第1章

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粉雪の混ざった希薄で冷たい風が、足元の暗闇から吹き上げてくる。

 ベルタは山岳迷彩の野戦服に身を包み、肩には黒塗りのアサルトライフル・G36を吊るして、岩壁を登っていた。

 切り立った崖にほっそりした手を伸ばし、編み上げブーツを履いた足で崖の突起を捉える。激しい風に黒髪を乱しながらも、バランスを失わず登っていた。一秒で三つ、四つの足場を越えてゆく。人間のクライマーには絶対不可能な、体重がないかのような素早い動きだ。遺伝子操作で作られた彼女の筋肉は、常人と比較して三十倍の収縮力を持つ。バランス感覚も人間の限界をはるかに超えている。だから可能だった。

 ベルタの眼球は星明りを増幅し、闇を見通していた。耳は、冷たい風に乗ってくる音のすべてを把握していた。何百メートル下の谷底を吹きぬける風の音、兵士たちの話し声、銃のガチャリと鳴る音。舌打ちや唾を呑みこむ音までもが聞こえた。

 脳内で思考コマンドを念ずる。

(有機脳演算リソースを聴力に優先配分)

 耳に飛びこんでくる音が数倍に跳ねあがった。頭上数十メートルの高さにいる兵士たちの息使いがわかる。足音で体格がわかる。会話の内容がはっきり聞き取れる。ロシア語だ。

 ……コンドラチェンコ将軍にも困ったもんだな。

 ……まだ中央に打って出るとかいってるんだぜ。

 ……おれたちはいつモスクワに帰れるのかなあ。

 ……オレなんかはもう、ここを第二の祖国って決めてるから。

 ……でも都会が恋しいよ……ここもイラクみたいに米軍が来るかもしんねーし……

 ……大丈夫、この国なんて攻撃しても利益がないさ。なんの資源があるわけでもない。

 緊張感のない会話だ。ほっとした。

 自分たちの襲撃はバレていない。自然と頬が緩んだ。

(だめだ気合を入れろ)

 自分にそう命令する。

(わたしはフェルトヘルンハレの戦士。超人だ。義務を果たせ)

 頬を、口元を引き締め、ますます勢いをあげて岩壁を登る。

 登りきる寸前、くぐもった爆発音が轟いた。岩壁が振動する。小さな石が多数はがれ落ちてゆく。

 ……なんだ!?

 ……敵襲だ!

 ……どこの軍閥だよ!?

 兵士たちが叫ぶ。銃の安全装置を解除する音がガチャリガチャリと連続して聞こえてくる。

(よし! 時間通り!)

 腕時計を見るまでもない。脳髄に埋めこまれた戦術支援電子脳が正確な時刻を教えてくれる。現地時刻で二十四時ジャスト。彼女の兄アントンが陽動作戦を始めてくれたのだ。

(生体過給システム、起動。戦闘出力)

 心の中で命令する。胸の奥で貯蔵されていた酸素が放出される。さらに筋力が増大した。手足の動きを加速。残る十メートルの岩壁を一息で登り切り、一番上に手をかけて体をひっぱりあげる。体が宙を舞って、着地した。

 百メートル程度の広がりをもつ平地があった。コンクリートの建物がそびえている。灰色で箱型をした飾り気のない建物だ。平地のそこかしこに、円筒形のサーチライト、パイプを束ねたような重機関銃が置かれている。

「おい、きさま!」

 怒声が浴びせられる。振り向くとそこに一人の兵士がいた。大柄な体を迷彩服に包み、頭には円筒形の黒帽子を載せている。顔の下半分が褐色のヒゲで覆われ、手にはアサルトライフルを構えている。寸詰まりの銃身とバナナ型の弾倉、銃身の先端部分に四角い切込みがある。このカプルスタンではきわめてありふれたライフル、AK74だ。

 ベルタが振り向いた瞬間、兵士の眼に当惑がうかぶ。

 理由はわかった。ベルタが子供に見えたのだろう。身長一五五センチの小さい背、胸と腰の未発達な体型、ふっくらした頬にくりくりと大きな眼。十代前半にしか見えない。

 兵士の動きが止まった一瞬の間に、ベルタは念じる。

(起動・音撃制圧兵装『ギャラルホルン』)

 息を吸いこみ、声帯構造を変換する。周波帯・波形パターンをチューニング完了。

「……ハッ!」

 口から超音波を吐き出す。

 音の塊に叩かれ、兵士は失神。AK74を取り落としてその場に崩れる。

 これがベルタに与えられた特殊能力だ。

 気絶だけでは安心できない。素早く駆け寄り、黒ブーツで両肩を踏み砕いた。

 その後すぐ、建物に向かって走る。窓をぶち破って飛びこんだ。ガラスの割れる音は、ひっきりなしに響いてくる爆発音にかき消されてほとんど響かない。

 コンクリートむき出しの殺風景な廊下が続いている。走る。

 曲がり角を曲がったところでまた一人の兵士に出くわした。彼が引き金を引くより早く、ベルタはハイキックを放った。大気をつんざいて迫撃砲のように上昇したブーツが兵士の顎を直撃し、兵士は銃を投げ出してもんどりうって倒れる。

「いたぞ! 侵入者だ!」

 背後からロシア語の叫びが連続して響いた。

 とっさに体をひるがえした。曲がり角の向こうから銃を持った兵士たちが五人も飛び出してくる。まさにその瞬間、兵士たちは発砲。並んだ銃口からオレンジの閃光が弾ける。ベルタは身をかがめ、前傾姿勢のまま床を蹴る。何トンもの脚力で体が駆動され弾丸のように疾駆、兵士まで数メートルの距離を突進。

 弾丸が飛んでくる。見える。弾丸は二種類。螺旋状の白い尾を引いて飛んでくる、杭のように細習いライフル弾。白い尾を引かずに飛んでくるドングリ型の拳銃弾。

(……サブマシンガンもあるのか? それなら!)

 身をかがめながら手を伸ばす。ドングリ型の小さな弾丸ばかりを手で受け止めた。一撃、ニ撃。掌に、鋼鉄の棒で踏みにじられたような痛みが走る。だがベルタの肉体は強靭だ。耐えられないほどではない。弾丸は掌の皮膚を食い破り骨に当たって止まった。

 掌を振るい、つかみとった弾丸を放り投げる。

 残った弾丸は空中に十発、いずれも細長い、衝撃波をまとったライフル弾。

 身をよじる。左右にステップを踏む。弾丸と弾丸の隙間に体をねじこんでギリギリで回避する。弾丸が頬をかすめ、肩をかすめる。衝撃波が頬の筋肉を叩く。迷彩服の布地が引き裂かれる。

 兵士たちとの距離はすでに二メートル。

 すべての弾丸を回避したベルタは、前傾姿勢をさらに強め、床に手を突く。冷たいコンクリートむき出しの床が見える。

 そのままの勢いで逆立ちして、人間の数十倍に及ぶ筋力で両足を振り回す。ブーツに、膝に、アルミの空き缶を踏み潰したような衝撃が走る。

(……手ごたえあり)

 床に着いた手に力をこめ、跳躍する。空中で回転して着地する。

 あたりの兵士たちが一人の残らず倒れていた。

 爆発に吹き飛ばされたように、外側に倒れている。全員が銃を投げ出している。腕があり得ない方向に捻じ曲がっている。壁に倒れこんでいるものもいる。壁と頭の接触面が血まみれだ。

(……力が強すぎた)

 ベルタは唇をかみ締める。全員の体から呼吸音が聞こえている。死んだものはいない。だが罪悪感が胸の中にわき起こってくる。

「いたぞ!」

 背後で声がはじけた。

(……ぼんやりしてる場合じゃない!)

 背中を『むずがゆさ』が駆けた。『電磁感覚』だ。金属の弾丸が飛ぶとき、地球磁場が歪む。歪みを感知しているのだ。後方からの銃撃を回避するため、与えられた能力である。

 身をかがめて反転した。わずか数メートルの距離に若い兵士がいた。すでにAK74をこちらに向けて発砲している。

 しゃがんだまま床を蹴って突進、地面すれすれをタックル。頭の上を銃弾が通り過ぎてゆく。兵士の脚と脚の間を、器用に体をよじって走り抜ける。その間、わずか0.1秒。普通の人間には『相手が消えた』としか認識できない。兵士の向こうに飛び出して、振り向きざまにハイキック。

 ブーツに包まれた足が常人の数十倍という速度で駆動され兵士の腕を粉砕する。

 兵士が倒れたのを確認。ふたたび走る。走り続ける。

 頭の中にこの建物の立体地図を思い浮かべる。目的地、コンドラチェンコ将軍の部屋まではあと一分でたどりつけるはずだ。奇襲効果が薄れる前に必ずやらなければ。

 そうこうしている間にもドン、ドンと鈍い音が壁の向こうから轟く。コンクリートの壁と床がビリビリ震える。

(……アントン兄さんたち、陽動ちゃんとやってくれてるな)

 そのまま廊下を進んでゆく。

 出くわした兵士たちはすべて素手で黙らせていく。

 やがて、廊下の突き当たりの大きな扉に出くわす。

 他の質素で飾り気のないドアとはまるで違う。このドアだけは重厚で、獅子のレリーフが施されている。

 ベルタの超人的な聴覚は分厚いドアの向こうの声を捉える。

『……なんだ? 一体どうなってるんだ? 襲撃の規模は? 二人? 二人だと? 取り乱すな、それでも貴様ソビエト正規教育を受けた軍人か、ええい話にならん』

 野太い男の声だ。

 ベルタはこの声を知っていた。出撃前に覚えこまされていた。

 この軍閥の長、コンドラチェンコ将軍だ。

 ベルタはドアに突進。防弾対爆処理の施された鋼鉄のドアを、蹴りの一撃で吹き飛ばす。飛びこむ。

 向こうにはベッドルームがあった。

 巨大なベッドの上に裸の老人がいた。コンドラチェンコだ。全裸の美少女二人に抱きつかれていた。美少女の片方は金髪で白い肌、もう一人は褐色の肌でチリチリの黒髪だ。

 コンドラチェンコの反応は素早かった。手にしていた受話器を投げ捨て、枕元の自動拳銃を握ってベルタに向ける。

 しかしベルタはもっと早かった。肩に吊っていたG36アサルトライフルを一瞬のうちに構える。この距離ではスコープを覗くまでもない。無造作に撃つ。

 ガギン! 金属音を響かせ、コンドラチェンコの手から拳銃が吹っ飛んで床に転がる。

 コンドラチェンコはシワの刻まれた顔を驚愕にこわばらせた。

 彼の肩にしがみついていた美少女二人が、恐怖の声を漏らす。

「こわい……」

 ベルタはアサルトライフルをコンドラチェンコに照準したまま、静かに言った。

「……コンドラチェンコ将軍、降伏してください」

「……お前、何者だ。まさか『フェルトヘルンハレ』の作っている化け物どもか……」

 フェルトヘルンハレとはここ十年ばかりで大きく勢力を伸ばしてきた民間軍事会社、すなわち傭兵派遣業者だ。最近では、新製品としてベルタたち超人兵士を開発している。

「そうです。わたしは『エインヘリヤル』の試作型」

「……だれに雇われた。きいておきたい」

「ただの宣伝です」

「宣伝だと?」

「はい。このカプルスタンの軍閥を一つ潰せば、絶好の能力アピールになります」

 ベルタは感情を押し殺した声で告げた。

「……ははは……たかが新商品の宣伝のためにか」

 コンドラチェンコはひとしきり笑った後、まったく怯える気配もなく、言い放つ

「さあ、やれ」

 ベルタは硬直する。

「……どうした? そうだな、わしを撃つのはかまわんが、この子たちを助けてやってくれんかね」

 コンドラチェンコは微笑み、自分にすがって震えている美少女ふたりの頭をなでる。

 そう言われてもベルタは反応できない。撃つことも、銃口をそらすこともできない。

(……全部殺せって言われてる。でも、できない……)

 口の中がカラカラに乾いていた。引き金にかけた指が、溶接したかのように動かなかった。

 ふとコンドラチェンコが片眉を上げる。シワだらけの顔に興味の色が浮かぶ。

「……まさか、君は撃てないのか?」

「……!」

 動揺を隠そうとした。だが表情に出てしまっただろう。

「そんなことはありません」

「では、その額の汗はなんだ。その青ざめた唇は? 指の震えは?」

「撃て……ます……」

 撃てなければ、自分は『できそこない』と言われてしまうのだ。

 そう思った。

 しかし、それでも撃てない。

 ドガン!

 鈍い音がした。

 壁が破れ、巨大な影が踏みこんでくる。

 異形の大男だ。

 身長は二メートル、腕は丸太のように太く、胸板は肩幅と同じほどある。灰色熊のような体格だ。口と両目以外の全身を、真っ黒い物質が包んでいた。部屋の明かりを反射して光る、まるでコールタールのような光沢の物質だ。

 その後からもう一人、迷彩服を身につけた細身の男が入ってくる。男というより少年だ。淡い金色の巻き毛が照明を浴びて幻想的に輝いている。はっとするほど美しい顔立ちに幼子のような無邪気な笑みをうかべている。

 大男の名はアントン。美少年はカエサル。ベルタと同じ超人兵士「エインヘリヤル」である。

 アントンはベルタを一瞥。大きな口を失望の形にゆがめる。筋肉の盛り上がった真っ黒い肩をすくめて落胆の声を上げる。

「ベルタ、なんでブッ殺さねえ?」

「……アントンにいさん……」

 カエサルも小首をかしげる。

「ねえさんの倒した敵兵を見たけどさあ。一人も死んでないね。それどころか銃で撃たれてもいない。なんで手加減するの?」

「それは……素手のみで倒したほうがより高い能力がアピールできるからで……」

 ベルタは床や壁に視線をさまよわせつつボソボソと答える。そんな言葉に説得力がないことは自分でもわかっていた。案の定、カエサルは「はーあ」と大げさにため息をつく。

「ウソだね、ねえさん。ねえさんは人を殺せないんだ。悲しいよ。ねえさんが欠陥兵器だったなんて」

 そこでカエサルはかたわらのアントンを見上げ、何の気なしにたずねる。

「アントンにいさん、何人殺した?」

「おう、今回の戦いでざっと三、四十人。これまで合計で二百。まあ楽なもんよ」

 カエサルは目の前で手を開いたり閉じたりしながら、うっとりとした口調でつぶやく。

「ボクは、フフ、三十人くらいかな」

「へえ、おめえやるじゃないか。初陣なのに」

「人間って面白いね、殺すの」

 カエサルは軽い調子で言って、白い手を振るった。挨拶するような何気ない動作だ。手から真っ白い光が噴出し、刃となって一閃する。

 ジュッ! コンドラチェンコの両脇にいた少女二人が死んだ。

 首ふたつがベッドの上に転がり落ちる。体が力をうしなって崩れる。切断面が真っ黒く焦げていた。黒い煙が吹き上がり、革の焼ける濃密な臭いがあふれ出す。

 少女ふたりの間にいたコンドラチェンコはまったくの無傷だ。

 カエサルの能力、『光学狙撃兵装グングニル』。二発のレーザーを断続的に放ったのだ。

「あ……!」

 ベルタは息を呑んだ。人が死ぬところは何度も見てきた。だが慣れない。ライフルを持った手の中に汗がにじんだ。意志を無視して腕が、膝が震える。

 しかしカエサルはベルタの気持ちなど全く意に介さない。罪悪感もためらいもない得意げな笑顔で、ベルタに呼びかける。

「ほら、こうやってさ。残しておいたから、この爺さんやっちゃってよ」

 コンドラチェンコは観念したのか、シワだらけの顔を苦々しく歪めながらも、おとなしくしている。

「……できません……」

 ついにベルタは唇と唇の間から声を絞り出した。

 いつの間にか涙が頬を伝っていた。

「あん? なんでだよ」

 アントンが怒りをふくんだ声をあげる。

 ベルタは真っ黒い装甲に覆われた彼の顔を見つめて呟いた。

「いやなんです、人を殺すのが。だってこの人たちにも家族がいて、友達がいて……わたし、闘ったり殺したり、そんな生活はいやなんです。普通の生活がしたい。学校にいきたい。友達がほしい」

「……あのさあ」

 カエサルが青い目を細める。蔑みにまみれた声を出す。

「じゃあ、いらないよ、ねえさん。一体なにがいけなかったんだろうね。ボクたちと同じように作られたのに。同じように培養されて、同じように記憶を注入されたのに」

 アントンが巨大な手で顎を撫でながら大げさにうなずく。

「おう。殺せないなら、いらねえ。オレたちは兵器だ」

 その声はべルタの胸に突き刺さった。

「……わたしは……いらない?」

 

 2

 

 ベルタは目蓋を開けた。

「……!」 

 まず目に映ったのは自分の膝だ。眩しい太陽の光に照らされている。軍服を着ていない。ジーンズ姿だ。そろえた膝の上には紙製のカップがあって、溶けかかったラムレーズンアイスが乗っている。視界の端に眼鏡のフレームが見える。自分の髪の毛は短いはずなのに、背中に髪の毛の重い感触がある。

 自分は今、セルフレームの眼鏡と、ロングヘアのウィッグを身につけているのだ。

 五感を通じて一気に情報が流れこんできた。

 空気に硝煙の臭いがない。甘ったるいバニラエッセンスとラムレーズンの香りが鼻をくすぐる。ジリリリという電車発着ベルが斜め上から降ってくる。人々の話し声が聞こえる。ロシア語ではない、日本語だ。

「……え?」

 なにがどうなっているのかわからず、ベルタは顔をあげて、あたりを見回した。

 すぐ目の前に噴水があった。白い水しぶきがあがっている。しぶきが高く持ち上がって日差しの中で鮮やかな虹をつくっている。

 噴水の周りはレンガ状タイルの敷き詰められた広場だ。ベンチが並んで、半分ほどに人々が腰掛けている。噴水の向こうに商店街が広がっている。カフェ、ブティック、レンタルビデオ店の看板が並んでいる。ゲームセンターとパチンコ屋が液晶画面のついた看板を突き出している。街灯に『駅前商店街春のフェア』というノボリがひるがえっている。

 目を二、三回しばたたかせる。やっと思い出した。

(……ああ、そうか。夢か……)

 昔の夢を見ていた。べルタがカプルスタンで戦ったのはもう三ヶ月も昔のことになる。

 あの後、ベルタはすぐに脱走し、日本まで逃げてきた。日本を選んだ理由は二つ。フェルトヘルンハレの影響力が弱いから。そしてベルタの容姿が日本人女性に似ているから。

 それ以来、日本全国を転々としている。

 今いるのは、中部地方にある都市の、駅前広場だ。

「……寝ちゃうなんて、疲れてるのかな」

 つぶやいて、べルタは手にしたアイスのカップを持ち上げる。中には溶けかけのラムレーズンアイスが入っている。スプーンですくって食べてゆく。酸味のある甘味。心が満たされる。おいしい。

 あらためて、あたりを見る。

 ベンチにたたずんでiPodで音楽を聴いている青年がいた。背中を丸めて文庫本を開いている老人がいた。中年女性がミニチュアダックスフンドに話しかけながら一緒に散歩している。商店街をこちらに向かって歩いてくる、ワイシャツに黒ズボンの少年たち。大きく膨らんだ肩掛けカバンをブラブラさせている。学校帰りだろうか。少女たちもいる。白いブラウス姿で、並んで仲がよさそうに談笑している。

 みんな表情が明るかった。足取りが軽かった。まるで警戒心のない笑顔を向けあっている。

 人々の会話に耳を傾ける。

「ねえミキ、あんた先輩のことどう思ってんのよ?」

「どうって言われても」

「おまえ部活どこ入るよ?」

「おれ運動できねーからなー。見てるだけならテニス部がいいんだけどなー、あのプリーツスカートがひらっとなー」

「だれが女の話してんだよ」

 そうかと思うと、早くもカップルが誕生したのか手をつないで歩いている男女がいる。

 小柄な少年がひとり、商店街でたたずんでいた。噴水のほうをチラリチラリと見ている。

 べルタの頬が自然と緩んだ。

 こんな生活にあこがれていた。戦いのない生活。殺すことも殺されることもない生活。

 平和な日本にやってきて、ますますその気持ちは強くなってきた。

(わたしもこの人たちと一緒に学校に通ってみたい。友達を作って、なんでもないことで盛り上がりたい)

(でも……)

 ベルタの耳は目の前を歩く人々全員の足音をとらえる。人間の限界を遥かに超えた聴力と分析力が足音を自動解析、人々の運動能力と戦闘経験を類推する。

 体重四十五キロ、運動能力C、戦闘経験なし。体重七十一キロ、運動能力B、戦闘経験なし。

 知らず知らずのうちに、体が闘いに備えている。

(……わたしは、ここには入れない)

 そもそも友達と何を話せばいいのだろう。徹底的に叩きこまれたのは人の殺し方だけだ。あとは、本や映画で聞きかじった知識しかない。

「はあ……」

 ため息をついた。 

 そのときだ。

 少年が、商店街を歩いて近づいてきた。

 とても背の小さい少年だ。身長一五五センチのベルタとほとんど同じだ。先ほどの学生たちと同じ、白いワイシャツに黒ズボンを身につけている。確かに男子の学生服だが、腰も胸板も薄く細く、男性らしさが感じられない。カバンがやけに大きく見える。背筋を不自然なほどにピンと伸ばして歩いてくる。

 噴水に近づいてくる。

 いや、ベルタにまっすぐ近づいてくる。

 すぐ目の前、一メートル足らずの距離で立ち止まった。ベルタの顔をじっと見ている。

 ベルタは少年の顔を観察した。

 線の細い、おとなしそうな少年だ。

 肌が白く、目鼻立ちは整って、体の小ささとあいまって女の子のようにも見える。つぶらな瞳をベルタにむけ、まったく動かさない。

 『どうかされましたか』と声をかけようとした、その瞬間。

 少年が、さらに一歩踏みこんできた。そして甲高い、裏返った声で、言った。

「ぼくとつきあってください!」

 一瞬、なにを言われたのか理解できなかった。

 少年は同じ台詞を繰り返す。

「つきあってください」

「え……?」

 思わずベルタは声をもらした。

 目をしばたたかせて質問を投げかける。

「あの……どういうことですか? わたしになにか?」

 即座に少年は、

「あ、あなたのことが好きになったんです」

「はあ? わたしが?」

 ベルタは自分の顔に手をあてた。

 人工生命体エインヘリヤルは美しい姿に作られた。だから目立たないように黒ブチの眼鏡と、前髪の長いウィッグで顔をごまかしている。服装もジーンズとパーカーでごく地味だ。

(なんで注目を惹いたんだろう)

 不安を覚えた。警戒の声で問いかける。

「だってわたし、あなたに会うの初めてですよ。……というより、あなただれですか?」

「はい、ぼくは倉本といいます。倉本祐樹です。高校一年です」

 そこで少年は、ベルタと瞳を合わせたまま、整った顔を苦痛にゆがめて、一瞬だけ黙る。眉間にしわを寄せ、考えこむ。

「ええと……そう! 一目ぼれなんです! いま、あなたのことを好きになったんです」

「は、はあ……そういわれても……」

 ベルタの頭の中で疑問符が明滅する。

(なんなの、この人?)

 まったく理解できない存在だ。恐怖も感じる。

 自分は正体を隠して逃げている。これまで毎日のように街を転々として、友達も作らなかった。恋人など論外だ。

 冷たい目で見つめ返す。きっと口元や頬が、嫌悪感といぶかしさで歪んでいるだろう。

「おねがいします! ぼくとつきあってください!」

 それでも祐樹はまったくたじろがない。ベルタの冷たい視線を意に介さず、頭を下げる。

「おねがいします」

 どこからか声がした。

「うわーなにあいつ」

 べルタはそちらにチラリと視線を走らせる。

 数メートル離れた場所で、制服姿のカップルがあきれた顔でこちらを見ている。ジャージ姿で野球道具を持った坊主頭の少年が二人、興味深そうに視線を向けている。

 急に恥ずかしくなった。頬が熱く火照る。

「やめてください、たくさん人がみてます」

 ベルタは立ち上がってその場を去ろうとする。しかし祐樹はベルタの肩につかまって、

「あ、待ってくださいっ、あのっ」

「いい加減にしてくださいっ」

 ベルタは片手で、祐樹の両腕を払いのけた。振り返る。

「わ……」

 わたしにかまわないでください。そう言おうとして絶句した。

 レンガ模様タイルの上に尻餅をついた祐樹と、眼が合った。

 彼は泣いていた。睫毛の目立つ大きな瞳から一筋の涙を流していた。小さな唇をぎゅっと噛みしめ、あふれ出る感情をこらえているようだった。そして泣きながら、周りの人々を全く気にせず、一心にベルタだけを見ていた。見上げていた。

 べルタは衝撃に息を呑んだ。

(なぜ泣く?)

「な……なんで、そんなにわたしのことが? 会うのは初めてなのに」

「会うのがはじめて、だからです」

 祐樹はかすれた声をだした。鼻をすすりながらの涙声だ。

「だって……もしここで、あなたがいなくなってしまったら、もう二度と会えない」

「え……」

 思わず、口を半開きにして驚きの声をもらした。

 そういう考えもあるだろう。名前も連絡先も知らないのだから。

 祐樹は転んだ状態から膝を突いて手を伸ばし、ベルタの手を握った。

「だから、ぼくはこの手を離しません」

「なぜ……なぜわたしが? そんなに?」

 わけがわからなかった。胸が激しく高鳴っていた。この気持ちはなんだろうと思った。

 恐怖。そうだろうか。確かに恐怖に似ている。だが訓練で機関銃弾の雨を潜り抜けたときとは違う。模擬戦闘でアントンと取っ組み合いして丸太のような腕で首を絞められたときとは違う。

(こわい、でもなぜか、頬のほてりがやまない)

 ベルタが黙っていると、祐樹は手を握ったまま上目遣いでこちらを見上げ、黙った。

 見詰め合っているうちに、胸の高鳴りがますます強まってゆく。

 気づいた。

 いま自分が味わってるこの気持ちこそ、恋じゃないか。

 戦争はイヤだと思った。殺し合いなんかしたくない、普通の女の子の人生が歩みたいと思っていた。欲していたものが目の前に転がり込んできたのではないか。

 知らず知らずのうちに、ベルタは祐樹の手を握り返していた。

「……い、いたい……」

 祐樹の顔が苦痛に歪む。

「あ、ごめんなさい……」

「でも……」

 少年は笑顔をつくって、

「でも、もう逃げないんですね。オーケーしてくれるんですか」

 祐樹の手を離した。心の中で何度も、自分に言い聞かせる。

(わたしは人間じゃない。フェルトヘルンハレの作った人造人間)

(数ヶ月、日本を放浪してきた)

(銃弾だって避けられる。目をつぶっていたって百人の兵士を殺せる)

(組織はいまだってわたしを探してる。だからわたしは目立つわけにいかない。誰かと親密な関係になるなんてもってのほか)

(でも……)

 理性で押しとどめようとした。だが「いま目の前に、ずっと望んでいたものがある」。あまりに魅惑的だ。頬の熱さが全身にひろがっていた。

 ベルタは祐樹の前にしゃがみこみ、目線の高さを合わせる。

「条件があります」

「……条件?」

「一日だけです。一日で、わたしを楽しませてください。わたしは慣れてないんです。だから、つきあい方なんてわからない。クラモトさんがリードして、楽しませてください」

 祐樹の顔がぱあっと明るくなった。

「はい、まかせてください!」

 勢い込んで祐樹が言う。

 とたんに、周囲から「おー」「やるじゃん」と声。 

 あわててあたりを見回すと、ベルタのいる噴水周りのベンチを、十人以上の人間が取り囲んでいた。

「がんばれよ」青年が言う。

「意外に男らしいな」と老人が言う。

 犬を連れた中年の夫人が、無言でニコニコと見守っている。

「いや……これは……」

 恥ずかしかった。ベルタは祐樹の手を引いて、人々をかきわけて走り出した。


 3


 商店街を並んで二人で歩く。

「ところで、お名前は……」

「え? わたしですか……ベルタ。ベルタと申します」

「え? 外国の方?」

 祐樹は目を見開く。

「まあ、そのようなものです。さあ、どこへ連れてってくれるのですか」

 ついつい、つっけんどんな態度をとってしまった。

 言ったとたん、「これでいいのかな」とためらいがわいてくる。なにしろデートなどはじめての経験だ。

 心配は無用だった。祐樹は即座に、よどみなく答える。

「はい。たとえば、いま人気の映画があるんです。『さくら舞う季節の中で』っていう恋愛もので。ぼくは俳優の人気とはよく知らないんですが、女の子にすごく人気あります。あとアクションものとかもいくつかオススメがあって」

 ベルタのきょとんとした表情を確認して、祐樹は一瞬沈黙する。すぐにまた口を開いた。

「……映画がだめなら……ベルタさん、動物とか好きですか? ちょっと遠いですけど、水族館いきません? ペンギン館を改装して、女の子に人気らしいです」

 といって祐樹は肩のカバンから封筒を出す。途中であせって封筒を落としそうになる。

「は、はい、これ、チケットです」

「クラモトさん……」

「祐樹でいいです」

「ええと、ユウキさん。わたし、とにかくこういうのに慣れてないんで。どういうところに行けばいいのか、さっぱり」

 一瞬、祐樹の顔にかげりが差した。眼が空中を泳ぎ、頬が震える。ほんの一瞬だった。

(なんだろういまの。恐怖でも不安でもない……)

 どこかで同じ表情を見たことがあった。

(罪悪感? かな……)

 暗い表情は一瞬で消えた。不自然なほどの明るい表情を作る。

「大丈夫です。ぼくだってそんなに慣れてないです。ところでベルタさん、ご飯はもう食べました?」

「え、まだです」

 言われた瞬間、胃袋が甲高くキュウと鳴った。ベルタの肉体は普通の人間よりずっと多くのカロリーを要求してくる。

「好きな食べ物とかあります? まずは食べながら考えましょうか」

「ええと……りんごパイ、とか。レアチーズケーキ、とか」

「え?」

 と、そのとき、二人の前に青年が飛び出してきた。

 派手な色のハッピを着ている。手にはチラシを持っている。陽気な声で話しかけてきた。

「ちょっとお兄さん、デート中?」

「え?」

 祐樹が、今までの快活さが嘘のようにたじろいだ。足が止まり、顔が硬直する。顔を伏せて小声で答える。

「あ、は、はい……」

「じゃあさ、うちの店こない?」

 そう言ってハッピの青年は、自分の背後を手で示す。

 真っ白い大きな建物がそびえている。ベルタと祐樹は建物を見上げた。

 ミニチュアの城だ。白亜の壁には飾り窓が並び、てっぺんには先頭まで立っている。入り口は立派なアーチになって黒光りする鉄の扉がついている。

 しかし入り口の脇に『通信カラオケ ZAM3』『アニメ充実』などとノボリがはためている。

「カラオケ屋……ですか?」

 祐樹が言うと、青年は勢いこんで熱く訴える。

「そうそう! 知ってるでしょ、カラオケキャッスル。いまなら会員証作ってくれると五十パーセント引きだよ、ほらほら! 見てよこのチラシ」

 青年は祐樹とベルタ二人の手に、強引にチラシをねじこむ。

「あ、この店知ってます。曲数がすごく多いんですよね」と祐樹。

「そう! そうなんだよハハハ! あとね、うちは食べ物も充実してるんだよ。『メイプルトースト』とか『マウンテンパフェ』とかね」

 カラオケ屋の青年は、チラシを目の前で広げて見せる。

 チラシにはパフェの写真があった。ソフトクリームとバナナが天をついてそびえている。となりに置かれているアイスコーヒーのグラスがまるでタバスコの瓶ほどに小さく見えた。本当に巨大なパフェだ。

「『こっちの汁はあーまいぞ』でも紹介されたんだよ、うちのパフェ」

 店員の言葉は右耳から左耳に通り過ぎていった。パフェの写真が光り輝いて見えた。生唾がこみあげてくる。

「こ、これ食べたいです」

「ベルタさん、甘いの好きなんだ」

「おかしいですか……?」

「そんなことありません、かわいいと思いますよ」

 青年は満面の笑顔で、「ハイ二名様ごあんなーい!」


 3


 カラオケ屋の個室に入るのは、もちろんはじめての経験だった。

「402号室、ここですね」

 祐樹が先導して個室に入る。一歩遅れてベルタも入る。

 中には、テーブルを囲んでソファが並んでいる。大きなテレビがある。壁にはヨーロッパの田園風景が描かれていた。

「狭い……」

 思わずうめいてしまった。しかも窓がない。ドアが背後で閉じた瞬間、ますます圧迫感を覚えた。廊下を流れていた音楽がまったく聞こえなくなった。防音がきいているのだ。

 カラオケ屋がどんな場所なのか知識はあった。考えてみれば防音も窓がないのも当然だ。

 だが不安だった。

(これまで喫茶店やレストランでも、できるだけ店全体を見渡せる場所を選んでいたのに)

 どこに追っ手がいるか分からない、次の瞬間にも敵がマシンガンを持って襲撃してくるかもしれない、と思って生活していたのだ。

「どうしたんですかベルタさん」

「あ……はい」

 祐樹に呼ばれ、向かい合って腰を下ろす。

「もしかして、緊張してます?」

「それはまあ……」

 曖昧に微笑むと、祐樹はクスリと笑う。

「ぼくもなんです。あ、場所変えましょう、ぼくがドアの近くにいたほうがいい」

「どうしてですか?」

「うーん、たとえば食べ物とかを受け取る役だから。お客さんは奥のほうに座ってもらう、みたいな」

「日本の文化ですか。面白いですね」

「じゃあ、まずパフェ頼みます?」

 祐樹はそう言って、壁にあるインターフォンを取る。パフェを注文する。

 注文を終えると、まじめな顔で深呼吸して、テレビ下の分厚い本を取る。曲目カタログだ。

「それで、えーと……こういう場合は、誰かが歌いださないと他の人が歌えないんです。まずは誰かが歌って、恥ずかしさを吹き飛ばす」

 そういいながらも祐樹自身は恥ずかしさを捨てられないらしい。ベルタの顔から目をそらしながら、リモコンに数字を打ちこんでゆく

 ピピピピ、とリモコンが電子音を立てる。曲の呼び出しまでは十秒とかからなかった。

 祐樹は神妙な顔つきでマイクを握り、歌い始める。

 テレビ画面に出てくる歌詞をまったく見ていない。声も落ち着いて、よくメロディラインと合っていた。しっとりした曲調が途中から一気にアップテンポになり、サビの部分では叩きつけるように叫ぶ。眉間にしわまで寄せて真剣に歌っていた。

 歌い終わり、伴奏がジャンと余韻を残して終わる。祐樹はテーブルの上にマイクを置く。

 置いたとたん、祐樹は気弱そうに微笑んで、

「ど、ど、どうでした?」

「ええと……わたし、こういうの聴くのも見るのもはじめてですし、専門的なことはわからないんですけど」

「はい」

「よかったです。……なにより、楽しそうだなって」

「そう言ってくれてなによりですよ。それじゃ、次はベルタさんが」

 マイクを差し出す祐樹。ベルタはあわてて首を振る。

「いや、わたし無理ですよ。歌なんて知らないんです」

「ここのシステムはすごいから、外国の歌だって入ってますよ?」

「そういう問題じゃないんです……」

「よし、じゃあコレを入れましょう。これなら歌いやすいと思います」

 祐樹がリモコンを操作する。曲が始まるまでの十秒そこそこを、ベルタはひどく長く感じた。じっと画面に見入る。画面の中は茶髪の女の子や黒ずくめの男たちが歌っている。下のほうに『新曲はいりました』と表示されている。

 やがて軽快な音楽がスピーカーからあふれだす。テレビ画面にアニメが映し出される。学園が舞台のようだ。かわいい女の子たちが犬とたわむれたり、いっしょに自転車に乗ったり。

「うわ、番組本篇の映像が出てるんだ。うーん、サービスいいけど、ちょっと今は……困ったな……」

 祐樹が上ずった声で、画面を指差す。

「これ、見てのとおりアニメの主題歌ですけど、気にしないで下さいね、いい歌ですから」

「はい。もともと気にしないです」

 ベルタはマイクを手にとった。

 表示される歌詞にあわせ、歌いだした。数百メートルはなれた会話を聞き取れるほどの聴覚を、いま歌につぎこんだ。伴奏をたっぷり味わい、伴奏の背後にあるガイドメロディと同じテンポで声を発する。

 祐樹が息を呑む。しかしどんな顔をしているのかはわからない。画面だけを見ているからだ。歌詞を追い、女の子たちのアニメ映像を見るのに夢中だった。

 歌い終え、マイクをおく。

 すかさず祐樹の顔を見る。祐樹はテーブルの向かい側で、目と口を大きく開けて沈黙していた。ベルタが「あの……どうでした?」とたずねると大きくうなずいた。

「よかったです! 最高でした!」

 身を乗り出してくる。

「ほんとに、よかったです。声が幼い感じでかわいくて、でもしっとりしてて、メロディとかも完全にあってたし……ほんとに知らない歌なんですか?」

「え……そんなによかったですか。たまたまですよ、たまたま」

 祐樹は小首を傾げる。

「そうですね……ちょっとだけダメなところは……表情かも。ベルタさん、眉間にシワよせてすごく険しい顔で歌ってますよ? もっと楽しそうに、笑って」

「こ……こうですか?」

 べルタは笑顔を作ってみる。目の前にいる祐樹の顔を見て、頬と唇の筋肉を動かす。

「うーん、それだと虫歯の痛みを我慢しているみたいです。こうですよ。ほっぺたはこうで」

 祐樹は自分の頬に手を当てて動かしてみる。

「こう……れすか?」

 真似をして頬を引っ張るベルタ。

「ちょっと動きが大劇過ぎます。あと笑顔は目も重要なんです。キッとにらむような目じゃなくて……眼鏡を少し動かしてみるといいかも。こうです、よく見てください」

 祐樹がベルタをじっと見て、あらためて笑顔を形作る。べルタも顔を近づけて資金距離から見た。満員電車の中のように密着して顔を付き合わせ、ベル他派何とか祐樹の真似を下。

「こう……ですか?」

「うーん、まだ硬い……」

 と、そのときベルタの右手でドアが開き、鮮やかな色のエプロンをつけた女性店員が入ってきた。

「失礼します。お食事おま……」

 店員が、銀盆を持った姿勢のまま硬直する。

 なにしろべルタと祐樹は、二人でテーブルに手をついて至近距離でにらめっこ中だ。

「え……あ……」

 祐樹とベルタは口をパクパクさせながら店員のほうを見る。次の瞬間、店員が噴き出す。

「ぷっ……ご、ごめんなさいっ」

 口元に手を当てて笑いをこらえ、テーブルの上に盆をおいて部屋を出ていった。後ろ姿を見ても、肩が震えている。

 ドアがしまると、ベルタはがっくり肩を落として、

「……はずかしかったです……」

 しかし祐樹は恥ずかしがっていなかった。盆からコーヒーのカップをとって、

「あれですよべルタさん。今の店員さんの表情、あれを再現するんです」

「……や、やってみます」


 4


 それから三時間、ベルタと祐樹は歌いつづけた。

 互いが歌うたびに聴き入った。五曲、十曲と続くうちに恥ずかしさなど吹っ飛んでいた。ときどき祐樹がトイレと言って席を立ち、そのたびに暗い表情で帰ってくるのが気になったが、それ以外の時間はすべて楽しかった。

 壁の電話が鳴り出す。祐樹が取って、「あ」と目を見開く。急に顔つきが暗くなる。

「あ、はい。時間ですか。ちょっと待ってください……」

 受話器から顔を離し、ベルタに尋ねてくる。

「そろそろ時間なんですけど、延長はどうしますか?」

「もう終わりの時間ですか?」

 ベルタは驚きの声を上げる。頭の中の戦術支援電子脳を立ち上げる。冷たい声が『18時28分』と告げる。確かに三時間たっていた。時間の流れをまったく把握していなかった。訓練で時間感覚を叩きこまれたはずなのに。

(そのくらい楽しかったんだ)

 もっと遊びたい、そんな気持ちがわきおこってきた。

 頭の中にたくさんの夢想が浮かんだ。日本を旅しているうちに聞きかじった恋愛のエピソードが再現される。二人で映画を見る。腕を組んで歩く。きっと楽しいのだろう。なにが面白いのかさっぱりわからなかったカラオケが、実際にやってみるとこれほどの喜びを与えてくれる。

「延長はなしでいいです。他のところにいきましょう」

「わかりました。……延長なしで」

 電話を切った祐樹は、ベルタににっこり微笑みかける。

「じゃあ、出ましょうか」

「まだチーズケーキが食べ終わってません」

 テーブルの上を指差す。キツネ色に焼き上げられた円盤型のチーズケーキが、飾り皿に載せられて鎮座している。他にもパフェのグラスやケーキの皿がずらり並び、曲目カタログを置く場所がないほどだった。

「じゃあ、あと五分くらい待ってもらって……」

 などと祐樹が言っている間に、ベルタはチーズケーキを持ち上げ、ぺろりと平らげた。

「ごちそうさま」

「うわあ……」

 祐樹は目を丸くしている。ベルタの細い腰と腹に視線を落とす。

「どこに入るんだろう……」

「じろじろ見ないでください」

 反射的に言ってしまった。だが笑いながらだ。怒ってはいない。

 会計を済ませ、店の外に出た。

 商店街はもうすっかり夜。道を歩く人々も変わっていた。学生服姿はもう一人もいない。空気もすっかり冷たくなっていた。ベルタは身震いして、小脇に抱えたパーカーをシャツの上に羽織る。

 もう、たった三時間前の警戒心などない。

 今日一日、たっぷり楽しんでやる。そう思っていた。

「さて、どこにいきますか?」

 なぜかこわばった表情の祐樹に笑いかけ、肩を並べて歩き出す。

 そのとき、商店街の人ごみをかき分けて、二人の男が立ちはだかった。

 一人は背の高いひょろりとした男。茶色く染めた長髪を背中に流している。黒い革のジャンパーとパンツで、胸元にシルバーアク背をぶら下げていた。

 もう一人は大柄な男。肩幅もあれば胸板も厚い。頭を丸刈りにして、ごつい体をTシャツとジーパンに包んでいる。ラフなファッションだ。

 二人の男はベルタのすぐ前に立つ。肩がぶつかるほどの至近距離からジロジロ見る。顔や体を眺め回す。

 長髪に革ジャンパーの男がニヤつきながら言う。

「うーん、この女か」

 丸坊主の筋肉質男が猪のように太い首をかしげる。

「ちょっとなあ」

「ガキっぽすぎるよなあ」

「ああ。乳、なにもねえしな」

「まあでも、ガキを開発してくのも楽しくねえか?」

 長髪男が言うと、大柄の坊主頭はうなずいて、

「そうだな」

 警戒心が芽生える。ベルタの背筋に冷たいものが駆けた。

「あの……どちらさまですか?」

 眉をひそめて言うと、男たち二人は噴き出した。

「なあ祐樹、説明してやれよ」

 長髪の男が冷笑を浮かべつつ言う。

「え? 祐樹さん、この人としりあい……」

 祐樹に尋ねようとする。彼を顔を見て絶句する。

 さきほどまでの笑顔はどこへやら、祐樹は真っ青になっていた。頬や唇から血の気が失せ、目をベルタからそらして震えている。

「祐樹さん? どうしたんですか?」

「あんた、そいつに騙されたんだよ」

 背後から長髪男の声がする。

「騙された……どういうことです?」

 祐樹が頬をひきしめ、ベルタを真正面から見て答える。泣きそうな声だ。

「……この人たちが、女の子を探していたんです。女の子を連れてきたら殴らないでやるって……だからベルタさんを……」

「まあ生贄みたいなもんよ」

 胃の中に冷たいものが広がった。

(つまり祐樹さんは、この人たちにいじめられてるんだ)

 背後から長髪男の声が近づき、腕が首にまわされる。思わず嫌悪感で硬直するベルタ。シャツの下の腕に鳥肌が立つ。耳元に男の声がする。ベルタの優れた嗅覚は男の息からマールボロの臭いを嗅ぎ取った。ガソリン臭も混ざっている。

「そんなに怯えるなって。こんなやつよりオレらと遊んだほうが楽しいぜ?」

「そうそう、オトナの遊びってやつよ」

 坊主頭の男が、太い腕でベルタの薄い胸をわしづかみにした。指が食いこんで痛い。

「おいおい小せえなあ。これじゃオレ、たたねーかも」

 頭の中に嫌悪がはじけた。

 ベルタは、自分の首にまわされた腕、乳房を這う手を払いのける。人間の反射神経を超えた速度だ。長髪男と大柄坊主頭が目に見えない力で弾かれたように一歩後ろによろめく。まったく同じ瞬間、足をひらめかせ、二人の膝にキックを撃ちこむ。正確に調整して、関節を外すだけの衝撃を加えた。

 パキンコキュッ! 軽い音がして膝関節が外れる。一瞬で、二人はその場に転がる。

 尻餅をつき、血の気が引いた顔に玉の汗を浮かべて、「ぐう」「いぎい」だらしなく苦痛のうめきをもらす。

「て、てめえ……!?」

 ベルタは男たちを無視し、あっけに取られている祐樹の手をぎゅっと握る。

「さあ、いきましょう」

 言って、走り出す。

「ちょ、ちょっと……うわあ!」

 祐樹が悲鳴をあげ、抵抗する。結んだ手を解こうとする。ベルタから離れようとする。ベルタの小さい手の中で祐樹の指が暴れる。だがベルタの握力は万力のようにがっちりと祐樹の指を固定している。

 細いとはいっても五十キロはある祐樹の体を、軽々と引きずって走ってゆく。百メートル走の選手ほどの速さだ。

「ど、どこいくのっ」

「警察がきたら困るでしょう?」

 夜の商店街は通行人に埋めつくされていた。ブティックから出てきた茶髪の女性と激突しそうになって小刻みにステップを刻んで避ける。カバンを持ったサラリーマンが現れる。脇を駆け抜ける。カートに巨大な段ボールを積んだ宅配便配送員が真正面に現れる。ベルタはひらりと身をかわして避けたが、引きずっている祐樹がぶつかったらしく、背後から段ボールの崩れる音、そして悲鳴。「ごめんなさい!」と振り向いて叫び、さらに走る。

 しばらく走って路地裏に逃げこんだ。シャッターの閉まった店が並び、アスファルト上にガムのこびりついた汚い路地を、ベルタと祐樹は疾走する。

 たっぷり五分は走った。

 すでに商店街から外れ、あたりは一軒家とアパートばかりだ。

 立ち止まり、とある一軒家のブロック塀にもたれる。手を離した。

「はあっ……」

 祐樹はその場に尻餅をついた。なんとかベルタの速度についてこようとしたのだろう、顔が汗だくで息も切らしている。一方ベルタはまったく普通の顔色だ。

「ご、ごめんなさい、辛かったですか。手、大丈夫ですか」

 心配になって祐樹の手を握った。骨や筋肉に異常はないようだ。

「平気です……でも……あの……」

 祐樹は目を白黒させ、どもりながら尋ねてくる。

「あのっ、いったいっ……なんでぼくを……たすけて? く、くれたんですか?」

 まったくわけがわからない、という当惑顔だ。

 ベルタは目をパチクリさせた。

 そういわれてみると、自分でもよくわからない。あの連中の手を払いのけ、一人で悠々と去っても良かったはずだ。騙した祐樹まで叩きのめしてもよかったはずだ。なぜ助けた?

 理由がわからなかったので、ベルタは胸元で小さな拳を握り、言葉を探しながらボソリボソリと答えた。

「たぶん……助けたかったからです。祐樹さんのことが大切なんです」

「え……だって。ぼくは、ベルタさんを騙していたんですよ? もしベルタさんが強くなかったら、あのままあいつらに連れて行かれて、お酒とクスリを飲まされて……ひどいことを……」

 そこで祐樹は顔を伏せた。苦痛をこらえるような表情になる。

「でも、それは脅されてやったんでしょう? それに……」

 ベルタは腰をかがめ、祐樹と同じ高さにまで目線を下ろす。

 汗まみれになった祐樹の顔を見る。

 カラオケ屋での練習を思い出して笑顔をつくって、優しく言う。

「楽しかったです。今日のデート。たとえ『きみのことが好き』とか全部演技でも。誰かと一緒にご飯を食べて。誰かと一緒に歌を歌って、冗談を言い合って……素敵でした。ともだちを作るってどんな感じなんだろうって思ってましたけど……ずっと夢みていましたけど……どんな想像も追いつかないくらい、素敵でした」

 そこでベルタは言葉を切る。胸の中で膨れ上がる思いを、一体どうやって言葉にしたものか。

 はだけたパーカーの中に手を入れ、自分の胸に手を当てる。シャツと下着を通して、ベルタの敏感な触覚が胸の高鳴りをとらえた。

「この気持ちがなんなのか、わたしにはわかりません。でも……もしかしたら、わたし、祐樹さんのこと好きなんじゃないかって……そう思います」

 祐樹は目を見開いた。何かに打ちのめされたかのようだった。そしてベルタの眼を見つめたまま、たどたどしく喋りだす。

「ぼくも、楽しかったです。これは悪いことなんだってわかってたけど、でも、一緒にいる間、すごくドキドキしました。この人はぼくのことを殴らない、ぼくのことを変な目で見ない。ぼくということを真剣にきいて、ぼくと同じもので笑ってくれる人……時間を気にして、あと一時間で終わる、楽しい時間が終わってしまうって思って……あいつらのいない世界で、ベルタさんみたいな人といっしょに過ごせたらいいと思った。でも……」

 祐樹の瞳から一筋の涙がこぼれた。

「でも……だめです。ベルタさんがオーケーでも……あいつらが許してくれない。また殴られる……なんども、なんども、泣いて謝るまで……どうしたって許してくれなかった……それに、ぼく、あいつらの言いなりにいろいろやったんです……」

「いろいろ?」

「ものを盗んだり、何度もさせられました。あいつらが女の人を……その……するとき、見張りをしていました。ぼくは参加しなかったけど……でも、女の人たちの声をきいても、何もできなかった。何もしなかったんです」

 祐樹は地面にうずくまったまま、拳を震わせている。まるで自らの言葉で喉を切り裂かれてでもいるかのように苦悶の表情を浮かべ、あえぐようにゆっくりと、言葉を吐き出す。

「だから……ぼくは……できません……。幸せな、普通の世界には。戻れない」

 その言葉を聴いた瞬間、ベルタは胸が詰まった。

 胸の中にうずまく感情の正体を、いまこそ知った。

 ベルタは祐樹の背中に腕を回し、抱きしめた。ベルタのかぶっている長い黒髪のウィッグが祐樹の肩にかかる。

 電撃を流されたように祐樹が体をビクつかせる。

 二人はいま顔と顔を突き合わせ、キスができるほどの至近距離だ。

 ベルタは感情のままに言葉を叩きつける。

「戻れます。戻れます。ものを盗んだから、あいつらに協力したからなんだっていうんですか。これから、変えていけます。あきらめないでください」

「そんなの。ベルタさんにはわからないよ。ベルタさんは強いから。ぼくの気持ちなんて」

「わかります。わたしも、同じなんです」

「おなじ……?」

「わたしも、悪いことをやってきました。つらい世界にいました。平和な暮らしがしたくて、逃げてきました。祐樹さんと同じなんです。はじめて、仲間に会えた」

 祐樹の体をぎゅっと抱きしめた。もう、祐樹は体をこわばらせていなかった。

「ベルタさんも……」

「そう。わたしもいじめられっこです。救いが欲しいんです。ちょっとスケールが大きいけど」

 ためらいがちに祐樹が尋ねる。

「……じゃあ。友達になれるかな」

「なれます。なって下さい」

「うん……で、でも」

 そこで祐樹が急にうろたえる。

「どうしたんですか?」

「だ、抱き合って、その……はずかしい」

 目を丸くして、ベルタは祐樹から離れる。

 祐樹は立ち上がって、ベルタの手を握る。

「あ、あらためて、よろしく」

「変ですね、抱き合った後に握手するなんて。しかも泣きながら」

 くすりと笑いながら指摘するベルタ。祐樹が即座に言い返す。

「ベルタさんだって泣いてるじゃないですか」

「え……?」

 ベルタは自分の頬に触れた。柔らかな肌を、確かに涙が伝っている。

「……やっぱり、わたしたちって、にてますね」

「そうですね」

 かたく手を握り返した。

 

 5


 次の日の朝、ベルタはCDショップにいた。

 正確には、CDショップの自動ドアを出たすぐのところに立っていた。

 祐樹が出てくるのを待っていた。

 店の外壁はガラス張りになっている。ガラス越しに店内をのぞいて祐樹の姿を探し、ドアに貼られた人気アーティストの宣伝ポスターを見る。すでにポスターの内容など完全に暗記しているのだがまた見てしまう。そのあとまた店内を見る。

(あの人は違う。あの人も違う)

 そうこうしている間に客が出入りする。そわそわしているベルタをいぶかしげに見て通り過ぎてゆく。

 頭の中の戦術支援電子脳に呼びかけ、たった十五分しか経っていないことに驚く。なんと長い十五分か。

 さきほどからしきりにセルフレーム眼鏡の位置を直している。落ち着かないのだ。さきほどから気になって仕方ないのだ。

 ベルタは目を大きく見開いた。

 自動ドアが開いて、祐樹が出てくる。小さい体なりに胸を張って大股に歩いてくる。

 彼の明るい表情を見て、ベルタは踊りだしたくなった。

「祐樹さん!」

 思わず、声を上げて駆け寄ってしまった。

「大丈夫でしたよ、ベルタさん。店長さん、許してくれるって。お金返したらいいって」

 喜びに満ちた声だ。

「よかったですね……」

「うん。ほんとうに」

 この店は、祐樹がCDを盗んだ店だ。

 ベルタと握手をして友達になった後、二人で話し合って、「まずは謝りに行こう」と決めたのだ。

「捕まっても仕方ないや、くらいの気持ちだったのに……」

「そんなに悪質じゃない、と思われてるんでしょうか」

「というより」

 祐樹は微笑んだ。さびしそうな微笑だ。

「ぼくがあの連中にいじめられてるって、店長さんはよーく知ってた。励ましてくれたよ」

「そうなんですか……味方は、いるものですね」

 ベルタが微笑むと、祐樹はうなずく。自分に言い聞かせるように、呪文のように言葉を短く切りながら呟く。

「他にも、悪いことをいくつかやった。今日、すべて謝って回りたい。そのあとで、あいつらに、もう従わないって言う」

「がんばってください。……いえ、がんばりましょう」

 わずかに言い換えただけだ。祐樹には言葉の意味が伝わったらしい。こちらの眼を見つめ返してくる。

「手伝ってくれるんですね」

「手伝ってなんていません。『いっしょにいる』だけですよ。祐樹さんが謝るときも。いじめっこと戦うときも」

「それだけでありがたいです」

「じゃあ、行きますか」

「その前に……ベルタさん、おなかすきませんか?」

「はい?」

 ベルタは昨日と同じにしか見えないジーンズとパーカー姿の腹部分をさする。

「はい。たしかにおなか空きました」

「実はぼくも。緊張して朝ごはんとか食べられなかったもので」

「じゃあ、ご飯食べますか。あれでいいですか?」

 ベルタが指差した先には、ハンバーガーで有名なファーストフード店があった。店先に『春の新味覚 まるごとアップルパイ』というノボリがひるがえっている。

「もしかしてベルタさん、『まるごとアップルパイ』が気になるんですか」

「よ、よくわかりましたねー」

 ベルタは思わず苦笑してしまった。祐樹も吊られて笑う。

 笑いながらファーストフードに入り、ご飯を食べた。

 アップルパイとミルクシェーキ、甘いものばかり注文するベルタに祐樹はあきれた。

 二人で、これからの話をした。

 まだ目先の問題は解決していないのに、いくらでも未来の話が出てきた。祐樹がコーラを一口のむたびに、ベルタが特大のアップルパイにかぶりつくたびに、ふたりの間で笑いがはじけた。

「祐樹さんは、いじめっこたちに勝ったら、どうするんですか?」

「そうですねえ……ぼく、実はマンガ家になりたいんです」

「はい?」

「中学生のころから描いてたんですけど……学校で取り上げられて、みんなにゲラゲラ笑われて。笑われたときにぼくが怒って、その怒り方がヘンテコで面白かったんだと思います。みんなのイジメが始まって、どんどんエスカレートしていきました」

 ベルタは黙って話をきいている。

 辛い体験を語っているはずなのに祐樹の声は明るく、背筋もピンと伸びて瞳が輝いていた。

「でも、さんざんイヤになったけど、マンガ家になりたい気持ちは変わらないんです。だから、あの連中と手を切れたら、必ずマンガを描きます」

「マンガ、ですか……今度みせてくださいよ」

「はい、かならず」

 しっかりとうなずく祐樹。ベルタは彼の笑顔を見ているだけで、胸の中が幸福感で一杯になった。

 頭の片隅に不安もある。

(フェルトヘルンハレはきっとわたしを探している。こんな変装ごときで自分の所在はごまかせない。必ず奴らはやってくる。だからわたしはこんな場所で友達ごっこやっていてはいけないのだ)

 しかしそんな懸念も、祐樹の笑顔で溶けてゆく。

(いまだけ。あとちょっとだけ。祐樹さんが幸せになるのを見届けるだけ)

(だから、ほんの短い間の休憩だから)

(でも、もしずっと続いてくれたらいいな……)

 二つ目のアップルパイがいま持ってこられた。熱々のパイを恐る恐る口に入れ、とろける、かぐわしいリンゴを舌の上で転がす。

(ずっと続いてくれたら……祐樹さんがマンガを描いて、マンガ家になっていくのを応援できたらいいな……)

「ベルタさん、垂れてます、口からリンゴ垂れてますよ?」

 どちらからともなく、笑い出した。

 

 6


 それから数日後。

 祐樹とベルタは、うららかな太陽の下、国道沿いの歩道を足早に歩いていた。

 祐樹の格好は学生服ではなく、上下共にジャージ。靴もスニーカーに履き替えている。

 大股で歩きながら、ジャージ姿の祐樹は拳を空中に撃ちこんでいる。

「ふっ、ふっ」

 謎の掛け声まで発している。

 かたわらを歩くベルタが小首をかしげる。

「さっきから不思議に思ってたんですけど、なんです、それ?」

 祐樹は「え?」ときょとんとする。

「シャドーボクシング……とかいうんでしたっけ? これをやるといじめられっこでも強くなれる。……すいません、マンガで読んだだけです。そんな顔しないでください」

 ベルタは苦笑する。

「冗談の余裕がある、ってのはいいことです」

「はい、ベルタさんの教えですから」

 あれから祐樹はベルタの助けを得て、「自分のやったことの後始末」を続けてきた。盗みをやった店、傷つけた相手に誠心誠意謝ってきた。

「わたし、祐樹さんはへこたれちゃうんじゃないか、って思ってたんです」

 ベルタが感慨深げに言う。祐樹の表情が一気に暗くなる。

「へこたれそうになりましたよ。一番辛かったのは、親の眼です。母さんとか、『ぼくが万引きをやったことがある』って知ったら、もう口をきこうともしない。完全に汚いものを見る感じで……親なんて嫌いでした。『なにを言ってもわかってくれない』って思ってました。でも、ほんとうに軽蔑されるのって、ぼくが思っていたのより百倍辛いです……家の中の空気がおかしいんです。ご飯を食べても味がわからない、家の中で本を読んでもご飯食べても、ぜんぜん楽しくない。居心地が悪い。母さんと普通にしゃべれるようになるには、きっと何年もかかる」

 そこで祐樹は、沈んだ表情を笑顔に変える。

「でも、ベルタさんがいたから。だから耐えられた」

「そういってもらえると、ありがたいです」

「たったひとりでも『わかってくれるひとがいる』って、ぜんぜん違いますね」

「わたしもそう思ってます。だから、きっとあの連中にも負けませんよ」

 謝罪と平行して、祐樹は体を鍛えていた。あの連中と縁を切ろうとすれば喧嘩になるだろう、という判断だ。

 まずは基礎体力をつけた。たった数日ではわずかな効果だが、ないよりマシだ。素人でも使える護身術、頭突きや体当たりなど簡単で威力のある技をベルタから教わった。

 まさにこれから、あの連中と会うのだ。連中は怒り狂っている。

 となりを歩きながら、ベルタは指一本立てて、説明をはじめる。

「じゃあ最後のおさらい。なにより大切なのは、心が折れないことです。相手は祐樹さんを殺すつもりではありません。戦う意欲を奪ってへこたれさせるのが目的なんです。へこたれなければ、絶対負けません。『どうせ勝てない』『どうせボクなんか』をやめてください」

 祐樹は即座にうなずいた。

「うん、その話は何度も聞きました。そのために必要なのが、イメージトレーニングでしょ?」

「はい。自分が勝って、幸せになるところを具体的にイメージするんです。できるだけ具体的に、ですよ?」

「いろいろイメージしたけど、どれも最後はベルタさんが出てくる」

 真顔で言い切られた。ベルタは赤くなって目をそむける。

「は、恥ずかしい……」

「ベルタさんはどうなんですか?」

「え?」

「もう少し、ここにいられるんですよね?」

 ベルタは、思わず口を半開きにして戸惑った。

 いままで避け続けてきた問題だ。

 あと少し、あと少しだけ一緒にいる。毎日そう言いつづけて、先延ばしにしてきたのだ。

「そうですね……祐樹さんの件が片付いたら。わたしもなんとかします」

 口に出してはみたが、方法は見当もつかない。

(やはり日本人の戸籍が必要だよね。住所と職業が必要だろう。その上で、フェルトヘルンハレが自分を追わないような状況……どうやって作り出せる?)

(それに、わたしだって泥棒でお金を稼いでる)

(わたしだって責任をとるべきだよね)

 悩みの数々を押し殺して、ベルタは曖昧に微笑んだ。

「そうなったらいいですね」

 祐樹も同じように軽く笑う。

「あ!」

 そのとき祐樹が大声をあげ、立ち止まる。

 肩掛けカバンから分厚い封筒を取り出す。

「思い出しました。じつは、ちょっとこういうのがあって」

「え? なんですこれ? 見ていいですか?」

 ベルタは封筒を開けてみる。

 大きさはB4版ほどか。白く厚い紙に鉛筆で絵が描かれている。

 マンガだった。まだ下書きの段階のようだ。

「あ……これ……祐樹さんのマンガですか!?」

 思わず、食い入るように見つめてしまう。祐樹は照れて笑った。

「はい、そうなんです。前からちょっとずつ描いていたものなんです。まだ下書きの段階で、後半なんかはストーリーにも疑問が……」

「読んでいいですか?」

 返事を待つまでもなく、ベルタは読み始めていた。

 立ったまま、ページを一枚一枚めくる。

 ベルタは、マンガには詳しくない。フェルトヘルンハレの研究所で生活していたときはもちろんマンガなど一ページも読ませてもらえなかった。日本に逃げてきてからは日本の常識を知るため手当たり次第に本を読みまくり、そのときマンガも何冊か読んだ。祐樹と付き合うようになってからは話をあわせるため少し読むようになっていたが、それでも日本の平均的な十代と比較すれば何も知らない。

 だから技術的な良し悪しは分からなかった。

 だが引きこまれた。絵など鉛筆で描いてあるだけ、しかも後半に行くにつれてどんどん荒くなってゆくのに、ひとつひとつのコマから迫力が伝わってくる。

 一気に最後まで読んで、ため息をつく。

「これ、面白いですよ」

「そうですか……不安だったんです」

「とくに、ヒロインの女の子がかわいいです。あと、この戦いのシーンなんですけど」

 ベルタが原稿を広げ、細かい指摘を始める。

「すいませんベルタさん。嬉しいですけど、細かい話は終わってからで」

「そうですね……じゃあ、終わってからのご褒美で」

 すでにベルタの脳裏に、喫茶店でこの原稿を囲んで談笑する自分たち二人の姿が浮かんでいた。

「はい、やる気がでてきました!」

 と、その瞬間。

「きゃっ」

 ふたりの右側、国道から悲鳴が飛んできた。

 とっさに背筋を悪寒が走る。そちらに視線を向けたベルタは、見た。

 あってはならない光景を。

 国道の交差点。横断歩道。ぴかぴかのランドセルを背負って渡る子供たち。頭には黄色い帽子。小学校一年生か。

 信号を無視して、子供たちに向かって突っこんでくるトレーラー。運転手は目を閉じ、首を傾けている。居眠り運転だ。

 ベルタ、一瞬で背筋が凍りつく。

 戦術支援電子脳が自動起動。思考速度が加速された。時間がゆっくりと流れる。スローモーションのトレーラーをにらみながらベルタは考える。考える。

(どうする。どうやって助ける。ダッシュして子供を抱きあげて逃げる?)

(ダメだ、十人もいる子供全員を助けられない)

(運転手をたたき起こす? いま起きてもブレーキが間に合わない。)

(「ギャラルホルン」でタイヤを破裂させてひっくり返す? いまここでひっくり返したら被害が大きくなるだけだ)

 心の片隅で一つの思考が絶叫を上げる。

(放っておけ、目立つな! 関係ない子供なんて死んでもいいだろう。騒ぎを起こしたら、もう祐樹とは一緒にいられないんだぞ)

 そう思ってしまった自分にぞっとした。もちろん放っておくなんてできない。

 歩道を蹴って国道に飛びこんだ。全力疾走。最初の一歩で時速五十キロを越え、二歩目で百キロを超える。子供たちの前に飛び出す。すでにトレーラーは二メートルの距離にまで接近。減速の気配もない。

 もっとも重要なのは足裏のグリップ力が不足していることだ。ガニ股になって、ズガンズガンと路面を踏んで、足をくるぶしまでアスファルトに突き刺す。相撲取りのように姿勢を低くして身構え、突進してくるトレーラーを、正面から受け止めた。

 その瞬間、バンパーに激突した手のひらに激痛が炸裂。骨まで染みとおってくる痛み。十トン以上の巨大慣性質量が腕を押し曲げ、体を後方に吹っ飛ばそうとする。腕の筋肉に力をこめて対抗。耐え切れない。腕が圧倒的な力でねじ曲げられた。肘関節がメキイと変な音を立てる。肩がすっぽ抜けそうになって鋭い痛みが爆発する。車体は勢いを減ずることなく進んできた。全身で受け止めた。頭に乗っていたロングヘアのウィッグが落ちる。眼鏡が吹っ飛んでゆく。腹にバンパーが食いこむ。内臓が強制的に移動させられる違和感、激痛。いっぱいに広げた腕を左右のヘッドライトに叩きつける。薄い胸板がエンジングリルに激突する。腰、腹筋にあらんかぎりの力をこめて対抗する。全身の筋肉を鋼のように固めた。耳の奥でツーンと音がした。体はいまや一枚の鋼板だ。いや杭だ。杭なのに背筋が曲がる。視界を埋め尽くす茶色の鋼鉄塊がのしかかってくる。押し倒される。顔面に『FUSO』のマークがめりこむ。曲がる背筋を渾身の意志力でまっすぐに伸ばす。食いしばった歯が口の奥でギリリと鳴る。あれほど深く突き刺した脚が、アスファルトを食い破って後ろ後ろへ押しやられる。砕かれたアスファルト片が飛び散って、十センチ、また十センチ、トレーラーの慣性力で押しこまれ、踏みしめた路面がえぐられて、

 トレーラーは止まった。

 ギュギュギュ、という音はタイヤの空転だ。

 あたりにはタイヤのゴムが焼ける臭いと、砕いたアスファルトの粉末が立ちこめた。

 ドロドロドロ、という怪獣のうなりに似たディーゼルエンジン音。

(まだエンジンがかかったままだ! 手を離せばまた走り出す!)

 ベルタ、車体の下に手を入れ、一気に持ち上げる。車体を真横にひねり倒した。

 荷台に積んであった鉄骨が勢いよく路面になだれ落ちる。重い金属音が反響する。運転席ではようやく目を覚ました運転手が目を白黒させている。

 これで安全は確保した。

 すぐに叫んで、ふりむいた。

「大丈夫でしたかっ!?」

 横断歩道の子供たちは、もちろん無事だった。男の子は腰を抜かしている。女の子は目と口をポカンとあけている。

「よかった……」

 ベルタ、安心の吐息。気が緩んだとたん、体の各所で痛みが爆発した。まず脚。見ると、せっかくのスニーカーが血まみれのズタ袋になっていた。靴下まで真っ赤になっている。わき腹と胸にも何かが刺さるような痛み。衝撃で肋骨にヒビでも入ったのだろう。

 痛みを訴える肉体を、ベルタは無視した。

 こんな痛みなどなんでもない。一時間あれば治癒する。エインヘリヤルの再生力は人間の比ではない。

 だが、重要なのは……

 腰を抜かしていた男の子の一人が、口をひらいた。

「すっげー……サンダーレンジャーみたい」

 他の子供たちもみな、ベルタを驚きの眼で見ていた。突っこんできたダンプでなく、それを生身で止めたベルタに驚いていた。

 あたりを見回す。目撃者はどのくらいいる?

 国道沿いの歩道を、自転車で走っていた中年女性が二人。ジャージ姿でランニング中の老人がひとり。反対車線で急ブレーキをかけた乗用車が三台。

 十人以上だ。

 もちろんみな、驚愕に目を丸くしている。

 超人少女。この日見た光景を彼らは一生忘れないだろう。

 止まっているカローラの窓から携帯電話が突き出されているのに気づいた。とっさに足元のアスファルトを蹴る。アスファルトの破片が吹っ飛ばされて空中を駆け、その携帯電話を粉砕する。

「べ、ベルタさんっ!?」

 祐樹が叫んで、駆け寄ってくる。

 彼の前に、びっと鋭く手を突き出した。

 近寄るな、という合図のつもりだった。

「え……ベ……」

「名前、黙って!」

 鋭い言葉を叩きつけた。さきほどまでとはまったく口調を変えている。口調だけでなく、いまベルタは素顔をさらしている。くりくりした瞳の目立つ幼い顔立ち、無造作に切ったショートカットという姿だ。

「あ……」

 祐樹は黙った。黙って、絶望のまなざしでベルタを見る。彼にはもちろんわかっているのだ。突然の別れがやってきたということが。

「お別れです」

「な、なんで!」

 わかっているはずなのに、祐樹が叫んだ。

「だって、まだ一緒にいられるって! さっきまであんなに楽しく……これから……マンガを読んでもらって……二人で……」

 言っているうちに声がしだいに小さくなり、とぎれた。彼の両目から涙があふれた。

「いかないで。いなくなったら、ぼくはもう一人じゃ何もできない。あいつらと戦う勇気もない。家に帰って母さんと顔をあわせるのもイヤだ。ぼくは……ぼくは、もう、あなたなしじゃ生きていけない。一緒にいて。ずっと、今日も、明日も、あさっても……」

 うるんだ祐樹の眼を見つめ、ベルタは言う。相変わらずの冷たい声を作って言う。

「それが無理だって、もちろんわかってますよね?」

 沈黙があった。祐樹の青ざめた顔が、頬が震える。笑顔を作ろうとして失敗したのだ、とわかった。

 たっぷり二、三秒間の沈黙ののち、祐樹は肩を落として答える。

「……うん。わかってる」

 ベルタはこわばった表情のまま、冷たい声のまま、早口でまくし立てた。

「はい。お別れです。楽しかったです。ほんとうに。この一週間のことを、わたしは絶対に忘れません。つらいとき、さびしいとき、必ず思い出します。わたしにも昔は友達がいたんだ、いじめられっこの泣き虫で、でも一緒にいるととても楽しかった。二人で歌を歌った。マンガの話をした。護身術を教えた。将来の夢を語った。そう思い出します。そしてそのたびに幸せな気分になります」

 そこで息を継いだ。早口なのは、ゆっくり時間をかけて喋ることに耐えられなかったから。時間をかけてしまったら、きっと途中で心変わりする。恐ろしかった。

「だから、おわかれです。ありがとう」

 最後にそれだけ言って、ベルタはその場から走り去る。

 一目散に、人間としてあり得る限界ギリギリの速度、オリンピック選手クラスの速度で車道を走り、クルマを避けて住宅地に飛びこむ。

 歯を食いしばり、拳を固く固く握りしめながら。

(これでよかったはず)

(ほかに方法はなかった。子供たちを死なせたくなかった。そして見られた以上、ここにはいられない)

(よかったはずなのに、こんなに胸が苦しい)

 目頭が熱くなった。あふれ出した涙のしずくが風に散った。

 

 7


 祐樹は、ふらつく足取りで町を歩いた。

 あの連中に呼び出された場所、国道沿いのファミリーマートについた。

 緑の看板を天高く掲げた、トラック運転手向けのコンビニだ。

 店舗自体より何倍も大きな駐車場がある。いまは乗用車が一台、それから大型スクーター・フュージョンが二台止まっているだけだ。

 あの連中は、フュージョンに腰かけて待っていた。

 一人は、相変わらず茶髪ロン毛で黒い革ジャンパー。

 もう一人は大柄な体、突き出した腹をヒップホップダンサーのようなゆったりした服に包んでいる。

「よう。久しぶりだなオイ!」

 ロン毛が片手をあげて叫んだ。

「最近おもしれーことやってるらしいじゃん。万引き謝るとか、いまさら何やってんの?」

「あの女に説教でもされたわけ?」

「親に泣きついたんだろ。助けてママーって」

 二人は祐樹の顔、頭のてっぺんから足の先まで見て、ケラケラ笑う。

「……」

 祐樹は無言だ。

 いろいろ考えてあった。まずは相手を呑む事、自分がその場の主導権を握ることが大事だと考えていた。だから相手が何かを言う前に、飛びかかって一撃を食らわすつもりだった。相手が武器を持っていたらこうする、他にも仲間を呼んでいたらこうする、などと作戦を練っていた。

 すべて先ほどのショックで頭の中から消えていた。

 頭の中は霞がかかったようにボンヤリして、まったくやる気がわいてこなかった。

 ロン毛と坊主頭の顔を見て、「こいつらと喧嘩……なんでそんなこと、しなくちゃいけないんだっけ?」などと考える。

(もうベルタさんもいないのに?)

 たとえ勝っても、こいつらからイジメを受けることがなくなったとしても、ベルタさんと一緒に過ごすことはできないのに。

「おい、黙ってねえで何か言えよ。ビビっちまったのか?」

 大柄坊主頭が野太い声で吼える。

 となりのロン毛も蔑みの眼で祐樹をにらみつけて言う。

「きのうの電話じゃ威勢よかったじゃん。『ぼくはお前たちの言うことなんてきかない』とか言っちゃってさ。お前のほうからケンカ売っといてそれはねーだろ?」

「なにもいわねーなら、いつもどおり『教育』してやるよ。自分が何なのか教えてやる」

 二人はフュージョンから降り、歩いてくる。構えることもゲンコツを握りしめることもなく、自然体で歩いてくる。この二人にとって、祐樹に暴力を振るうのは全く日常的なことなのだ。

 祐樹の全身が震えだした。『そうだイメージトレーニング』と思い出し、勝った光景を思い浮かべようとする。まるでできなかった。鼻血を吹いて泣きながらうずくまっている姿しかイメージできない。膝が笑い出した。

「ビビるなら、最初っからおとなしくしてろよ!」

 ロン毛が叫び、一気に駆けてきた。黒いレザーパンツに包まれた足を振り上げ、蹴り飛ばしてきた。腹に重いキックがめりこむ。胃袋の変形する音がゴボリと腹の中で弾ける。

「ぐへっ」

 うめいて祐樹は膝を突いた。頭の中はただひたすら『怖い怖い怖い』。立ちあがって反撃することなど思いもよらない。膝が、肩が、太腿が、全身の筋肉が反乱を起こし震えていた。

「どうすんだよ? どうオトシマエつけてくれんだよ? 謝ってくれんの?」

 頭の上にロン毛のブーツが乗

せられた。髪の毛がジャリと鳴る。恐怖に駆られてすぐに叫んだ。

「はっはいっ。ごめんなさいっ」

 考えるより先に、涙声の謝罪が口からこぼれた。

 イメージトレーニングも、護身術も、『長年かけて体に刻みこまれた恐怖』の前にはまったく無意味だったのだ。

「ありがとよっ」

 顔面に、頬にブーツを打ちこまれた。口の中に熱さが炸裂する。骨がゴリッと鳴る。アスファルトの上を体が回転し、仰向けに転がる。

 見上げると、そこに大柄坊主頭がいた。まるまると膨らんだ顔に残忍な笑みを浮かべて、言った。

「じゃあさー、言葉だけじゃなくて態度で示して欲しいんだけどさー。オレさー、こないだ駅前でバイク停めといたらメット盗まれたんだよ。マジムカつくよな。おまえならわかってくれるよな?」

「はっ、はい」

「オラッ」 

 坊主頭が腹にスニーカーを踏み下ろしてきた。内臓が圧迫され、胃袋がねじれる。意志とは無関係に、体が丸まろうとする。口から透明な胃液を吐き出す。

「汚ねェな、オイッ」

 太い眉を吊り上げ、坊主頭が顔面にキックを浴びせてきた。

「ごっごめんなさいっ」

「なんで抵抗するんだよ? これはイジメじゃないよな? オレとおまえは遊んでるんだよな?」

「はい……」

 弱々しく祐樹はうめく。涙が両のまぶたからあふれだして視界を歪める。

「わかってんなら、おとなしくつきあえっ」

 またしても二発、三発、腹にスニーカーが打ちこまれる。胃袋の変形する音がゴボリと腹の底で響いた。なんとか吐き気に耐える。四発目は顔面に降ってきた。鼻に激痛が弾け、熱い鼻血が鼻の中であふれ出し口に流れこむ。咳きこんだ。全身の筋肉が痙攣する。冷や汗が噴きだす。

「げふっ……ごふっ」

「汚いっていってんだろうがタコ!」

 坊主頭が足を持ち上げる。ズボンに血がついていた。祐樹の鼻血だ。

「てめえ、どうしてくれんだよ?」

 削岩機のようにキックが振り下ろされた。すべて腹に降ってくる。五発、十発。そのたびに呻いて体を折る。

 腹ばいになり、這いずって逃げようとする。

 指でアスファルトをひっかく。涙でかすんだ眼は、もう何も見えない。

「逃げらんねーっての。バカじゃねえの?」

 背後から坊主頭の野太い声がした。両足をつかまれた。背筋を寒気が駆け抜けた。脚をばたつかせたが、もう遅い。足首を思い切りひねられた。激痛に目を閉じ、顔をしかめてうめき声をもらす。

「ううっ……なんでなんだよ……どうして、ぼくがこんな目に……」

 目を閉じたまま、闇に向かって問いかける祐樹。一瞬の間があった。ロン毛の冷たい声が降ってくる。

「ハア? おまえ今さらなにいってんの?

 『世の中、そういうふうにできてる』からだよ。

 お前を殴って、オレらはストレスが消えて嬉しいわけよ。クラスのみんなだってそうだ。お前がこの一週間来ないから、みんなイライラして雰囲気悪くなってんだぜ。『異常』な奴を叩いてスッキリ、それが世の中のルールってもんだろ。学校も会社もそうだ」

 祐樹、全身から力が抜けるのを感じた。

「……そうだね」

 おもわず声が漏れた。きっと口元には疲れた笑みを浮かべていたはずだ。

(ずっと前から、わかってたはずじゃないか)

(どんなに逆らったって無駄なんだって)

(理由なんてない、脱出する方法もない)

(小学生のころから十年、もういい加減あきらめていい)

(火が燃えるように、物が落ちるように、日が沈むように、ぼくはいじめられる)

(そういうものなんだ)

 はあ、とため息をつく。

(このままあきらめて、おとなしく殴られよう)

(そうさ、ベルタさんがいたから、ちょっと勘違いしただけさ)

(ずっと目をつぶって我慢していればそれでいい)

(いつか誰かが、手加減を忘れてくれる。そうすれば楽になれる)

 アスファルトの上に伏せて、祐樹はまったく脱力した。

 ゴッ、ゴッ。背中に、後頭部にキックが降りそそいでくる。

 だがもう、悲鳴をあげる気にもなれない。

 どうでもいい、本当にどうでもいい。

 どうせ何をやってもダメなのだから。

 そのとき耳に、ロン毛の声がとびこんできた。

「なにこれ。マンガじゃん」

(え?)

 一瞬にして意識が覚醒した。

 目を見開く。体をよじって周囲を見回す。

 先ほど自分が落とした肩掛けカバンを、ロン毛が拾っていた。中から、マンガの原稿を取り出していた。

「お? なにそれ。見せて」

 坊主頭のほうも興味を示したらしい。ロン毛が坊主頭に原稿を渡す。

 坊主頭の噴き出す声がきこてきた。

「これ自分で描いたのかよー。暗い奴だとは思ってたけどさー」

「うわ、なにこれ、この女の絵、見てよ」

 ロン毛が原稿のうち一枚を手にとって、ペラペラと裏返してみる。クライマックスの場面だと祐樹には分かった。主人公がヒロインの言葉に助けられ、再び戦いを決意して立ち上がるシーンだ。

「えー。なになに。『だけど君がそこで見守ってくれるなら』オイオイなによこれ」

「願望なんじゃねーの。だれか女に助けてもらいたいって」

「キモーイ」

 エリが手を叩いて嘲笑する。

 胸の奥で、どす黒いものがわきおこった。

(なんなんだろう、これは)

「ほんと、キモチわりいよなあ。あんだけ殴られて、まだ自分がクズだってわかってねーのかな?」

「もしかして将来はマンガ家? とか思ってんじゃないの」

「プ。かもしんねー。できねーって。こんなクズゲンコーで」

 ビリビリと音がした。

(やぶった! 原稿を破った!)

 心臓が跳ねた。耳の奥で、血液が突進するドクドクという音。

 目を閉じて耐えていれば時間は過ぎていくと思っていた。 

 だが、目を閉じるなんてもうできない。

 腹ばいの姿勢で、精いっぱい首を持ち上げてロン毛を見上げる。にらみつける。

 ロン毛はちぎった原稿を何枚か投げ捨てる。祐樹の視線に気づいて、見下ろしてくる。

「は、なにその目? このマンガが大切だっての?」

 きいた瞬間、胸のうちにいくつもの台詞が、ベルタの台詞が蘇る。

『祐樹さんと同じなんです。はじめて、仲間に会えた』

『いっしょにいるだけですよ。祐樹さんが謝るときも。いじめっこと戦うときも』

『マンガ、ですか……今度みせてくださいよ』

 台詞ひとつひとつが胸の中で刃となって暴れまわる。ベルタの笑顔が、ふっくらした愛らしい顔立ちに微笑を浮かべて真正面から見つめてくれた彼女のことが、彼女と並んで歩いた楽しい日々が、脳裏で再生される。そのたびに胸がうずいた。知らず知らずのうちに拳を握りしめていた。

(ああ。そうか)

 理解した。この体のうちでたぎる思いはなんなのか。

 怒りだ。自分は怒っている。もう何年も怒ったことがないので、わからなかった。

(どんなに殴られてもよかった。どんなに馬鹿にされても、あきらめることができた)

(ぼく自身のことなら!)

(この原稿を馬鹿にされるのは、ベルタさんまで……)

「やめろ!」

 祐樹は、首筋が痛くなるほどに顔をあげる。ロン毛に向かって言葉を叩きつける。

 あっけにとられたロン毛、次の瞬間、噴きだす。

「プッ。お前、いまさら」

 ロン毛の言葉など聴くつもりはなかった。

 祐樹は、全力で脚を縮めた。「おっ」意表をつかれたのか、背後で大柄坊主頭がよろめく。そこで思いきり伸ばした。蹴りつけた。なにか柔らかいものに靴が命中する。

「げふっ!」

 大柄坊主頭がうめいて、手を離す。脚が自由になった。

 アスファルトに手をついて立ち上がる。

「やめろっていってるだろぉっ! うあああああああっ!」

 絶叫する。原稿を持ったまま下卑た笑みを浮かべているロン毛に、殴りかかった。

 さんざんベルタに教わった護身術は頭の中から消えていた。腕を大きく振った素人くさいパンチを放つ。ロン毛は驚いた顔になったが、しかし危なげない動きで祐樹のパンチをかわす。すばやく反撃してくる。皮のグローブに覆われた拳が飛んできて視界を埋める。

 重い衝撃が頬に生まれて顔面全体にひろがった。いつもと違って、殴られた瞬間に眼をつむることはなかった。のけぞった。上半身がぐらついた。それだけだった。倒れずに踏みとどまった。ロン毛が意外そうに片眉を上げる。

 祐樹自身も驚いていた。いままで、殴られたら泣いてうずくまることしかできなかった。

 だがいまは体の奥底から力がわいてくる。指の一本一本、頭の中、体の全てに熱気が充満している。痛みは感じない。

 すかさず祐樹は二発目のパンチを放つ。またかわされた。今度はロン毛がローキックを放ってきた。軸足を蹴り払われた。バランスが崩れた。膝を突いて倒れこむ。しかしそのとき無我夢中で伸ばした手が茶色く長い髪をつかんだ。全体重をかける。髪の引き抜かれる音がした。ロン毛が「ウッ」と悲鳴を漏らす。

 祐樹の心に高揚感が膨れ上がった。

(こいつらだって泣いたりビビったりするんだ。人間だ)

 相手がひるんだ瞬間、祐樹はまた突っこんだ。今度は腕など振りまわさなかった。何も考えず、ただ体中で渦巻くエネルギーに見をまかせて、頭から突進した。額のあたりに固くとがったものがぶつかった。頭蓋骨をつらぬく重い衝撃。顎に当たったのだ。

「ぐうっ」

 ロン毛がうめいて後ろに逃れようとする。茶色い髪をふりみだし、白い歯をむきだしている。いつもの祐樹ならその恐ろしげな姿だけで震え上がってしまっただろう。しかしいまの祐樹にはわかった。こいつは取り乱しているのだ。

(逃がさない)

 一気に腕を伸ばして組みついた。ちょうど祐樹の顔は相手の胸あたりだ。

「調子にのってんじゃねえ!」

 背後で怒声が炸裂する。祐樹の二倍もある太い腕が背後から伸びてきて、引きはがされた。

「あ……」

 背筋が寒くなる。興奮のあまり、もう一人の敵をすっかり忘れていた。

 いまや祐樹はまるで動けなかった。背後からまわされた片方の腕が胴体をすっぽり包んで拘束している。もう片方の腕が首を締めている。グローブのような大きな手が口をふさいでいる。

「もう逃げられねーぜ?」

 ロン毛が前方からボクシングのファイティングポーズをとって突進してくる。残像をともなってパンチが襲い掛かってくる。

 腹に、十発、二十発。胃袋がでんぐり返る。膝から力が抜けた。自分の意志を無視して、膝が勝手に折れる。

「泣いて謝れよ! オラッ」

(絶対にイヤだ!)

 祐樹、自分の口をふさいでいる手に噛みついた。ありったけの力を顎に入れる。

 血の味でいっぱいになっている口の中で、太い指が暴れる。噛んだ。噛みつづけた。骨がきしむ音がギリギリと頭にまで響いてくる。

「いでっ、いでででっ」

 耳元で坊主頭の声がする。

「離せよ! 離せよ!」

 声には焦りと恐怖が混じっていた。口の中から手を抜こうと暴れる。祐樹の足を踏みつけてくる。

 目の前のロン毛も祐樹を殴りつけ、頭をつかんで揺さぶってくる。

「離せってんだよ!」

 祐樹は噛むのをやめなかった。体の中の炎はいままで以上に燃えていた。飛び上がるほどの痛みが襲っているはずなのにまったく痛くなかった。どんなに殴られても蹴られても、腫れ上がったまぶたの下でロン毛をにらみ、ただひたすら、渾身の力をこめて指を噛んだ。

「わかったよ! 謝るから助けてくれよ!」

 背後からの声が一変した。哀願してくる。

 まだ祐樹は顎の力を緩めない。

「おねがいだよお、やめてえ!」

 背後から聞こえるその声が祐樹の意識を貫いた。

 涙声だ。泣いている。

(いつもぼくが泣いているのとそっくりだ)

 急速に意識が澄んだ。頭の中に充満していた暴力衝動がすっと消えてゆく。

 顎から力を抜いた。

 坊主頭が「ひいい」とわめいて祐樹の口から指を引き抜く。数歩あとずさる。

「お、おい大丈夫……」

 ロン毛が坊主頭のもとに駆け寄ろうとする。祐樹は彼に叫びを叩きつけた。

「謝れ! もう二度とぼくに近寄るな!」

 彼の足が止まる。血走った目を祐樹にむける。薄い唇が震えていた。祐樹は知っていた。怯えの表情だ。自分がいままで何万回となく浮かべてきた表情だ。

「わ、わかったよ……」

 背後を振り向く。そこにいた坊主頭は、祐樹がなにか言うまでもなく頭を下げて、わめく。

「悪かったよ! もうやらねえよっ」

「じゃあ、いけ!」

 祐樹は叫んで、路面を踏み鳴らした。二人は乱れた足並みで大型スクーターにまたがり、ヘルメットもせずに走り出す。

 スクーター二台は国道に飛び出す。エンジン音が遠ざかっていった。

 祐樹はあたりを見渡す。

 いじめっ子たち二人がいなくなったコンビニ駐車場は、やけに広く見えた。

 黒い池のようなアスファルトが広がっている。さきほど停まっていたトラックはもういない。クルマは一台もなかった。

 ただ、祐樹の落とした肩掛けカバンと、原稿と、破られた紙片だけがある。

 駆け寄って、風に舞う紙片をつかんだ。 

 紙片をかき集め、残った原稿を抱きしめる。一枚一枚をチェックする。

 破られたのはたった四枚だ。

「よかった……」 

 ほっとした。その瞬間、いままで麻痺していた痛覚が一気に襲ってきた。手足が、腹が、激痛を訴える。

 恐くなった。自分はあれだけの暴力を受けた。

(それなのに……なんで勝てたんだろう)

 不思議に思う。

 勝った、と呟く祐樹。どうして勝てたのだろう。

 この湧き上がってくるエネルギーはなんなのだろう。

 その場に腰をおろし、原稿に目を落とす。

 少年主人公の顔が目に飛び込んできた。

 これまで肝心なところで逃げてばかりだった主人公が、怪物を前にこう叫ぶのだ。

 気を失ったヒロインを抱きしめて。

『俺はもう逃げない。大切なものができたから』

(そうだ、簡単なことじゃないか。ぼくも同じだ)

(ベルタさんと過ごした短かったけれど楽しい想い出。笑いかけてくれたこと、二人でマンガの話をしたこと、甘いものを食べまくるベルタさんをぼくがからかったこと、ぷうっとふくれっ面になって怒るベルタさん、ぼくのマンガを読んで面白いといってくれたこと……)

 それだけは大切なんだ。

 ベルタはいなくなっても、心に刻まれた幸せは消えない。

 目頭が熱くなった。あれだけ殴られても泣かなかったのに、涙があふれて頬を伝った。

 祐樹は原稿を抱きしめ、天をあおいだ。

 雲ひとつない四月の青空を。

「……ぼくはもう逃げない。大切なものができたから」

 

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