第14話 嵐の予兆

「それなら、そういう事で。それじゃあその時に、お休みなさい」

「清香、電話は終わったか?」

 耳から携帯を離した瞬間、背後から軽いノックの音と清人の声が聞こえた清香は、ゆっくり振り向いた。すると開いたドアの隙間から、顔を覗かせている清人を認める。


「うん、終わったけど、どうかしたの?」

「浩一が、袖の下持参で来ているんだ。顔を出すか?」

「うん、今行く! ちょっと待ってて」

「じゃあ、紅茶を淹れておく」

 慌てて机の上に有った手帳に何かを書き込み始めた清香に、清人は声をかけながらその場を後にした。そして用事を済ませた清香はすぐにリビングに向かい、ソファーに落ち着いているスーツ姿の浩一に笑顔で駆け寄った。


「浩一さん、今晩は。お兄ちゃんが袖の下を持って来たなんて言ってたけど、何か頼み事をしに来たの?」

 その清香の台詞に、苦笑を禁じ得ない浩一。


「全く……、あいつは土産と言えないのか。単に清香ちゃんのご機嫌取りだよ。ヨハンのクリームチーズケーキを買って来たんだ、好きだろう?」

「うわ、浩一さんありがとう。大好き!」

 思わず横に座って浩一の首に腕を回し、抱き付いた清香を、浩一は抱き返しながら笑みを深くした。


「あはは、凄く嬉しいけど、清人に殺されるから、こういう事はあいつの目が届かない所でね」

「その方が、お互いの身の為だな」

 いつの間にかティーセットを乗せたトレーを持った清人がやって来て、頭上から冷え冷えとした声を降らせた為、清香はくすくすと笑いながら手を振った。


「もう、お兄ちゃん! ふざけて何を物騒な事言ってるのよ!」

(いや、本気なんだが)

 清人は黙ってポットとカップをテーブルに置いてキッチンに戻り、再びケーキを乗せた皿を持ってきた。その間斜め向かいに座って世間話をしていた浩一と清香だが、清人が浩一の正面に座り、茶漉しを持ちつつ蒸らしていた紅茶をカップに注ぎ始めたところで、清香が素朴な疑問を発した。


「ところで浩一さん。どうして平日の夜に、わざわざうちに来たんですか?」

「ちょっと清人に、相談に乗って欲しい事が有ってね。男同士の話だから、ケーキを食べたら両手で耳を塞いでくれているとありがたいな」

 ふざけた口調で告げた浩一に、清香も笑顔で応じる。

「安心して。それなら食べ終わったらちゃんと部屋に引き上げるわ」

「ごめんね、清香ちゃん。お詫びと言ってはなんだけど、今度の土日、どちらかドライブに行かない? 行きたい所があれば連れて行ってあげるから」

 さり気なく誘いをかけた浩一に対し、清香は申し訳無さそうに断りを入れた。


「ごめんなさい浩一さん。どちらも予定が入っていて。土日は再来週も無理なの」

「それは忙しいね。友達との約束が色々詰まっているの?」

「友達との約束もありますけど、最近は浩一さんみたいに、皆が色々誘ってくるから」

「へえ、色々って、どんな?」

 柏木総一郎から、孫達への通達を浩一経由で聞いている清人は、笑いを堪えながら素知らぬふりで尋ねると、清香は考え込みながら口にした。


「えっと……、玲二さんとはボウリングの日と、それとは別に新しいネイルサロンで新着の物を試してみる事にしていて、正彦さんとは今度結婚するお友達の結婚祝いを、一緒に選んでから食事をする予定で、明良さんにはエステに連れて行って貰った後、写真を撮って貰う事になっていて、その他に水族館に連れて行って貰う日もあって、友之さんには……、あ、そうだ、お兄ちゃん!」

「うん? 何だ、どうかしたのか?」

 何か思い出したらしい清香に唐突に呼び掛けられ、清人は紅茶を飲もうとした手を止め、訝しげに妹を見やったが、続く話に僅かに目を細めた。


「友之さんに『二十歳になったんだから、プールバーに連れて行ってあげる。だからいつもは門限は二十一時だけど、清人さんに帰りはそれより遅くなる事を了解して貰っておいて』って言われていたの。『二十三時までには帰る様に送ってあげるから』と言ってくれてるし、良いでしょ? お兄ちゃん」

(あの野郎、どさくさに紛れて、清香をどこに連れて行く気だ!?)

 怒りまくっている清人の内心には気付かないまま、清香はおねだりモードに突入した。


「ねえ、お兄ちゃん、良いでしょう? 友之さんが帰りは責任を持って、送ってくれるって言ってるし」

 上目遣いでの訴えに、清人は歯軋りしたいのを堪えながらボソッと呟く。


「……二十二時」

「え?」

「それ以上遅くなるなら、それ以降あいつと出掛けるのは無しだ」

 素っ気なく宣言した清人に、清香がたちまち不満げな声を上げる。


「ええ? お兄ちゃん、横暴! せっかくビリヤードを徹底指導して貰えるかと思ってたのに!」

「清香。俺の言う事が聞けないのか?」

「う……、はい。分かりました」

 途端に凄んできた清人の表情と声音に、清香はこれ以上逆らってはまずいと判断し、不承不承頷いた。そこで浩一が呆れた様に口を挟んでくる。


「清人、お前な……。清香ちゃんにも色々付き合いがあるだろう。二十歳になったんだし、コンパとかも『飲酒は厳禁だと兄に言われてるから参加できません』で片端から断らせるのも、無理があるんじゃないのか?」

「他ではどうか知らんが、うちでは俺の方針でやらせて貰うだけだ」

「全く、変な所で頑固だな、お前は」

「放っておいてくれ」

 浩一の取りなしの台詞をすげなく一刀両断し、黙々とケーキと紅茶を味わっている清人をよそに、浩一と清香は苦笑交じりに目と目で会話した。


(過保護で心配性の兄が居ると、色々苦労が多いね清香ちゃん)

(今更です。もう慣れてますから)

 そしてまた一口紅茶を味わってから、清香がしみじみと言い出した。


「でも、皆の誘いがこんなに重なるなんて珍しくて。おかげで土日とか平日の早く終わる日とか、これから二週間ほぼ予定が埋まってるわ」

「随分モテてるな」

「茶化さないでお兄ちゃん。それで聡さんとの都合がなかなか合わないから、さっき相談したんだけど、今度の大学祭の時に構内で待ち合わせする事にしたの」

「はあ? ちょっと待って清香ちゃん!?」

「清香! 何だそれは!?」

 淡々と語る清香とは対照的に、男二人は目を見開いて問いただしたが、当の本人はきょとんとして言葉を継いだ。


「何だ、って……、二人ともどうしたの? 単に大学祭で聡さんと会う事になったってだけの話じゃない。どうしてそんなに驚くわけ?」

 途端に黙り込んで物騒な気配を醸し出し始めた清人から視線を逸らしながら、浩一はさり気なく突っ込んでみた。


「いや、その……。聡さんって、この前試写会で会った角谷さんの事だよね。試写会の券は清人のサイン本を貰ったお返しに、という事は何となく分かるんだけど、まだ二人が会う必要性とか理由があるのかな、と思って」

「それは聡さんが、浩一さん達と同じだからだと思いますよ?」

「え? お、俺達と同じ?」

 動転して問い返した浩一だが、清香は事も無げに答える。


「ええ。だって私が小学生の頃に『どうして浩一お兄ちゃん達は清香と遊んでくれたり、色々プレゼントをくれるの?』って聞いた時、『俺の所は気の強い姉さんだけだし、倉田さんと松原さんの所は息子ばかりだから可愛い存在ってものに飢えててね。清香ちゃんみたいな可愛い子を、皆妹みたいに無性に可愛がりたいんだよ。だから好き放題構われて、遠慮無くプレゼントを受け取ってくれたら嬉しいな』って言ってたでしょう?」

「あ、ああ……、言ったね。確かに」

 過去の自分の発言を振り返り、浩一は清人から冷たい視線が全身に突き刺さるのを感じながら、密かに冷や汗を流した。


「聡さんも一人っ子だから、私の事妹みたいに可愛がりたいんですよ。特にこのポニーテールがお気に入りで、良く触ってますし」

「触っ……」

「…………」

(清香ちゃん! お願いだから、これ以上清人を刺激する様な発言は!!)

(親はともかく子供まで邪険にするのは気が引けたから、こいつらが清香に纏わり付くのを半ば黙認してたが……、間違いだったか。しかしあいつは俺の知らない所で、清香に何をしてやがるんだ!?)

 怒りのあまり無表情の清人を見て、真っ青になっている浩一に気付いた清香が、心配そうに声をかけた。


「どうかしたの? 浩一さん。何だか顔色が悪いような……」

「い、いや。大した事は無いから気にしないで。それで、どうして彼は清香ちゃんの所の学祭にわざわざ出向く事に? 出身大学でもないのに」

 何とかその場を取り繕った浩一に、清香はそれに至った経過を話し出した。

「正式に所属しているわけでは無いんですけど、友達関係で時々お手伝いしてるボランティアサークルが、院内学級の慰問をしているんです。家庭教師みたいに勉強を教えたり、子ども達の遊び相手になったりとか」

「ああ、清香ちゃんの大学は医学部付属の病院があったね。そこでの活動?」

「主にそうです。それで学祭でその諸々の活動内容のポスター発表と、その院内学級の備品購入や活動費捻出の為の、チャリティーオークションをする事になっていて、それに関わってる話をしたら聡さんが興味を持ってくれて」

 そこで唐突に清人が皮肉混じりの口調で口を挟んだ。


「へぇ、一介のサラリーマンの角谷さんが、どうしてそんな事に興味を持つんだろうね?」

(どうせ全然興味なんて無いくせに、口からでまかせを言って清香を丸め込んだんだろうが!)

(うわっ、清人の奴目が笑ってない! 本気で怒ってる証拠だ。清香ちゃんは全然気付いて無いけど……)

 そんな男達の心境など全く理解できないまま、清香は話を続けた。


「それがね? 聡さんのお母さんって、ある民間団体の設立者の一人で、良く小児病棟の慰問に行ったり、小さな子供が長期入院してる親に対して、病院近くの宿泊施設や賃貸物件の費用を助成したりする活動をしてるんですって」

「……そうなんだ。それは偶然だね」

 辛うじて声を絞り出した浩一に、清香は大きく頷いた。


「私も話を聞いて、そういう活動もあるんだって初めて知ったの。そうよね、難病の子供とかだと全国各地から設備の整った大病院に集まるし、そうしたら小さな子供だけ1人で送り出すのは可哀想だから、親が付いてくるのが人情ってもので。だけど治療費に加えて、親の経済的精神的負担は相当だと思うし。やっぱり学生とは視点が違うなあって感心したの」

(小児病棟の慰問だと? あの偽善者が、どのツラ下げてそんな事を!?)

 如何にも感心した様に呟く清香の横で、清人はカップを砕かんばかりに両手で握り締めていた。


「それでお母さんがそういう活動をしている事を知ってたから、私の話に聡さんが興味を持ったらしくて、『できれば案内して貰えないかな?』と言われたから快諾したの。別に悪くは無いでしょう? …………って、本当にどうしたの? 何だか浩一さんもお兄ちゃんも顔色が悪いけど」

 ここで清香は怒りのあまり無表情になっている清人と、その清人を見て生きた心地がしていない浩一の異常に、漸く気がついて声をかけた。しかし浩一が引き攣った笑いを浮かべながら、何とか誤魔化そうとする。


「いや、何でもないよ。ちょっと仕事が忙しくて疲れたかな?」

「本当に大丈夫? そうは見えないけど。う~ん、ちょっと待っててね」

 何かを思いついたらしい清香は、力無く笑ってみせる浩一に断りを入れて立ち上がり、真っすぐキッチンの方へと向かって行った。そこから扉を開けたり何かを置く様な気配が微かに伝わる中、浩一が正面の清人に目を向けて、うんざりした声を漏らす。


「清人……、清香ちゃんが居なくなった途端、人相が悪くなってるぞ。気持ちは分かるが」

「それなら、俺がこれからする事の見当もつくよな?」

「正直、あまり考えたくない」

「お前に……、もそうだが、柏木産業に少し無茶して貰うぞ。アポを取って、今度社長にも頭を下げに行く」

 地を這う様な声で発せられた、容赦の欠片も無い台詞に、思わず浩一は泣きたくなった。


「……せめて全面戦争は回避してくれ」

「それはあいつの心掛け次第だ」

 それを聞いた浩一ががくりと項垂れた所で、清香が嬉しそうにリビングに戻って来て二人に告げた。


「良かった~、今確認してみたら、材料が全部揃ってたの。これから真澄さん直伝、特製スタミナドリンクを作るから二人とも待っててね?」

 その台詞に瞬時に顔色を変え、背中を向けた清香に慌てて声をかける二人。


「あのっ! 清香ちゃん!? もう夜も遅いし構わないで良いから」

「ちょっと待て、清香。二人ともって、俺も飲むのか!?」

「もう材料は揃えたし、あとはミキサーにかけるだけだから遠慮しないで浩一さん。お兄ちゃん、この前急に体調崩したくせに何言ってるの。この際浩一さんにお付き合いしなさい!」

 そう言って再び清香が壁の向こうに姿を消すと同時に、浩一は無言で立ち上がった。しかし清人がすかさずその腕を捕らえ、低い声で囁く。


「どこに行く気だ? 浩一。折り入っての相談とやらがまだだろう」

「いや、今夜はもう良いから。それは日を改めて電話ででも」

 遠くからウィーンという振動音が微かに伝わる中、一層顔色を悪くした男二人の、些か低レベルな攻防が小声で続いた。


「お前がここで帰ったら、俺が二人分飲まされる羽目になるだろうが。 俺を殺す気か?」

「お前だったら清香ちゃんを何とでも言いくるめて、飲まない様に持っていかせられるだろ?」

「清香が俺の為に作った物を、口にしないで捨てられるか! そんな事をする位なら死んだ方がマシだ」

「泣かせる兄妹愛だな。俺に構わず、潔くそれに殉じろ。だから頼むから俺を巻き込むな」

「お前は家で耐性ができてるだろう、お前こそ潔く俺に付き合え!」

「清香ちゃんが言う代物なんて、家で口にした事は無い! 第一『姉さん直伝』ってだけで、もう俺的にはアウトなんだ! 姉さんがまともに包丁を握ったところなんて、未だかつて見た事なんか無いぞ!!」

「二人とも何を騒いでるの? さあ、出来たからグイッと飲んでみて?」

 そこで満面の笑みで現れた清香が携えて来た物を見て、清人と浩一は何とも言えない顔で黙り込んだ。その反応を見ながら清香がトレーの上の大きめのグラスをテーブルに二つ置き、苦笑交じりに説明する。


「二人とも……、見た目で判断しないでよ。確かにほうれん草とかピーマンとか紫キャベツとかが入っているから、こんな微妙な色になっているけど、他にも色々入っているし見た目ほど味は酷くないのよ? 私、風邪気味の時に飲んでみたら、次の日はすっかり回復してたし。騙されたと思って飲んでみて?」

(いや、『騙されたと思って』じゃなくて、実際に騙されていると思う)

 清人と浩一そうは思ったものの、にこにこと促す清香に対しそれを口にできなかった。


 更に大抵の物を『美味しい』という部類に括れる、清香の幅広い味覚であれば、『見た目ほど酷くない』と評する味がどんなものかは想像もできなかったのだが、基本的に清香に甘い浩一と甘過ぎる清人は、それを突っぱねる事ができず、悲壮な覚悟を決めて、濁った濃緑色の液体の入ったグラスに、ゆっくりと手を伸ばした。

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