第2話

 愛美いつみは言葉に詰まった。西の空を茜に染めて、はもう落ちようとしている。

 この時期の週末、摩耶ビューラインは夜まで運行しているとはいえ、こんな時間から、小さな兄妹だけでこれから何を探そうというのか。


 出発前のケーブルカーで二人が乗って来た時は、あとから両親が乗ってくるのだろうと、気に留めずにいたが、ケーブルカーは学生と思しき数組の若いカップルを除けば、愛美と子供たちだけで出発したので、愛美はびっくりして、目の前の席に腰かけた少年に声をかけたのだった。


 駅員は、愛美が子供たちの保護者だと勘違いしていたのだろう。人見知りも物怖じもせず、声も特段小さいわけでもなく、少年は多弁であったが、車両の後ろの方の席に一列ずれて座っている愛美と少年の会話は、急こう配を登って行く車両の力強いギア音とガイドアナウンスの声にかき消されて、最前列の運転士にはまったく届いていないようだった。


 あかりとおぼしき少女は、ひとり、愛美や少年とは通路を挟んだ反対側に座り、じっと窓の外を見ていた。


「キミ、めぐる君っていうの? 何年生?」


「三年生です」


「あっちに座ってるお嬢ちゃんがあかりちゃんね?」


 ケーブルカーがトンネルに入っている間だけ、知らないおばさんに饒舌に説明している兄を不満そうに振り返ったあかりだったが、トンネルを抜けてからはまたずっと外を見ていた。


 めぐるの話の内容から、彼女は、木々の隙間にふっとマーヤが見えないか、黄昏の原生林に目を凝らしているんだな……と愛美は思った。


「あかりは一年生です」


 めぐるが代わりに答えた。


 ケーブルカーはロープウェイとの乗り換え駅「虹の駅」に到着しようとしていた。


 ともかく、道半ばの乗り換え駅で子どもたちを無碍に帰すわけにもいかないし、

めぐるはロープウェイに乗り換えた先の終点「星の駅」までの正規の小児往復乗車券を二枚、しっかり握りしめていたから、彼らが目的を遂げないまま、愛美の一存で駅員に引き渡して保護してもらうのはためらわれた。


 ケーブルカーを降りるとあかりがふくれっ面してめぐるに文句を言った。


「もう、お兄ちゃん、反対側ちゃんと見といてもらわないと! マーヤがいたかも知れないのに……」


「ごめんね、あかりちゃん、私がめぐる君に話しかけたからね」


 ぷうとふくれているあかりの目線までしゃがんだ愛美は、飾りもない黒ゴムで留めただけの、あかりのおさげの頭から、太陽の名残をいっぱい含んだ汗の匂いを感じた。


 その瞬間、

――母親のふりをしてこの子たちをこのままロープウェイに乗せてあげよう。

そう愛美は心に決めたのだった。


 ロープウェイに乗っている間は、愛美は黙っていた。幼い兄妹は、暮れなずむ美しい神戸の風景に目をやろうともせず、もうかなり薄暗いゴンドラの直下にひたすら目を凝らしている。


 灯りがちらほら見え始める時間帯。彩度の低い街をバックに、窓ガラスに両手を張り付けて下を覗き見ている子供たちの後ろ姿を見守りつつ、愛美は思った。


――拓海たくみ七海ななみもあんな風だったかしら……。


 心地よい夕暮れの風が、山上の駅にも次第に夜のベールを運んでくる。ロープウェイの終着「星の駅」を降りてすぐの、広々とした展望広場「掬星台きくせいだい」は、若いカップルから家族連れまで、多くの人でにぎわっていた。街の景色が、群青色のベールを纏ったイブニングドレスに着替えるかのように、ロマンチックに変化するのを待っているのだ。


 暗くなると足元の小径こみちに無数に埋め込まれた小石が光り、幻想的な空間を創り出すのだけれど、ロープウェイを降りた幼い兄妹はそうした場所には目もくれず、犬が道のきわを嗅ぎ歩くように、薄暗い木々の合い間に目を凝らして、広場の隅を歩いて回るのだった。


 愛美は腕時計で時刻を確認すると、彼らを見守りながら後ろをついて歩いた。


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