第29話 女達の策動

 昼食もそろそろ食べ終わろうかという頃、学食で隣の席に座っていた清香から「朋美、ちょっと聞いて欲しいんだけど」と話しかけられた内容を、朋美は最初、聞き流していた。しかし話が進むにつれて真顔で清香を見返し、一通り話が終わったのとほぼ同時に、持っていたスプーンをドライカレーの皿に置いて、小さく呻く。


「それで、付き合う事になった?」

「うん、なんだかそんな事に」

 そしてどことなく居心地悪そうにしている清香を眺めた朋美は、頭痛と眩暈を覚えた。


(これまでのやり取りで、付き合ってるいる認識が無かったのも凄いけど、半ば脅迫しながら、なし崩し的に告白ってどうなのよ?)

 朋美は気を落ち着かせようとコップを取り上げ、その中に半分ほど残っていた水を勢い良く飲み干した。そして再び横に向き直り、慎重に清香に問いかける。


「因みに今の話、清人さんには」

「してるわけないわよ! 恥ずかしいじゃない! というか、今までも告白された時、一々報告なんてしてないからね!?」

「……だよねえ」

 途端に顔を赤くして訴えてくる清香に、朋美は(全く、厄介事を増やしてくれるわ)と深い溜息を吐いた。そしてこの場合、やはり自分が詳細を清人に通報するべきなのか、しかし告げた時の彼の怒り具合を考えると、あまり連絡はしたくないなと眉間に皺を寄せて考え込んでいると、清香が真剣な顔で問いかけてくる。


「それでね? どうしたら良いかと思って」

「どうしたらって、何を?」

 全く文脈と発言の意図が分からなかった朋美が問い返すと、清香は微妙に彼女から視線を外しながら、恥ずかしそうに小声で呟いた。


「聡さんと付き合うって、どうすれば良いのかなって……」

「……は?」

(そこから? そりゃあ確かに、あのシスコン兄貴と私のせいですぐに別れてるから、清香の恋愛経験値は限りなくゼロに近いけど!?)

 あまりと言えばあまりの事態に、朋美は絶句したが、自分の立場では間違っても恋愛指南などできる筈も無いと分かっていた為、わざと冷たく突き放してみた。


「好きなら暫くくっついてるし、嫌いなら別れれば良いだけの話よ。何? もう愛想を尽かしたの?」

「違うから! そんな愛想を尽かすなんて!」

「じゃあ本当のところ、清香は聡さんの事を、どう思っているのよ」

 盛大に反論してきた清香に、冷静に突っ込んでみた朋美だったが、そこで清香はボソボソと、しかし顔をうっすらとピンク色に染めながら、延々と聡についての見解を話し始めた。


「そっ、それは……、時々何を考えてるか分からない事があるけど、気配りのできる優しい人だと思うわよ? 笑った顔も素敵だけど、真剣な顔も格好良いし。それで……」

 そこで、本人は意識していないものの、立派な惚気話を延々と聞かされる羽目になった朋美は、益々精神的疲労感が増大した。


(本人は絶対自覚していない筈だけど、清香からこんな惚気話もどきを聞く日がくるなんて、何か感慨深い……。だけど、迂闊な事は言えないし。かといってあの清人さんと、真っ向勝負ができる聡さんは貴重な人材で、この先清香の前に同レベルの男がまた現れる保証はないし。どうしよう……)

 ひとしきりそんな事を悶々と悩んでから、朋美は顔付きを改めて、清香の話を止めさせた。


「……清香、分かった。もう良いわ」

「そう?」

「それでね、清香」

「何?」

 きょとんと問い返した清香の肩を、そこでいきなり朋美が両手でガシッと掴み、真剣な顔で一言口にした。


「ごめん」

「え? 何が?」

 今度は清香が話の流れが全く分からず問い返したが、朋美は語気強く言い切った。

「理由は卒業するまでは言えないけど、取り敢えず先に謝らせておいて!」

 その勢いに押され、何が何だか分からないまま、とにかく清香が頷く。


「何だか良く分からないけど……、取り敢えず分かったから落ち着こうね」

「卒業したら何でも相談に乗るから! 遠慮なんかしなくて良いからね! お金に関わる事以外だったら、何でも頼って!?」

「その時はお願いします」

 気迫に満ちたその訴えに、何事かという周囲からの視線を意識しつつ、清香が殊勝に答えた。それに安堵した様に、朋美が顔を綻ばせる。


「任せて! 私、次は向こうの特別棟の教室だから、先に行くね!」

「うん、じゃあまた後でね」

 そうして朋美は慌ただしく立ち上がり、トレイを抱えて食器の返却場所まで走り、そのまま手を振って学食を出て行った。それを呆然と見送った清香は、食べかけだった親子丼の残りに再び箸を伸ばしながら、首を捻った。


「何だか、朋美まで変だわ。今年は変な星回りなのかな? お兄ちゃんと聡さんも揃って変だし」

 そして清香の目につかない場所まで行ってから、朋美は何かを堪える様な表情で携帯を取り出し、幾分躊躇しながらも目的の番号を選択して電話をかけ始めた。


「もしもし、緒方ですけど……」

(ごめんね清香! 親友の情報を切り売りする私を許して!)

 当然、その電話の相手は清人だった。


 ※※※


「はい、佐竹ですが」

「今晩は。小笠原ですが、清香さんは」

 夜の八時を回った時間帯、自宅の電話を本を読んでいたリビングで受けた清人は、相手が誰だか分かった瞬間、無言で受話器を戻した。しかし即座に再び着信音が鳴り響く。


「もしもし。聡ですが」

 途端にガシャッと音を立てて戻される受話機。しかし相手もなかなか引き下がらなかった。

「いい加減にして下さい! 大人気ないとは思」

 三度目は会話の途中で清人がぶち切る。そんな取っては切り、取っては切りの攻防を十回程度繰り返し、とうとう向こうが諦めたらしく、切ってから一分経過しても再度呼び出し音が鳴らなくなった時点で、漸く清人は小さく溜息を吐いてから忌々しく呟いた。


「目障りな小バエ野郎が……」

 小さく吐き捨てるのとほぼ同時に、自室でレポートを書いていた清香が、リビングのドアを開けてひょっこりと顔を出した。


「お茶を飲もうと思ったんだけど、お兄ちゃんも飲む?」

「ああ、頼む。淹れてくれ」

「分かった。ねえ、さっき電話が何回か鳴って無かった?」

 不思議そうに尋ねてきた清香に、清人が何でも無い顔で答える。

「何だかしつこい間違い電話が立て続けにな」

「そうなんだ」

 小さく肩を竦めた清人に、清香は頷いてからキッチンへと向かった。そして自分が口にした「電話」の言葉で、つい聡の事を思い浮かべる。


(ここ何日か、聡さんから電話もメールも来ないんだよね。忙しいのかな? こっちから連絡してみようかな? でもわざわざ忙しい時に悪いかもしれないし、どうしよう……)

 そんな風に清香が人知れず悩んでいる頃、残業の合間に会社の廊下から電話をかけていた聡は、携帯を握り締めながら清人に対する悪態を吐いていた。


「あのシスコン野郎!! どこまで邪魔をすれば、気が済むんだ!」

 思わず叫んでから、慌てて周囲に人影が無いかを探り、取り敢えず無人らしいのが分かってから、何とか気持ちを落ち着かせつつブツブツと文句を呟く。


「清香さんに連絡が付かないのは、兄さんが彼女の携帯に、本人が気付かないうちに何か小細工したのに決まってる。本人はそんな事をされてるなんて、夢にも思って無いだろうし……」

 そこで盛大に舌打ちをしてから、聡は冷静に対応策を考え始めた。


「固定電話の取次は不可能。家に直接尋ねても門前払い。昼間に学校に訪ねて行ける程、そんなに時間に余裕は無い。となると……」

 暫く真剣な顔で考え込んでから、聡は一度携帯をポケットに戻し、如何にも嫌そうに背広の内ポケットから名刺入れを取り出した。そしてその中から、以前貰っていた一枚の名刺を探し当てて引っ張り出す。


「……毒を食らわば皿までって言うしな。色々な意味で後が怖いが」

 そう呟いて重い溜息を吐いた聡の手には、以前試写会会場で遭遇した時に、真澄から押し付けられた名刺が存在していた。

 そしてそれを裏返して、書き込まれていた番号を確認し、再び取り出した携帯でその携帯番号に電話をかけ始める。待つ事しばし。しかし予想通りの応答の声が返ってきた。


「……はい、柏木ですが」

「夜分すみません。小笠原です」

「あら! 随分珍しい人から、電話がかかってくること」

 しおらしく挨拶をすると、最初の仕事モードの様なやや警戒気味の口調から一転し、笑いを堪える様な声が返ってきた為、聡は些か憮然として言い返した。


「……ある程度、予測されていたのでは? 頂いた名刺の裏に、こちらの携帯番号を手書きしておくなんて」

「まさか本当にかけてくるなんてね。“彼”の妨害になりふり構っていられないって事?」

「仰る通りです」

 ひたすら下手にでた聡だったが、真澄は素っ気なく言い放った。


「だけど流石に私でも、あまり“彼”を本気で怒らせる様な事はしたく無いんだけど。それに別に、私はあなたに借りも無いし」

「やって貰いますよ。迷惑料の代わりにね。小笠原の損害と俺の精神的苦痛に比べたら、実にささやかな物でしょう?」

「仕事の事を言っているなら、それこそ関係無いわね。ビジネスの世界は弱肉強食。むざむざ盗られるそちらの力量の無さが、災いしただけよ。責任転嫁は止めなさい」

「……………………」

 流石にムッとした聡は、この前からのあれこれを当て擦ってみたが、逆にキッパリと言い切られて黙り込んだ。しかし十数秒沈黙が続いてから、電話の向こうの真澄が軽く溜息を吐いた気配と共に、予想外の台詞を伝えてくる。


「ただし、この場合ハンデが有りすぎるわね。フェアにするのは到底無理だけど、状況を幾らか有利にする位の話なら聞いてあげるわ。何をすれば良いの?」

「は?」

 いきなりの上、あまりにも想定外の台詞を耳にして聡が思わず固まると、真澄は苛々した様に催促してきた。


「さっさと主旨を纏めて、三分以内に言いなさい。こっちは残業中なのよ」

「失礼しました。それでは、お願いしたい内容ですが……」

 急いで気を取り直した聡が、依頼内容を説明するまで三分も必要とはせず、二人の会話はすぐに終了となった。


 ※※※


「もしもし、佐竹ですが……。どうかしましたか? 清香に用なら、まだ帰っていませんが」

 そろそろ夕方になろうかと言う時間帯に、自宅にかかってきた電話に応対した清人は、その相手と伝えてきた内容に戸惑いの表情を見せた。


「は?」

 思わず疑問の声を上げたものの繰り返し要求され、大人しく指示に従うべく電話を保留にして仕事部屋へと向かう。そしてドアを開けて中で資料整理をしていた恭子に声をかけた。


「川島さん。真澄さんから電話で、君に代わって欲しいと言われたんですが……」

「あら、珍しいですね。こちらにかけてくるなんて」

 まだ戸惑いながら伝えた清人に、恭子は椅子から立ち上がりながらあっさりと返した。それに逆に驚きの表情を見せる清人。


「個人的に会っているんですか?」

「ここで引き合わせてくれたご本人が、今更、何を言ってるんですか。ごく偶にですけど、一緒に食事したり買い物に行ったりしていますよ?」

「……知らなかったな」

「お話ししていませんでしたか? あ、それより電話!」

 クスクス笑いながら指摘した恭子だったが、清人には予想外の取り合わせだったのか、些か呆然とその話を聞いていた。そして真澄を電話口で待たせている事に気付いた恭子が、慌ててその室内にある電話の子機を取り上げて会話を始めた。


「もしもし、真澄さんですか?……はい、恭子です。お待たせしました。今日はどうしてこちらに電話を?」

 何となくその場に立ったまま清人がその様子を窺っていたが、話している間に恭子が当惑した声を出す。

「すみません、そう言えば携帯の電源を落としていました。…………え?」

 その声を発したと同時に何故か恭子は背後を振り返り、一瞬清人とまともに目が合った。しかしすぐに視線を逸らして、真澄の話に耳を傾ける。


「はい、…………はい、分かりました。ええ…………、それならちょうど良かったです。確認して、今夜か明日にでもお返事します」

 最後は何故か笑いを堪える表情になった恭子は、終始友好的に話を終わらせた。


「ええ、それじゃあまた」

 そして子機を元の位置に戻すと同時に、清人が怪訝そうに尋ねてくる。

「彼女、何の用だったんですか?」

 それに対し、恭子は清人の方に向き直りながら、楽しげに答えた。


「美味しいお店を見つけたそうで、そのお誘いです。一人客は目立つから嫌とかで、時々お付き合いしているんですよ」

「嫌なら、無理に付き合わなくても良いんですよ?」

 真澄に無理やり連れ回されているのではと、幾分心配になった清人は探りを入れてみたが、恭子はその懸念を一蹴した。


「あら、私真澄さんと一緒にお食事するのを、毎回楽しみにしてますよ? 自分とは違うタイプの方ですから、思いがけない考え方とかが聞けて、楽しいですから」

「そうですか。それなら良いんですが……」

 まだ今一つ納得できない表情で清人はリビングに戻って行き、その姿が完全に見えなくなってから、恭子はしみじみと考えた。


(先生の下で働く様になってから、口からでまかせが上手くなったわね……。喜ぶべきか悲しむべきか微妙だわ。さて……、そんな事より、頼まれた内容を確実にできる様に、段取りを考えておかないと……)

 そんな風に清人の知らない所で、女達の共同戦線が構築されつつあった。


 それから一時間ほどして、清香が元気に帰宅した。

「ただいま!」

「お帰り。ちょうど良かった。そろそろ出掛ける所だったから」

「うん、行ってらっしゃい。気をつけてね」

 まさに玄関で鉢合わせ状態の清香に、清人は愛想良く笑いかけてから、背後の恭子を振り返って軽く頭を下げる。


「清香、戸締まりはしっかりとな。川島さん、十時までには戻るのでお願いします」

「了解しました」

 すっかり心得ている恭子の頷きに、清香が一人むくれる。


「お兄ちゃんったら! もう子供じゃ無いんだから、川島さんに一緒に留守番をお願いしなくても」

「駄目だ」

 清香に一言だけ言い聞かせ、清人は恭子の方に再び向き直り、小声で念を押した。


「……それでは川島さん。不審人物の排除は宜しく」

「どなたの事でしょう?」

「名前を口にしなければ分かりませんか?」

 笑いを含んだその問いかけに、清人も同じ表情で返して来た為、恭子はそれ以上口を挟まず笑顔で頭を下げる。


「いえ、それでは行ってらっしゃい」

 そうしてドアの向こうに清人が出て行くと、清香が憤慨してから恭子に向かって申し訳なさそうに言い出した。

「もう、お兄ちゃんったら! ごめんなさい恭子さん、遅くまで付き合わせて」

 それに事も無げに答える恭子。


「料亭で出版社の接待だから、無碍に断れ無かったみたいね。清香ちゃんが心配で中座して相手方の心証を悪くするより、私が留守番する事で先生がきちんとお愛想笑いしてくれるなら、その方が私も気が楽だもの」

「それもそうね」

 そこで女二人で顔を見合わせ、ひとしきり笑い合ってから玄関から奥へと移動した。


「さて、食材は十分に有るから何を作ろうかしら。清香ちゃん、何か食べたい物はある?」

「あ、私が料理するから恭子さんは待っていて? 久々に恭子さんに、料理の腕を披露したいから」

 いつも泊まる時の様に、夕食の支度をしようと台所に入りかけた恭子だったが、ここで清香が自分が引き受けると言い出した為、少し驚いた顔をした。


「あら、良いの?」

「勿論」

「それじゃあお言葉に甘えて、先生のお部屋から本でも借りて読ませて貰ってるわ」

「じゃあついでにこのバッグを、私の部屋に置いて貰えますか? 料理ができたら呼びますね」

 恭子は清香からバッグを受け取り、台所に入った清香に背を向けて彼女の部屋へと向かった。そして邪魔される事無く室内に入り込む。


(さて、ここまでは予想外に上手くいったけど、どうかしらね……)

 考え込みながらベッドの上にバッグを置き、中から清香の携帯を取り出した。そしてベッドに座りながらその設定を確認しようとすると、案の定暗証番号の入力画面が出てくる。


「えっと……、流石にロックがかかってるわね」

 そう呟いてから恭子は取り敢えず試しに四桁の数字を入力したがエラーになり、次いで少し考えてから駄目でもともとの気分で更に四桁を入力してみた。しかし予想に反してあっさりロックが外れてしまった為、思わず片手を額にやって深々と溜息を吐きだす。


「清香ちゃん……、自分の誕生日じゃ無いのは誉めてあげるけど、先生の誕生日だなんて、先生を喜ばせるだけだから」

 そして何とか気を取り直してから、恭子は聡からの通話やメールの着信拒否設定を次々と首尾良く解除し、携帯をバッグの中へと戻した。


「……これで、修正完了っと。まだもう一仕事、残ってるけど。先生に意趣返しする為に、先生にも清香ちゃんにも気取られ無い様に誘導するなんて、厄介よねぇ」

 そんな事を幾らか疲れた様に呟きながら、恭子は清香の部屋を後にしたのだった。


 そして清香が夕食を作り終わり、二人で向かい合って食べ始めたから暫くした頃、如何にも四方山話のついでという感じを装いながら、恭子が慎重に言い出した。

「……そう言えば清香ちゃん。留守番もそうだけど、携帯の設定とか大丈夫?」

「え? 何がですか?」

 急な話題の転換に清香が怪訝な顔をすると、恭子は用意しておいた台詞をスラスラと述べた。


「先生が清香ちゃんを一人にさせるのを嫌がるなんて、何か変な事でもあったのかと思って、少し心配になったの。以前から泊まりがけの取材旅行の時、ここに泊まる様に頼まれてはいるけど、夕方から数時間家を空ける位で、留守番を頼まれるなんて初めてだったし」

 それを聞いた清香は、溜息を一つ吐いてから申し訳なさそうに答えた。


「うぅ……、ごめんなさい恭子さん。何か年明けからお兄ちゃんがちょっと変で。情緒不安定って言うか、妙に心配性って言うか」

「そうなの? それなら別に良いの。ストーカーの気配とか、無言電話や悪戯メールとかあったのかと思ったわ」

「勿論、そんな事無いですよ」

 慌てて否定した清香に対し、恭子は神妙な顔つきで話を続ける。


「それでさっきの話に戻るけど、携帯なんて個人情報の塊だから、きちんと管理しないと危ないと思ってね。ちゃんとセキュリティーロックをかけている?」

「大丈夫ですよ。恭子さんも心配性ですよね?」

 そこは余裕の笑みで返した清香だったが、恭子は先程勝手に清香の携帯設定を確認した事など微塵も感じさせずに、笑顔で念を押した。

「それなら勿論、ロックナンバーは自分や家族の誕生日とは違う番号に設定しているのよね?」

「……え?」

 途端に笑顔のまま固まる清香に、恭子が疑う様な視線を向ける。


「え? って、清香ちゃん? まさか、ひょっとして……」

「いえ、あの、でもっ! お兄ちゃんの誕生日だし!」

 必死になって弁解する清香に、恭子はわざとらしく溜息を吐いてみせた。


「清香ちゃん。それ位ある程度付き合いのある人は知ってるし、先生はプロフィールで誕生日は公表しているのよ? そんなに親しく無い人でも、清香ちゃんと先生の関係を知っている人なら、容易に推察できそうじゃない」

「駄目?」

 恐る恐るお伺いを立ててきた清香に、恭子は語気強く言い切った。


「携帯が、未来永劫悪意を持った人間に渡る可能性が皆無では無いし、私としてはこの際是非変更を勧めたいわ」

「う~ん、それならどんな番号にしようかな」

 最早食事そっちのけで、悩み始めてしまった清香に、とんとん拍子に事が進んで嬉しい為、緩みそうになる顔を何とか引き締めながら、恭子は冷静に問いかけてみた。


「誕生日以外で、そうそう忘れない日付とか、番号とかは無い?」

「えっと……。あ、そうだ! 0612にしよう!」

 そう宣言してから再び箸を動かして料理を口に運んだ清香を、恭子は微笑ましく思いながら、自身も箸を動かしつつ小さな疑問を口にした。


「確かに二人の誕生日では無いけど、何か忘れられない意味がある数字なの?」

「あれ? 覚えてない? 六月十二日は、恭子さんが初めて家に来た日だけど?」

「え? そうだった?」

 何気なく言われた言葉に、恭子は目を見開いて手の動きを止め、清香は清香でしみじみと語り出した。


「もう、あの時は本当にびっくりしたんだから。夕方帰ったら家に知らない女の人が居て、お兄ちゃんに『暫くこの人と一緒に暮らすから』って言われた時には」

「……ごめんなさいね。相当驚かせた自覚はあるわ」

 うんうんと頷きながら話をする清香に、恭子は如何にも申し訳なさそうな顔になる。


「おまけにその頃、まだ客用布団を揃えて無かったから、『明日布団を買うから、一晩一緒に寝てくれ』って言われて」

「私は床やソファーでも良かったんだけど、先生が『ちゃんとしたベッドで寝なきゃ駄目だから、床やソファーを使うなら俺がそこで寝るから俺のベッドを使って下さい』と強固に主張されて、あの時は本当にどうしようかと思ったもの」

 そこで女二人は顔を見合わせ、申し合わせた様に同時に溜息を吐いた。


「本当に、訳が分からない主張だったなぁ。私、義理のお姉さんになるかもしれない人を、ベッドから蹴り落としちゃったらどうしようって、凄く緊張したんだから! でも後でよくよく考えたら、恋人だったら一緒に寝るだろうし。その時、誰かと一緒の布団で寝るなんて凄く久し振りで、ホカホカしてすぐ寝ちゃった様な気がする」

 当時を思い出しつつそう述べた清香に、恭子は思わず苦笑してしまった。


「ええ、緊張してた割には、布団に入って五分で熟睡してたから、凄く羨ましかったわ」

「だって両親が死んでからはいつもお兄ちゃんと二人きりで、泊まりに来る人とかも皆無だったから、なんだか家族が増えたみたいで嬉しかったんだもの。そうか、お兄ちゃんが結婚したらお姉さんができるんだ。この人だったら仲良くできそうだな、って。だから忘れられない一日なの」

 にこにこと説明された内容に、最近では殆ど忘れかけていた当日の事を思い出した恭子は、その顔に心からの笑みを浮かべた。


「……私だってそうよ。ありがとう、清香ちゃん」

「どういたしまして。……ところで恭子さん、本当にお兄ちゃんと結婚しないの?」

 どこかからかう様な口調で尋ねてきた清香に、恭子も余裕で笑って答える。


「だから、その話は今更よ。あれから五年以上経っているのよ? もし本当にそうなら、とっくに清香ちゃんの義理のお姉さんになっているわ。先生とは、あくまで雇い主と雇用者の関係よ」

「そうなのよね。残念」

 本心から言ってくれていると分かる言葉を恭子は嬉しく思い、半分照れ隠しに箸を動かしながらつい余計な事を口走った。


「それに、先生には先生の、お考えがあるみたいだし」

「なあに? それ」

 清香に問われて自分が口を滑らせた事に気が付いた恭子は、にっこり笑って誤魔化す。

「秘密。私が勝手に推察しているだけだし」

「えぇ? ずるい!」

 盛大に抗議してきた清香だったが、ここで恭子が話を逸らしにかかった。


「それに、先生の結婚云々の話以前に、偶には清香ちゃんの恋バナとか聞きたいわね」

「うえ? 恋バナって」

 途端に動揺した声を上げる清香に、恭子はテーブルに肘を付きつつにっこりと微笑してみせる。


「この前、大学祭で顔を合わせた小笠原さん。この際、その後どうなっているのか、是非聞きたいわ」

「ど、どうなってるのかって……」

「うふふ、清香ちゃんとこんな話ができる様になるなんて、本当に感慨深いわね。ほら、お姉さんに何でも話してみなさい」

「うぅ……、恭子さんの意地悪!」

 小さく手招きする仕草を見せた恭子に、清香が顔を真っ赤にしながら拗ねる。それを見ながら恭子は何とか噴き出しそうになるのを堪えた。  


(ありがとう、清香ちゃん。今夜はぐっすり寝られそうだわ……)

 清香との会話で、思いがけずこの家を初めて訪れた時の事を思い出し、恭子の胸の内はその時と同様に、温かくなっていた。

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