革命へのカウントダウン

冬野 俊

第1部 起点

1.山久一之・6月1日①

「おーい、山久!」

 報道部の入り口に近い、社会部長席から声が上がる。

 フロアに備え付けられた時計の針は午後四時四十分を指していた。福井民報の編集局フロアの奥で山(やま)久(ひさ)一之(かずゆき)は「はい!」と呼び掛けに応答した。山久はそれまでの話し相手だった整理部員に「ちょっと待ってて」と言い残し、呼ばれた方へ小走りで向かった。

 福井民報は山久が籍を置く新聞社であり、福井県の地元のネタを多く取り扱う地方紙だ。ただ会社の規模は大きくない。発行部数も記者の数も少なく、県内の他企業と比較しても中小企業に位置する。

 ただ、記者たちはどれだけハードな日常であっても、妻たちから「いつになったら家計は裕福になるのかしら」などと憎まれ口を叩かれても、確固たる記者としてのプライドだけは少なからず持ち合わせていた。

 それぞれが自分なりの考え方と個性を持ち、全国紙には負けないだけの気概を持って仕事に向かう、そんな会社だった。

 山久の考え方は、そんな会社の雰囲気にぴったりと当てはまっていたのだろう。日々の仕事には、忙しさを覚えこそすれ、そこに苦しみを感じることはなかった。

山久は政治経済部に所属している。担当は県政。日頃は県政のキャップとともに福井県庁内の県政記者クラブに詰めている。

 福井県は敦賀市以北が嶺北、以南が嶺南と区別されているが、嶺南の市町のうち、敦賀市、美浜町、おおい町、高浜町にはそれぞれ原子力発電所があり「原発銀座」とも呼ばれている。その立地県であるが故に、必然的に県政の記者にも懸案事項が自然と増える。

 そんな中、数少ない人員ながら山久も日々の仕事を必死でこなす日常が続いていた。

 社会部長に呼ばれたのも知事と電力会社の社長との会談の原稿を提稿し、整理部員との見出しについて意見を交わしていたところだった。社会部長の富田(とみた)の元に駆けつけると、富田は掛けている眼鏡を中指で直しながら、「忙しいところ、悪いな」と声を掛けて続けた。

「いや、実はな、今からちょっと行ってほしいところがあるんだ」

 その表情は一見、普段通りの穏やかなものに見えたが、眉間にわずかに寄った皺の部分の違いが、山久には気になった。

「今から…ですか?」

「ああ、今日の原稿はもういい。こっちに専念してほしいんだ」

 その日の原稿が「もういい」という言葉は、別の大きな事件などで紙面が埋まる時に出る言葉だ。これだけ小さい新聞社になると、記者の人数も少ない。一人が一日に何本も原稿を出してやっと紙面が埋まるのだから。

 それを捨ててもいいという事は、裏を返せば、何か想像を上回るような動きが起きているという事ではないだろうか。山久は直感した。

「六時から、県営球場でプロ野球の試合が始まる。そこに行ってほしい」

 山久の顔に疑問符が浮かぶ。

「えっ、そこで何かあるんですか?」

「ん、いや、まだ分からんのだが、念のため行ってくれないか?」

「念のためとは?」

「場所を変えよう。ちょっと来てくれ」

 山久は富田の後に続いて編集局のフロアを出た。行き先は、フロアを出てすぐ目の前にある喫煙室。都合良く、誰も室内には居なかった。

 二人が部屋に入ると、富田は煙草に火を点けるでもなく、山久に語りかけた。

「いや、実はな、今日の昼に俺の携帯に電話がかかってきたんだ」

「電話・・・ですか?」

「ああ。それも非通知だ。四十代~五十代くらいの男の声でな。その内容がだな、今日のプロ野球の試合で始球式を務める衆院議員の桜権蔵(さくらごんぞう)を誘拐するというものだった」

 桜権蔵は地元出身の国会議員で、その仰々しい名前とは裏腹に、百八十センチの長身に細身の体つき、メガネを掛けた、いかにも「インテリ」と呼ばれそうな雰囲気の人物だった。

 三ヶ月前に行われた直近の衆議院議員選挙では、同じ福井選挙区第一区だった六十代のベテラン現職議員を相手に、四十五歳という若さを前面に押し出し、接戦を制して初当選した。

「誘拐?桜さんをですか?」

「ああ、しかも」

 富田は一拍おいて、ゆっくりと呼吸を整える。

「始球式の真っ最中に身柄を奪うということだった」

 山久の顔の筋肉が一瞬で硬直した。「デスクは何を言っているんだろう」という表情。そしてすぐ、ハッとして、自我を取り戻すと反論した。

「そんな事、できるはずないじゃないですか。球場では一万人を超える観衆が見てるんですよ」

 富田は頷く。

「ああ、俺にも無理だと思う。まるで怪盗Xとかアルセーヌ・ルパンだよな。まあ、その電話がただのいたずらの可能性もある。だがな、俺の携帯に直接電話が掛かってきたことが引っかかるんだ。あっちは間違いなく俺をデスクだと知っていて電話してきた。しかも、他のマスコミには何も知らせていないと言っていた。そいつが犯人なのか、情報提供者なのかは聞き出せなかったが、関係者なのは間違いない。だから、念のために行ってほしいんだ」

「この事は警察には連絡したんですか?」

「いや、電話で『警察に連絡するな。連絡すれば桜を射殺する』と脅された。だから通報はしていない」

「犯人はいったい何が目的なんでしょう」

「普通の誘拐ならば身代金だろうが、今回は代議士だ。金だけでなく、政治的な理由も絡んでいるかもしれん」

「でも、それを何故、俺に?」

「うちも経験豊富な人材が多くいるわけじゃない。お前は社会部時代に事件現場での経験があって、なおかつ政治経済部に異動してから桜とも面識がある。俺はお前に任せるのが最適だと思った」

「そうですか。分かりました。そう言うことなら、とにかく今から球場に向かいます」

 山久はそう言って喫煙室を出た。そして、早足で自分の机に戻り、バッグを肩に掛けると、フロアに向かって「取材に行ってきます」と言い残し、すぐに会社を後にした。

 車で球場に向かっている途中、桜を誘拐をする理由を考えたが、どうも腑に落ちなかった。なぜ、そんな誘拐の難しい状況で、わざわざ代議士を誘拐するのか。山久の頭の中には疑問のみが渦巻いていた。


 球場に着いたのは午後五時。プロ野球チームのユニフォームに袖を通した親子連れらが目の前を通り過ぎる。

「前にプロ野球を見に来たのはいつだったっけ」。そんなことをつぶやきながら、内野スタンドの受付で名刺を差し出し、取材である旨を告げてスタンドに入った。

 球場は大勢の観客が埋め尽くしていた。地方でのプロ野球の試合というのは、年に数回しかなく、試合が無い年もある。昨年は公式戦が一試合も無く、今回の試合が太平洋スコールズ対大阪キャンサーズという首位攻防戦だったことも観客動員に拍車を掛けたといえる。

 山久は一塁側のピッチャーマウンドがよく見える席に腰を下ろした。球場内では選手たちが練習中で、大きな打球が飛ぶたびに観客からどよめきのような声が上がっている。

 バッグからカメラと望遠レンズを取り出し、セッティングする。

 「そうだ、念のため連絡しておくか」と山久は携帯電話のメモリを探り、電話を掛けた。

 何度かの呼び出し音の後、電話の向こう側から聞こえてきた「もしもし」という言葉は、聞き慣れた低めの声だった。

「もしもし、龍(りゅう)吾(ご)か?俺だ、山久だ」

「何だよ。お前かよ。いったい何だってんだ」

 電話の相手は堂山(どうやま)龍(りゅう)吾(ご)だった。龍吾は山久の中学、高校の同級生であり、現在は福井警察署捜査一課の刑事となっている。

「いいか、落ち着いて聞いてほしい。うちの会社のデスクに変な犯行予告があった」

「犯行予告?どんな」

「これはガセネタかもしれない。だが、念のため連絡はしておいた方がいいと思ってな」

 山久は、桜が誘拐されるかもしれないという犯行予告について掻い摘んで説明した。

「そうか。だが、その犯行予告については、こっちもある程度のことは、すでに掴んでいる。だから、球場の中には私服警官だらけだよ。大丈夫だ」

 そう聞いた山久は片眉を上げた。どういうことだ。犯人側は情報が漏れないように、慎重にマスコミにだけ情報をリークしたのではなかったのか。

 たとえ、それが漏れたとしてもこんなに早く対応が出来るのは少しおかしい気がする。

 山久の脳裏には何気なく不安がよぎった。

「それは、本当に大丈夫なのか?何かいやな予感がするんだが」

「もし、誘拐されたとしても、それを逃さないような万全の包囲網を敷いている。誘拐なんてできない」

 山久は「それならいいんだ」と言って電話を切った。

 電話を切った後、三十分ほど選手たちの練習を眺めていた。その間、球場内に不審な部分は特になく、予定通り、六時になる五分前にオープニングセレモニーが始まった。

 両チームの監督に女性から花束が渡された後、始球式の準備が始められた。

 「いよいよだ」と、心の中でつぶやいた山久はカメラを構え、マウンドにピントを合わせた。

「それでは始球式です。投手を務めるのは桜権蔵衆院議員です」

 ウグイス嬢のアナウンスに応え、一塁側のベンチから勢いよく、桜が飛び出してきた。桜は観客に笑顔で手を振っている。周辺にはやはり誘拐犯らしき怪しい人物は見受けられない。

 気付くと、空には一機のヘリコプターが旋回していた。おそらくあそこから始球式のボールを落とすのだろう。想像通り、桜がマウンドについてしばらくするとボールが上空から落とされた。山久はそのボールの行方を視線で追っていく。

ボールにはパラシュートと垂れ幕が取り付けられており、垂れ幕には「改革する」と書かれていた。

 山久の頭の中にまたも疑問が浮かんだ。普段ならボールにそんな幕を付けるだろうか。しかも、付けたとしても祝いの文字や両チームの名前などならともかく、そんな抽象的な言葉を書いていることが何となく引っかかった。

 山久が違和感を抱いているうちにボールは着地した。係員がパラシュートからボールを取り外し、桜に渡す。

 桜はボールを持ちながら微笑んでスタンドの観客に手を振っている。それに呼応して歓声と大きな拍手が球場内に響き渡った。声援がやむ間もなく、桜はマウンドへ向かう。球場中の視線が桜に集まっていた。


その時。一筋の閃光が走った。


 「ドンッ」という大きな炸裂音。


山久は瞬間的に「危ない!」と叫んだが、その声はマウンド上に届くわけもなく、一瞬にしてマウンド上が煙に包まれていた。


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