五年ぶり

 身の回りのことをまた書こうと思ったら、はや5年経っていた。


 振り返れば、少ないがいろいろあった。公募はふるわなかった。BFC(ブンゲイファイトクラブ)に出場できたことと、林芙美子文学賞の最終候補に残ったことが、かろうじて話せることだろうか。再開にあたり、あらためて、5年前のここの文章を読み返した。5年前の文章は、少しひっかかる。自我の澱のようなものがところどころに淀んでいる気がしてならず、一思いに削除してしまいたくなる。しかし、10代のころ、過去の日記を読んでは羞恥にかられ捨ててきて、焼畑農業、焼け野原、見ゆれど何も残らないというのを繰り返したその後悔を思い出して、踏みとどまる。


 その後、身体的精神的コンディションに大きな変化があり、養生を余儀なくされた。思うよりも、皮膚感覚や内部感覚につらなる無意識のしっぽをつかむことができなくなり、認知思考に予想外の影響が出た。活字を読むことが苦痛になり、書けなくなった。脳内が真空になったようで、空想が浮かばない。語りの旋律が耳に流れない。書けない、書けないのだ。

 そういった中で、従前の4倍ほどの時間をかけて捻り出した作品もある。苦しんで産みおとした愛着はあるが、他覚的には箸にも棒にもかからなかった。


 ずっと、自閉症、ASDについて、内側からその感覚が感じられる作品を書きたいと思っていた。

 世の中の理解は進み、一般の人も、5年前とは比較にならないほどASDについての基礎知識をつけている。もう、啓蒙の時期は過ぎていて、読み手はその世界をおどろかないし、新鮮にも感じない。

 芥川賞受賞作『ハンチバック』を読んである意味衝撃だったのは、障害をもつひとによる、迂闊な言及を許さない卓越した障害描写のみならず、設定やストーリーをあれほどに強く味つけなければ、賞の俎上にのぼらないということだった。切実が切実であるだけでは選考に耐えないのはもちろんだが、ある意味どぎついその内容が当事者による痛烈な提起として社会に波紋を起こし、作品の評価としてそれをよしとした風潮について、少なからぬ動揺があった。作品については、質の高い文章力に支えられた素晴らしいものであり、投げかけた波紋の大きさもうなずける。動揺したのは、新人賞、そして芥川賞の選考基準が別の域を踏んだように思え、それまでわからないながらもよいものとされる何かとしてかすかに感じられ共有できていたものが、またにわかにわからなくなったからだ。


 招ばれていない。書きたいものは、待たれてもいない。そんな思いが養生でぼやける頭や手をさらに鈍くする。それが理由になり、さらに書かない日が続く。


 活字に慣れよう、と思い立った。

 少し養生がすすんだのかもしれない。今年になり良い職場環境に身を置くことができ、能動性というものをじわじわと思い出してきた。

 リハビリとしてまた文字をここに入力してみる。また、小説を完成させることができるかどうかはわからないし、今はこれしかできないけれど、もし、5年前より文章が読みやすくなっているのなら、嬉しく思う。

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