アルバルト・トロイメライ

 青年を見送った本棚の端で、少女は離れた姿見に映り込んだまま絵のように動かなかった。


 どれくらいそうしていたのか、明るくなったり暗くなったりをくり返す魔晶石の明滅は間隔を短くしていた。

 姿見のすぐ近くの本棚と壁の間からばきばきと関節の鳴る音と、つるを引き絞るような軋みが聞こえてくる。

 昨夜、〈吸魂の書〉があった場所で魔晶石が砕け散る。

 それを最後に本棚の一角を残して照明が安定した。

 正しい場所から外された〈吸魂の書〉は、少し離れた同じ書架の中にいまだある。そこから、影が生まれ落ちた。


 かり 

     かり かり かり

         かり かり かり かり


 ゆっくりとミンシカは首をめぐらす。

 尖った先端がかたいものを引っかく、せわしない音をたてながら、黒い影が本棚の上に姿をあらわにした。

 

「蟻」とかいう虫に似ている、と無感動に少女は思った。


 巨大な体を書架二つにまたいで、黒光りする腹を横たえている。腹から伸びた8本の脚の先は鋭く尖り、本棚を器用につかんで体を支えていた。

 虫の腹からは人の上半身が生えていた。


「ぉお……おおぉ……おぉおおおぉぉぉおおおおお」


 古びた包帯に覆われた性別不明の人体が顔を突き出し、くぐもった唸り声をあげる。

 産声なのか、苦しんでいるのか、もだえながら頭から尾部の先までが振動した。


「ったくもぅ、害虫ギンチョロの退治はあたしの役回りじゃないのに。予定じゃ生まれるのはまだ数百年先のはずでしょう?」


 顔をしかめるミンシカの前で、本棚を足蹴にして「虫」が跳ねた。別の書架に飛び移り、ミンシカとの距離を詰める。

 続けざまに本棚が倒れ、重い地響きを立てた。


「あたしの城で勝手な真似しないで」


 怒りにミンシカの髪がわずかに湧きたち、視線の先で魔法を解放する。

「虫」のような魔物の腹の下、本棚を避けて軟化させた地面がいっせいに、柱のように長大な棘を生み出し標的をくし刺しにする。

 はずだった。

 直前にミンシカの背後から3体の青い影が飛び出した。図書塔のもうひとつの防御機能である合成獣が、生成された魔法を中和して食らい出す。

「ちょっと、あんたたち!! じゃましないでっ!!」

 ミンシカは舌打ちした。

(ここじゃ、魔法が使えないっ)

 バールに見せた魔法、バールが大量の魔力を使った魔法、ミンシカの火炎球は特に防御機能を上回る出力だったことを思い出す。

 いら立つミンシカの足元に弾むように合成獣の頭部が転がった。

「!」


「虫」は長い脚で貫いた獣を掲げて、包帯に覆われた顔面をかしげていた。やがて手で口元の包帯をむしり取ると露わになったただれた穴で、鱗や骨格をものともせず合成獣の体に口をつけすすり始める。獣の四肢は次第に細く長くなっていき、口の蠕動ぜんどうに合わせじょじょに飲み込まれていった。

「まだ食べる気なの……この」

『化け物』という言葉を飲み込むミンシカ。

(それを言ったら、あたしだって……。まだ上に人間がいるしバールも外に出てないだろうし、こいつをこのまま見張るしかないってわけ)


「ィイイ」


 1体を飲み込んだ「虫」の体に、異変が生じた。真下では、残りの青い獣たちが自動的な機能に任せてミンシカの魔法を食べている。

 穴のようだった「虫」の口に白い歯が生えそろう。

 同時に腹から新たな黒い脚が生まれ、即座にしなると足元の2体を絡め取った。そのまま黒い腹に引きずり込む。


 もがく獣たちが底なし沼のようなぬかるみに沈み行くのを、じっと見つめるミンシカの耳に、「虫」の声が鳴り止まず響いている。

 やがて音は変化した。


「ィィアァ……ア……ゥア……タシ、ハ……レダ……」

「?」

「……ワタシ……ハ……ダレ……ダ……ワカ……ラナイ……ワ」

「しらないわ、そんなこと」

「…………ワタシヲ、シッテイタ、ナ……オマエ……ハ……シッテイル」

「あんたがつくられたものだってことは、知ってる」


 とたんに魔物の腹が煮えたぎるように沸騰した。表面に生じる無数の突起の数だけしなる黒い脚が飛び出し、ミンシカに襲いかかる。

 削ぎ落ちる音が重なった。

 地面に転がったのは「虫」の脚だった。思わぬ反撃を受けた魔物がためらうように動きを止める。

 黒い檻の中心に腕を交差させた少女がたたずむ。黒衣の長袖はいまや手と一体となり両手に十指の長大な爪を生み出している。

 生体強化と呼ばれる付与魔法の一種––––––直接的な放出系の攻撃魔法とは異なり、合成獣の感知から外れる。図書塔では基本的に付与魔法しか使ってはいけないとされる所以だった。


「肉弾戦って、きらい」


「オマエノキオクヲヨコセ」

「あんたもきらい」


 火花が散った。

 地面を砕くように踏み切り、強化脚の回し蹴りで黒い触手の向きをそらして、一気に黒爪で叩っ切る。

(そろそろ魔法が使える……)

 すべての触手が切り落とされた瞬間、魔物はしなる脚と同じ勢いでミンシカめがけ飛びかかった。魔物の体の中心めがけ少女は重力がかかるように命じる。


 手応えはむなしく、ミンシカの身体が「虫」に組み敷かれた。


「あれ?……」


 目の前に包帯の顔が近づき、歯をむいた。


「アトハ……キオクダケダ」


 不可解な言葉の意味に気づくミンシカの顔が、驚きと恐怖にひきつる。

「い……や! いや、いやっいやァア!! なんなの、どうしてこんなっ……返せっ!返してよっ!! あたしの、あたしの、っあんたのじゃない!!っ……だから図書館から先に奪うつもりなのっ? なにもできなくしてあたしを食べ、」

「オマエノキオクデオマエニナル」

 決定事項のように告げられる絶望的な言葉に、ミンシカの表情が歪んでいく。黒い爪が塵となって空中にはがれていく。図書塔に渦巻く魔力にとけてどこまでも感じられた意識を断たれ、ミンシカは無力になっていった。

(なにも感じない……感覚がない……)

 この身体だけになってしまう。ひとりぼっちになってしまう。

(こんなやつに……こんなかたちで……きえてく……でも……これで、いいのかも)

 人の両手で魔物が包帯を引き裂き、よどんだ瞳孔のない目をさらす。光りを映さない血色の目がミンシカの視線に重ねられた。

 記憶さえもこれから奪われる。

 見開かれた少女の赤い瞳からひとすじ、涙の粒が落ちた。


「 《縮地移動モールドゥース》 」


 生真面目そうな声が聞こえた瞬間、目の前にあった「虫」の巨体が、飛ぶように真横の通路の彼方へ強引に吸い込まれていった。

 奥の方から何かが壊れる鈍い音が聞こえる。


 乱れた足音がミンシカに向かって走ってくる。

「ミンシカっ!」

 呆然としている少女の様子を見てとると、バールは粉袋を背負う要領でミンシカを担ぎ上げた。

「バールっ!?」

「あっちの階段はもう使えないから、他のを探す。逃げるよ、舌を噛まないようにして」




 ––––––やっぱり引き返そう。


 とバーレイ・アレクシアが思ったのは、すぐ上の召喚術の書架にさしかかった時だった。

 照明が急に暗くなったことをどう考えても楽観視できず、それを「だいじょうぶ」だと少女が言ったことが納得できないでいた。


(相手を信じることと、言ってることを信じるのは違うんだよね。気になったことはちゃんと気にしないと、あとでだいたい痛い目みるからな)

 それはアレクシア家の商売における家訓でもある。「違和感は追求すべし」は「考えてやっているうちは身についていない」「無意識にやるな」と並んで三大標語に入る。

 そんなバールの目に召喚術の棚をさまよう上級生の姿が映った。

「あれ?」

 思わず声が出た。

「ん? すまない、知り合いかな?」

 まっすぐな受け答えとまなざし。

「いえ、話すのは初めてです。おれはバーレイ・アレクシア。以前に子爵のことを召喚術の講義で見かけました」

「そうか。あらためてアルバルト・トロイメライだ。よろしくバーレイ」

「あ、バールでいいです。アル……ト先輩はここで探しものですか?」

「みんなアットと呼ぶよ。うーん、本が見つからないんだよ」

 子爵の相談にバールは進んで乗ることにした。


「そうか、きみはレオン・マクシミリアンに弟子入りしたのか。……なんというかすごいね。こう言ってはあまりよくないかもしれないけど、召喚魔法はあの人をおいて本格的に取り組む講師はいないと聞いているよ。なのに人ぎらいで講義をあまりしないことでも有名だ。このあいだの講義で能力の高い者しか相手にする気がないと思ったんだけど、どうやら違うようだね。弟子のきみから見て彼の講義は厳しくはないのかい?」

 話しながら本の背表紙を目で追うアットに、バールはのんびりついていく。

「うーん、厳しく見えたとしたら、それはおれにというより魔術を扱う人間に対して厳しいんだと思います。魔法は危険な力だから厳しくていいとおれは思います」

「真面目だね」

「師匠の影響ですかね」

「あ、これだ。ありがとう見つかったよ。近現代書と違って、書名順だったんだな。恥ずかしいね、勉強になったよ」

「見つかってよかった」

「僕はもう戻るが……」

「おれは用事を思い出したんで、ちょっと行って来ます」

「またいずれ」


 今さら戻ったところで当然ミンシカはいないだろうし、死霊に遭遇する確率の方が高い気もする(いい加減、腹も減っていた)。ただ、もう一度見れば違和感の正体、さっきは気づかなかった何かがわかるかもしれない。何事もなければそれでいいと思った。

 そこでバールは魔物とにらみ合うミンシカの姿を目の当たりにすることになる。


 視界の先で起こっている光景が、なんなのかさっぱりつかめない。

 急変した事態の手がかりを探そうと、目を走らせたバールはミンシカの足元に転がる、青い合成獣の頭を見つけた。

 緊急事態だ。

 頭部の意味するところを正確に把握したわけじゃない、死霊術の棚は一時的に魔法が制限されてる状態だということ、図書塔の防御機能が負けたという事実に、魔術士にとって不利な状況だと理解する。その場から離れる必要がある。

 でも、自分に何ができるというのか、時間も能力もない、どこまで損害を出していいか、何を守るべきか、できることと、それが現実的に可能か全神経が注がれた。

(生身のおれじゃ役に立たない。使えるのは空間転移だけだ。だけど魔法陣が書けても誘導は? 無理だ、手間はかけられない。あとはどんな魔法を知ってる? 火や水は発動しない、縮地移動は見たことがある……それで、事態を変えられるか?)

 バールはミンシカの姿がギリギリ目に入る離れた位置まで移動した。

(ミンシカだけ引き寄せて、気づかれないうちに階段で上に逃げて身を隠す)

 黒爪をふるって戦う少女に見とれるひまもないまま、あざやかに舞うミンシカに手をかざし意識を集める。

 やるしかなかった。

(おれが願いそのもので、ミンシカの周りは魔法が生まれやすくなってる)

 ほんのわずかでも疑えば魔法は成立しない。そう考えただけで、想像イメージが乱れた。

(他のことを考えるな。前に進むんだ、想像を前進させろ、おれは今なにをしようとしている)

 戦うミンシカの姿があった。体格の差にもひるむことのない気迫と背すじを、小さな女の子がもっている。

(ここで彼女を失うわけにはいかない)

 バールは願いと一つとなった自身の魔力––––––魔法を意識にとらえた。


 その時、優勢に見えた立場が逆転し倒されたミンシカが魔物にのしかかられた。ミンシカのいる空間ごと引き寄せれば、押さえ込んでいる魔物もいっしょにくっついて来る!

 バールは少し動いて本棚の陰に移動し、身を乗り出すようにして回廊に手をつき出した。


「 《縮地移動モールドゥース》 」


 お客様出口はあちらです。と誘導するように、やって来た通路の後方へと手を差し伸べるバールの前髪をかすって、曲線カーブする回廊を限界まで引っぱったゴムが戻るように、目にも止まらぬ速さで魔物が滑っていった。

 入れ違うようにミンシカに向かって全力で走る。背後では回廊の先にある階段にぶつかる鈍い音と、瓦解する建造物の地響きがした。

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