細い指。耳元に添えられた唇。双火姉さんの匂い。


「これから貴方の終わりと再生の悲劇が幕を開けるわ……主役は天音よ。存分に私を楽しませてね?」

「ーーがっ! ぐああああああああああああああああああっ⁉︎」

 耳元で囁かれる様に齎された宣告の後に、身体中を改造スタンガンの高圧電流が迸った。何度も味合わされた感覚だけど、かつてここまでの痛みを感じた事は無い。僕は抵抗する事も儘ならぬまま意識を失った。


 __________


 この時に全てを覆せる程の力さえあれば、彼女を守れたのだろうか? 

 僕は終焉を迎えた無価値な世界で、未だに答えを見出せずにいる。

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