やっぱ立体的な奴はダメだ。

倉石ティア

第1話 持論

 美しい作品を描く人は、美しい心を持っている。

 そして美しい心というものは、不必要なものをすべて削ぎ落としたカタチの芸術として現れる。

 それが持論だった。強い恨みや深すぎる愛情は、不要な線や複雑で難解な色合いを生み、結果として煩雑な作品が完成することになる。製作者にとっては快感でも、受け取る側からしてみれば作者の自慰行為にも似た作品を見せられることは苦痛でしかない。生半可な覚悟と技量で描かれることで、作品の価値が失墜することは間違いないと言っても過言ではないだろう。

 もっとも、失墜する為にはある程度の高みに作品がある必要があり、俺の作品である絵画にはそれほどの価値がないのが現状なのだが。

 この持論は、絵画のような平面作品だけに向けられるわけではない。立体的な造形物に向けられることもあるし、小説や音楽など、表現方法を筆と絵具に頼らないものに向けられる機会の方が多いのかもしれなかった。小説なら、主人公の内面描写が多すぎれば読者は気持ち悪がって遠ざかってしまうし、音楽なら、不必要に多くの楽器をかき鳴らすことは不協和音を生み出す原因となり得る。勿論、雑多なものの中から宝物を見つけ出すことが不可能というわけではない。

 だが、俺の求めているものとは違う。

 これは、俺の持論なのだ。だから、誰に否定されても構わないのであった。

 大学の美術室、といってもほとんどの部員が菓子を食べ、空いた時間を片手間に潰すだけの空間となってしまった場所で、俺は黙々と絵を描き続けていた。二十人以上が在籍する美術部で、しかし実際に絵を描いているような酔狂な物好きは俺を含めても二人しかいない。描けないことはない、という人間も大方が漫画同好会の方へ流れてしまっていて、美術部という存在は形骸化しつつあった。それも、仕方のないことだろう。

 本物になるためには、偽物でいてもいいという甘えを捨てなくてはならない。

 偽物は所詮、偽物であるという目を背けたくなるような現実と向き合えるような人間でなければ、本気で絵を描いたりはしない。可愛らしくデフォルメされた絵を描くか、冷たさを感じるほどに写実的な絵を描くかの違いはあっても、本気で絵を描こうとする人間には覚悟が必要だ。そもそも、世の中は広い。

 芸術よりも大切なものを見つけた人間が大勢いることを、俺は知っている。その判断は大抵の場合正しく、俺がとやかく言えるようなものではない。今あるものを捨て去ることが出来ない以上、芸術と向き合えない現実から目を逸らした彼らの判断は間違ってはいないはずだ。少なくとも俺のように、才能が底を尽きたのに絵を描き続け、長い人生の終わりで振り返った時に借金として計算されていそうな人間よりは、マシな選択をしている。

 美術系の大学に落ちたくせに、両親を裏切るようにして絵を描き続けている男よりは。

 両親には、奨学金をとることを条件に、学費と家賃の両方を納めてもらっている。彼らはあくまでも、俺に普通の道を歩んでほしいと願っているのだ。俺も両親の意志をくみ取って浪人はせず、比較的就職口のありそうな理工系の大学へと進学した。芸術家として認められないまま、気が付いたころには社会の歯車になっているかもしれないと思う日もある。

 必死に夢を追いかけていた。

 そして、夢から遠く、離れつつもあった。

 両親は、たとえ奨学金がなくなっても学費だけは払ってくれると言っていたが、その時点で絵を描くことをやめなくてはならない。食費やガス代、水道代の他にも光熱費などの生活に必要な金を考えていくと、更にバイトを増やさなくてはならなかった。それだけは耐えられない。これ以上絵を描く時間が削られることに、俺が耐えられるとは思わない。俺は芸術家として生きていたいし、芸術家として死んでいきたいと願っているのだから。

 本気で絵描きを目指すなら美術系の短期専門学校でいいじゃないかという声が聞こえた気がする。いつもの幻聴だ。俺の心を圧殺するかのように、いつだって声は聞こえてくる。だが、専門学校ではダメだ。俺の求めた絵が描けなくなってしまう。まだ、芸術から離れた大学へ進学したほうがマシなのだ。

 俺は趣味で絵を描いているわけではない。しかし技巧だけを高めて、作家の個性が失われてしまった作品なぞを目指しているわけでもない。端的に言えば、認められたいのだ。絵描きを自分の職業としたくて描き続けているのだ。

 これ以上、両親を騙せない。もしもバイトの時間が増えれば、俺は絵を描く時間を減らさなくてはならなくなる。社会人からすればたいしたことがない金額でも、自費で払うことになれば貯蓄に回している余裕などなくなっていくだろう。そうなれば自然の風景を取材しにいくことも出来なくなり、本物の感触を得ることが出来なくなってしまう。

 偽物を作りたくはないのだ。粗く、他人に誹られる様な絵が出来上がったとしても、いつだって本物を作り続けていたい。偽物に、本物ほどの価値はないのだから。

 本物を作る為には、愛執にも似た濃い感情を持ち続けなくてはならなかった。血よりも濃い感情を心の中で燃やし続ける為に、俺は命と時間の両方を削らなくてはならない。そうして削られていく己の身体に一抹の期待を抱いていた時期もある。芸術に対する俺の向き合い方は、不必要なものを削り取って、必要なものだけを残していくものだ。だからこそ、俺は自分を苦しめている。命さえ削りながら、毎日を生きている。

 しかし、うまくはいかないらしい。

 心をすり減らすようにして生きているはずなのに、俺が画用紙に描く線のほとんどは無駄な線だ。削ろうと思えば、削れてしまう弱い線だ。

 死人の顔のように白い画用紙に、黒で自分が描きたいものを塗りこめていく。筆先から迸る、汗のような絵具。俺という人間の分身を刻むように、現実への憤怒、逃避への渇望、唯一交流のある知人への、あられもない劣情さえ描きこんでいく。白と黒で骨組みが作られた画用紙の中の世界には、時折血のように赤い朱色や紅が混ざり、海のように深い青で悲しみを表現しようとする。小学生の好みそうな単純な色は、絵の中で容易に混ざり合う。一色が二色に、二色が一色に変化を遂げる。

 そうしていつか、俺の複雑怪奇な感情が、たったひとつの願いに凝縮されるように。

 俺は、絵を描き続けているのだ。

 呪いと願いを込めて筆を動かし続けていると、バイトの時間になった。講義が終わってからの三時間で描いたのは、鎧を着た魔物の絵だった。芸術家が見れば眉をひそめるかもしれない、伝統的絵画から離れたタッチで描かれている。かといって、現代で最も好まれている、可愛らしさを追求した作風でもない。タイトルをつけるなら、……何になるだろうか。いつもタイトルだけはつけ難くて、最後まで放置することも多いのである。

 この絵の主役は魔物だった。それも普通で何の変哲もない魔物を描くのではなく、死にかけの魔物なのだ。

 吹きすさぶ風の中に立っているかのように、魔物の身体は歪んでいる。着込んだ鎧には幾重ものヒビが入り、今にも砕け散りそうなほどに古びていた。奴の目はルビーをはめ込んだように赤く、身体からは青い血が流れ出ている。死にかけている魔物は、しかし確かな殺意を抱いていた。歩き続けたその先に、自分が追い求めたものがあると信じているようにも見える。落ちくぼんだ目からは、鬼気迫るものを感じた。

 踏み出そうとしたその一歩が、果たしてどこへ行くのか。

 描いた本人さえ飲み込み、食い殺そうとするかのように、絵には執着が籠っていた。

「おお、今日もすごい奴を描いたね」

 手荷物の片づけを終え、立ち上がろうとしたときに声をかけられた。驚き慌てた俺は、思わず鞄を筆を洗うための容器に落としてしまいそうになる。使い始めてから年月が経っているとはいえ、茶色い鞄が黒く汚れるのは好まない。非難めいた目を向けると、彼女はそれを受け流すように、俺の描いた絵を見つめた。

「君、やっぱり才能があるんだよ」

 にこやかに笑いかけてくる彼女を、俺は静かに睨み返す。負の感情をこめた声で、大学唯一の知り合いに声をかける。その声は、呪いを呟くように低かった。

「お前か」

「お前とは失礼だな。私の名前を憶えてないのかい」

「下野薫だろ。知っているとも」

「そうだよ、神成雄鹿君。君はもっと、人との関わり方を覚えてみたらどうだね」

「……お前も、その言葉遣いを変えてみてはどうかね」

 俺と喋る時だけ、道化みたいな口調になりやがって。

 胸に去来する感情が悔しさを募らせるせいか、今にも引きちぎりたくなるような愛らしいポニーテールを見つめているとやっぱり腹が立った。というのも、下野薫という人間が俺にとっては目障りで仕方がないくせに、彼女が他の誰よりも美しく、初めて見たとき見惚れてしまったというのが悔しいからこそ浮かぶ感情なのだろう。彼女にポニーテールは似合わない。俺の好きな髪型は、俺が最も好みとする顔貌をしている下野には似合わなかった。それなのに髪を結んだ下野も美しく、内臓を引き絞られているかのような痛みを覚える。芸術以外のことでたいして関わっていないような奴に、これほどまで心を揺さぶられている自分がいるというのも、なんだかとても腹立たしい。

 ……だから、下野が嫌いなのか。

 原因と結果が、前後逆転しているようだ。

 彼女と言葉を交わすときは苦痛しか感じないと言いたいが、なぜか安堵を覚える自分もいるのが事実だ。絵を描く人間と会話をしている、その実感があるからだろう。

 とにかく、愛憎含め様々な感情が心をかき乱し、俺の心臓を苛んでいることは確かだ。下野が傍にいるとき、俺の心臓には絹糸で縛られているような痛みが走る。その感覚が、俺は何より苦手だった。

 俺よりも綺麗な絵を描いて、俺よりも家庭の事情に恵まれていて、しかし本物の絵描きになろうとしない下野薫のことが嫌いだ。そうだ、俺は彼女が嫌いなのだ。決意を込めて睨み付けようとしたところで、彼女が振り返った。思わず、目を逸らす。

「この作品のテーマはなんだい?」

 俺の胸中に渦巻く言葉を理解しえない下野は、朗らかな笑みを浮かべたまま語りかけてくる。嘘偽りを述べる必要を感じなかった俺は、真剣に答えてやることにした。

「……ないよ」

「無か、それはまた単純なようでいて複雑なテーマだね」

「何もないんだよ。概念を象徴しているわけじゃない」

「おや、筆の進むままに描いたということかい?」

「そうだ。俺の手癖で描いただけだよ」

 下野の顔に満足そうな笑みが浮かんだのを見て、瞬間、描いた絵画を切り裂いてしまいたくなる。画用紙から引きはがして、彼女が見ている、目の前で。

 堪えるのに苦労するほどの羞恥心だった。

 だが動かない。自分の才能がないことを認めることと自分の作り上げた作品たちを侮蔑することでは、まるで意味が違う。自分で納得がいかない作品ならまだしも、この鎧を着こんだ魔物は少し気に入ってしまうほどの出来栄えだ。悦に入るほど細部まで書き込まれているわけではないが、三時間で制作したという点を加味すれば、まずまず以上の出来映えといえよう。これから加筆していけばもっとよくなるに違いない。

 それだけの作品を破り捨てる心の強さが、俺にはなかった。

 作品を眺めていると下野に肩を叩かれた。その手には、大学の購買でも売っている菓子の袋が握られていた。

「食べる?」

「いや、今は気分じゃない」

「おや、君は手が汚れているみたいだね。というわけで私が食べさせてあげよう」

「いや、別に食べたいわけでもないし」

「ほらほら、遠慮しなくてもいいんだよ?」

 下野が一つのチョコをつまんで、俺に突き付けてくる。どうせ、俺が受け取るまでは引き下がるつもりがないのだろう。両腕に持った荷物を下ろすのも馬鹿らしかったので、口を開く。下野が俺の口の中へ、ペットボトルキャップほどもあるチョコを押し込んできた。

 息が詰まる。

 それがチョコの大きさによるものではなく、下野の指が俺の唇に触れたからだということに、俺は気が付いている。精神が動揺した状態でまともな味などわかるはずもなく、俺は黙ってチョコを飲み下した。何度も繰り返し餌付けしてくる下野が満足げな顔をしたのを見て、なんだか負けたような気分になった。

 市展に出すような、他人に触られると実害のある作品は家に閉じこもって描くことの方が多い。だから、趣味や息抜きで描いた絵は美術室に放置して、時間の余裕があるときに回収することにしていた。下野が食い入るように俺の絵を見つめだしたのを見て、そっと美術室から抜け出す。彼女に絡まれるとロクなことにならないのは、既に学習済みだ。大学に入学してからもう一年、彼女と初めて顔を合わせてからも同じくらい経過しているが、未だ彼女との距離感を掴めずにいた。

 出来れば俺は、離れて欲しい。

 美術室を出て手洗い場へ向かい、赤と黒で汚れた手のひらが白くなったのを確認してから、大学の長い坂へと歩き出す。駐輪場の横を通り過ぎようとしたとき聞こえた声に、俺は思わず耳を疑った。

「おい、ちょっと待ち給えよ」

 振り返る。当然のような顔をして、下野がそこに立っていた。緩やかに吹く風が彼女の体温を運んでくる。少し、湿かい。

「……ストーキングは犯罪だぜ」

「なに、相手に認められれば問題ない」

「犯罪者だもんな。うん、認めてみたけど大問題だぜ」

「違うだろ、もー……。まぁ、アレだ。私と一緒に帰ろう、という提案なのだが」

 どうかね、と下野がお伺いを立ててくる。その声色が珍しく可愛らしかったものだから立ち止まってしまい、そのため下野に追いつかれることとなってしまった。

 上手い返し方を考えているうちに、隣に並ばれてしまう。

「ね、いいでしょう?」

「……お前、下宿しているんだっけ? 俺の住んでるとこ、駅とは逆方向なんだけど」

「いいや、通いだよ。でも大丈夫! 帰りが遅くなるなら、家の人に連絡するから」

 まるで高校生のようだ、などと友人らしき人物が一人もいなかった高校時代を思い返してみる。あれもまた、魚の臓物のような苦さを持っていた。

 ともかく、ちゃんと帰れるなら大丈夫だろう。下野を放って歩き出すと、無言を肯定のサインと受け取ったのか、彼女が素直についてくる。親の買い物についていく子供みたいだった。このまま何かをねだられるのでは、強請られるのではないかと不安になるくらいだ。

 早歩きをしようとすると、彼女も歩調を揃えてきた。負けず嫌いな奴だ。そういうところも嫌いではないが、下野薫はお嬢様だ、という話を小耳にはさんだことがある。形骸化した美術部の部長が、スナックを片手にそんなことを言っていた。

 俺の隣を歩く彼女は、とてもではないがお嬢様のようには見えない。確かに下野は美しいのだが、気品というか雰囲気というか、そういうものが欠けている気がする。偽物とまで糾弾するつもりはないが、純粋培養された本物のお嬢様に勝てるとは思わない。俺も、何を根拠にそんなことを思ったのか分からないのだが、とにかくそんな気がした。

 所詮、噂は噂だ。冗談や嘘と大差はない。下野の金遣いが荒いからそういった類の噂が立っているのかもしれないし、俺に見せたことのない普段の姿や態度が、上品で清楚で凛とした、いかにもお嬢様といった類のものなのかもしれない。大体、俺はこいつのことを全て知っているわけじゃない。だから、憶測で喋ることはやめて、俺が受けた印象だけを頼りにすることとしよう。

 下野薫は綺麗な物しか知らない箱庭のお姫様なんかじゃない。もっと黒いものを知っている。

 独りよがりの閑話休題、現実に話を戻したい。

 とりあえず、この場から逃げ出そう。いっそ走り去ってやろうかと思わせるほどに、俺にとって下野の存在は苦痛だった。なぜこれほどまでに下野のことを嫌っているのかと考えれば、彼女が俺に比べて、金銭的な面で遥かに恵まれているからだろう。だから、時間にも余裕がある。すると、作品の質も大きく変わり始める。俺と彼女の差が、更に大きく開いていく。

 俺は、俺よりも美しい作品を描く奴に嫉妬する。絶対に、乗り越えたいと思う。

 だから何食わぬ顔で俺の隣を歩く下野のことが、腹立たしくて仕方がない。今にも口笛を吹き始めそうなほど浮かれた、そしてどこか落ち着かない表情をした下野のことが憎いとさえ感じる。俺が憧れた、俺が欲しいと臨んだ才能を持った下野のことが、俺は。

 普通に並んで歩くよりも距離を取って、赤煉瓦の敷き詰められた坂を下っていく。横目で盗み見ると、下野は俺から顔を逸らすようにして駐輪場に視線を預けていた。よくよく見てみればその先にいるのは夕暮れ空を背負って飛ぶカラス達で、赤と黒の境界を曖昧にしたまま飛ぶ姿が美しい。そして何より、風景を見ているだけの下野が、それだけで美しく見えることが不思議で仕方なかった。

「俺は本当に、お前のことが」

 嫌いで、嫌いで、どうしようもないくらいに憎んでいるよ。

「ん? どうかしたのかい」

 俺の独り言に反応したらしい下野が、不思議そうな顔をして振り返った。思っていることを素直にぶつけるわけにもいかず、誤魔化すことに決めた。

「……いや。忘れてくれ。今の奴は独り言だ」

「その独り言の中身が気になるんだけど」

「忘れろ。俺はもう忘れた」

 君らしいね、と笑う下野の顔から眼を背ける。俺らしさ、というものはすべて絵に現れてさえくれればいい。俺という個人には、目を向けてくれなくても構わないのだ。少なくとも、今はそう思う。

 坂を下り終え、バイト先へ向かう道のりを歩き始めてもまだ、彼女はついてくる。俺に話しかけるでもなく、夕暮れ時の風景を楽しむようにしながら追いかけてくる。雨が降るような夕暮れ時は、空が濁って赤くなる。化学も物理も嫌いだが、空気中の塵芥に光が散乱して、赤い空になるのだというのは知識として聞きかじったことがあった。常識や教養はそれなりに理解しているつもりだ。

 だが、それでも、俺は思うことがある。

 夕焼け空を染める赤は、完璧になろうとして不完全な人間たちが流した、血の涙じゃないだろうか。不完全な夕焼け空が俺たちの心を揺さぶるのは、過去に自分たちが感じた悔しさや悲しさを、遠くの誰かと共有できるからじゃないだろうか。どこかが欠け、何かを壊してきた俺たちは、消えゆく太陽にそれまでの自分を重ねる。

 欠損した世界だからこそ、光り輝くものもあるのかもしれない。

 感傷に浸っていると、お嬢様であるという噂を本当だと思わせるほど美しく整った顔をした下野が俺の視界に現れた。数秒とはいえ彼女の存在を忘れていたために驚き、後ろへ飛び退く。俺の行動が面白かったのか、その口元がお嬢様説を疑わせるほどに明るく快活なものへと変わっていく。

 手を後ろに組んで、下野が喋り出した。

「今日はこのまま、君のバイト先までついていってみようと思う」

「……」驚きすぎて声が出ない。

「それくらい、構わないことだろう?」

「……いや、ちょっと待て。そもそも、どうして俺についてくる」

 絞り出すようにして声を出すと、彼女は俺の後ろに回った。早く行けと、せかすように俺の背中を押してくる。

「なにせ私の、好きな絵を描く人だ。研究しなくては」

「おい、やめろ。そんなに綺麗な絵がみたいなら、俺なんかを研究するより、自分でこの夕陽を描いたらどうだ」

「いいじゃないか、私が何をしようと勝手だろう? それに、君は勤務先で、何か面白い体験をしているのかもしれないし」

「ない。そんなことがあってたまるか」

「えー。バイト先での出来事が君の絵に繋がっているなら、私の好きな絵というものについて具体的な説明がつけられるのかもしれないし、ね?」

 ね? じゃないだろう。

「お前は夢を見過ぎなんだ。それと、背中を押すんじゃない。コケるだろうが」

「手を握れと? いやぁ、冗談がキツいよ」

 笑いかけられて、顔がゆがむ。

 本当に、走って逃げだしたくなった。真面目に検討する価値があるのかもしれないと、少し思ってしまう。俺は、他人と一緒にいることを好まない。好みたくはないから、逃避などという行動を一瞬とはいえ考えてしまうのだろう。実際に行動に移してみたところで、俺は彼女に敵わないことが目に見えていた。絵を描くために生活時間のほとんどを使っている俺は見た目にも不健康で、彼女に勝てる要素など万に一つも見つけられない。彼女を突き飛ばして走り出すなどということをしても、彼女に触れる前に殴り倒されそうな気さえした。つまり俺は、この理不尽な暴力にも似た彼女の気まぐれに、従わなくてはならないのだ。

 彼女の気まぐれさは、猫のそれとは違う。むしろ忠犬のように、一度決めたらなかなか曲げようとはしないのだ。その癖、彼女が興味の抱く理由や傾向は、俺にも分からない。俺は、彼女のことを知らなさすぎる。

 まぁ、彼女も人間だ。飽きたらすぐにでも帰っていくだろうと、俺は真っ直ぐバイト先の弁当屋へ向かうことにした。勤務中に、彼女の笑顔が俺に突き刺さってくることを考えただけで、もうお腹が痛い。芸術と生活のためには、彼女を理由にしてバイトを休むわけにもいかず、俺の脚は心とは裏腹にするすると進んでいく。

 遅く歩いているわけではないのに背中を押してくる下野のことが。

 俺は、やっぱり苦手だった。

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