[35]

 真壁がゆっくりとワイシャツの袖をまくり、腕時計に眼を落とす。

 時刻は午前0時半。

 沢村が欠伸をし、気の緩んだ顔になる。パイプ椅子に浅く腰掛け、自分の体重で崩れ落ちそうになるのを、床に突っ張った両足でかろうじて支えている。

 ひたすら苛立っていた真壁は沢村の面を張ってやりたい気持ちをぐっとこらえる。隣の小部屋で開渡係長や十係がこの様子をスピーカーで聞き、マジックミラー越しに見ているのは間違いなかった。昨日の乙女座の運勢は最悪だったなと思い出し、事件の構図を組み立てながら、真壁は話し出す。

「三谷透は知ってるか?」

「誰ですか、そいつ?」

「アンタと同じように、《ニューワールド企画》に出入りしてたヤク中の男だ」

 真壁は机の上に、逮捕時に撮影した三谷の顔写真を出した。

 沢村は写真を一瞥した。

「知りませんよ、こんな男」

「三谷はもうバラしてんだよ」

「・・・」

「三谷は1月23日、警官2人にナイフを突きつけようとして捕まってる。その時、三谷は事件の前日、17日の夜、《ニューワールド企画》にいて、アンタとある男と一緒だったと言ってるんだ」

「・・・」

「三谷がアンタと一緒にいたと話したのは、この男だ。誠龍会の若頭、岩城竜生」

 真壁は今度、岩城の顔写真を机の上に出す。

「三谷も岩城も知りませんや・・・」

「そんなはずはない。アンタは岩城を知ってるはずだ。アンタと岩城は付き合ってたとか話す人間もいるんだぞ」

「だとしたら、そうなんでしょうよ・・・」

 真壁は両手を組み合わせて身を乗り出し、低い声を出す。

「まだ死にたくないだろう?」

「急に、何だよ・・・」沢村は答えるのも面倒だというふうに呟いた。

「三谷は1月26日に撃たれて殺されてる。殺ったのは藤枝組のチンピラ2人組だ。岩城が命じたんだ。藤枝は誠龍会系だからな」

「・・・」

「そういえば、麻紀が死体で見つかったのは知ってるよな?アンタは麻紀が死んで悲しくないのか、え?どうなんだ?」

 すると、沢村は思いがけない反応をした。机の下で組んでいた手を揉み出す。髪を掻きむしる。ぼそりと「そんなこと知るかよ」とうそぶいた。

「事件当夜の話をしようか。諸井の頭部には3か所、傷があった。1つは後頭部。これは倒れた時にぶつけた傷だ。2つ目は頭頂部にあった蹴られた痕。3つ目は、右の耳の上。ここは腫れ上がっていて、明らかに人の拳で殴られた跡だ」

「・・・殴ったのも、蹴ったのも俺ですよ」

「アンタ、右利きだろう」

 津田はハッとする。思わず背筋を正した。

「左手で殴ったんだよ」

「ボクサーなら、それもあるのかもしれないな」真壁はうなづいた。「右利きの選手が左のジャブから入るのは普通だ」

「・・・」

「麻紀はアンタによりかかってた。そうだな?」

「そうだよ・・・」

「麻紀はアンタの左側にいたんだよな」

 沢村の答えは一瞬、遅れた。

「それは、麻紀を払いのけて・・・」

「そんなことしたら、麻紀が声を上げたかも知れない。クスリを打った時はいつも吐きそうになるんだろ?面倒なことは避けたいよな?だから、地面に吐かなかった。麻紀が声を上げるから。アンタはそう言ったよな?」

 沢村は虚を衝かれたように眼をしばたたいた。こめかみがぴくぴく震え、眼球がまるで犬のように逃げ出す。津田の方へ眼を移し、真壁の顔を見やる。

「死にたくないだろう?」

「どういうことだよ?」沢村の声は震えている。

 真壁はすっと身を引き、椅子に背中を押しつける。沢村に考えさせる時間を与えたようだった。津田はほとんど無意識に、部屋の温度がさらに上がったように感じた。

 2人とも無言のまま、5分ほどが過ぎる。津田は真壁の背中がかすかにうごめくのを感じた。またテーブルを叩くのか。沢村に掴みかかるのか。どちらしろ、今度は止めようと心に決めていた。沢村は顔面が蒼白になっていた。ほとんど息も出来ないように見える。

「アンタ、このままだと死ぬぞ」

「さっきから、何だよ・・・」

「アンタの証言は信用ならんから、明日の朝一番で釈放しようと思う。出迎えには岩城を呼ぶか?」

「いやだ、いやだ!」沢村は突然、両腕で頭を抱えた。「俺は死にたくない!」

 真壁が椅子から立ち上がる。

「岩城だ!岩城が諸井を殴って殺したんだ!」

「本当のことを話すのが、ちょっと遅かったな」

 真壁は取調室を出た。沢村が悲鳴を上げた。

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