025 忘れらんねえよ

『寂しい』『辛いな』『悲しいよ』『みんなどうせ僕を忘れるんだ』『嘘っぱちの友情だった』『誰も本気で僕と向き合ってくれた事なんてない』『全部忘れるんだ』『忘れられるんだ』『じゃあなんで』『なんで僕は生まれてきたんだ』『どうして生きていたんだ』『憎い』『苦しい』『最初から生まれない方がよかった』『こんなに悲しい思いをするぐらいなら』『こんなに寂しい思いをするぐらいなら』『全部何もなかったみたいに忘れられるんだ』『嫌だ』『そんなのあんまりにも虚しすぎる』『生きていた証が欲しい』『誰か、もう一度だけ僕を見てよ』『僕は此処にいるよ』『たったひとりだけでいい』『誰か、僕を憶えていてよ!』


——まもなく月光ステーション、月光ステーション。降り口は左側です。未練のございます方、悲しみ・憎しみ・苦しみ等負の感情をお持ちの方は、お降りください。



✳︎✳︎✳︎


気付くとそこは、境内横の岩の上だった。俺は冷たい岩の上に横たわったまま、乱れた呼吸を整えた。アルファルドは、その場に立ち上がったまま、虚ろな目で俺を見下ろしたまま、口を閉ざしたまま、俺の心の中に語りかけて来た。


“……ねェ、八鹿。ボク達はズット、友達ダヨネ”


どんな言葉よりも、その言葉は重たく俺の心に圧力をかけた。彼がこれまでたったのひとりぼっちで受け止めてきた孤独。その細く、青白い、小さな体で、真正面から受け止めてきた、幾つもの痛み。俺は、体を起こしてアルファルドと向かい合った。


“ねェ、八鹿は、ボクとズット一緒に居テくれるヨネ”


アルファルドの孤独を受け止めるにはどうしたらいいんだ。俺は何も言葉にすることができなかった。彼の悲しみの全てを知ってしまった以上、俺は軽々しく、友達だなんて言ってやれなかった。そんな言葉は、ただの慰めにしかならない。でも、じゃあ、どうしてやればいいんだ。


“八鹿ハ、ボクをひとりぼっちにナンカしなイヨネ”


そう呟いた途端、アルファルドの足元から、植物の根が物凄い速さで地を這った。それは、俺達の立つ岩の上を掴むように広がって、俺の足元にも絡み付いた。根はアルファルドの体に巻きつくように幹を張り、幹は次第に枝を広げ、ひとつの大きな木になった。まるでアルファルドが一本の木と同化したようだった。アルファルドは細い両手を広げて身体に絡みついた木の中で言った。


“さァ、八鹿! モウこんな醜イ世界のコトは忘レテ、ボクと一緒二永遠ノ眠リニツコウ! 今コソ、百年ノ孤独を終ワラセル時ナンダ!”


俺の右足に絡みついた根が、少しずつ、太ももへと這うように伸びてくる。どうしたらいいんだ。俺は、俺は……!


その時だった。青白い光が尾を引いて地を走り、足元で弾けるように光ったかと思うと、右足に絡みついた根があっという間に朽ち果てた。光の消滅した安っぽいBB弾が岩の上をコロコロと滑り落ちていく。



「八鹿、そいつから離れろ!」



それは聞き慣れた声だった。月光を受けて、耳元で緑色のピアスがきらりと輝いた。


「木津……! どうして、ここが……?」


木津の後ろではみずたまとスピカもいた。二人とも物凄い剣幕で構えをとっている。スピカが白いレースを揺らしながら、一歩前へと歩み出た。


「魂の共鳴するほうへ、辿って来たのです!」

「八鹿、そいつはステラだ! 危険だから早く!」


木津は俺の元へと走り寄って、めいっぱいに手を伸ばした。そういえばこいつは、いつかもそうやって、自分の身の危険も顧みずに俺の事を助け出そうとしたな。でも、この手を取れば、俺はアルファルドを裏切る事になる。俺の悲しみを理解してくれた、一緒に悲しんでくれた、大事な友達を、ひとりぼっちで苦しんでいる俺の大事な友達を、見捨てる事なんて、俺にはできない。


差し伸べられた手を俺は払って、木津に背中を向けた。


「おい、八鹿!」

「木津……悪いが、俺はこいつを独りにはしきらん」

「何言ってんだあんた!」


背後で木津が怒鳴りつける。アルファルドが、虚ろな瞳で俺を捉えて離さない。おそらく、根はアルファルドの負の感情を根源として蠢いている。朽ちた根はみるみる再生して、再び俺の足元に絡みついた。


「こいつは! ずっとひとりぼっちやったっちゃん! ベッドの上で、植物状態で、何も出来んまま、ただ呼吸だけを繰り返して! 百年にも感じる長い時間を、たったのひとりで生きてきたっちゃん!」


根が、両足に巻きついて、太もも、腰、腹、胸まで登ってくる。螺旋を描くような根の、あまりにも強いその締め付けに、俺は思わずうめき声を漏らしたが、こんな痛みが何だってんだ。細かった根は、俺の負の感情を養分として吸い取り、みるみるうちに幹のように太くなっていった。根が太くなればなる程、俺の呼吸は苦しくなり、だけど、頭がぼうっとして少し気持ちが良かった。


「だからってあんたが犠牲になるなんて——」

「木津は! こいつが今までどれだけ寂しい思いをしてきたか知らんけん! だけんそげん事が言えるったい!」

「八鹿……」


別に、俺はこの世界に何の未練なんて残っちゃいなかった。俺が居なくなったって、嫁も娘も、職場の人間だって、俺のことなんか忘れて勝手に生きていくだろう。だったら俺に今出来ることと言えば、目の前で悲しんでいるたったひとりの友達と、ずっと一緒に居てやることぐらいだろう。


「……俺はただ、こいつの一番の友達になってやりたいだけなんよ」


みしみしと、幹が太くなり俺の太ももや腹や胸や腕に喰い込んでいく。それは俺の悲しみの数だけ。それは俺の苦しみの数だけ。ぶくぶくと太っていく幹の中で、意識が少しずつ遠のいていく。 その根はついに顔にまで伸び、視界を遮ろうとした。


薄れゆく意識の中で目の前のアルファルドを俺は見据えた。アルファルドの方が根の侵食が早く、負の感情という養分を吸収して、みるみるうちにそれは大樹へと成長した。アルファルドは最後まで俺を虚ろな瞳で見ていた。俺が手を伸ばす間もなく、硬直した表情のまま、アルファルドは大樹へと飲まれていった。


なあ、安心しろよ、アルファルド。いや、奏。俺は、あいつらみたいに、お前さんの側からいなくなったりはしないさ。俺はさ、あんな孤独な路地の片隅で、お前さんの一粒の輝きに、本当に救われたんだ。もうダメだと思った。酒で何度も誤魔化してきた感情を、たったひとり、お前さんだけが認めてくれたんだよ。だから、俺だって、少しでもあんたの力になってやりたかったんだ。ああ、でもただひとつだけ、後悔があるとするなら『うなぎのねどこ』の太刀魚の刺身を、お前さんにも食べさせてやりたかったよ。


意識は更に遠のく。根は、頬を伝い、こめかみにまで伸びて、いよいよ視界を塞ごうとしたその時だった。



「友達なら、尚更だ」



こいつは、こんなに大人びた声だっただろうか。 やけに落ち着いた声で、低いトーンで、木津は諭すように俺に言った。


「傷を舐めあって、依存し合って、お互いが堕ちていくだけの関係なんか、そんなの友達でもなんでもない!」


あんなに怖がりで、臆病者だと思っていた木津が、凛とした声で言う。不思議だな。きっと、こいつは全部分かっているんだ。木津が一発目に放った銃弾で、絡まる根はいとも簡単に朽ち果てた。だから今、あの銃を乱射して俺をここから救い出すことぐらい簡単なことなんだろう。それを解っていて、それでも木津は敢えてそうはしなかった。俺が、俺自身が選択しないと意味がないからだ。


「あんたは生きている。どんな悲しみや苦しみを背負っているかなんておれには想像も付かないけど、それでも這いつくばってでも生きている。そこに居るステラがもし、計り知れないぐらいの孤独を抱えていて、どうしようもないぐらいの負の感情に塗れていて、今もこうして悲しみのままに、この世界を彷徨っているんなら、今確かに此処に生きてるあんたにしか出来ない事があるんじゃないのか!」


此処に生きている俺にしか出来ないこと?朦朧とする意識の中で、俺は塞がりそうな視線の先の、大きく伸びきったその木を見つめた。青々とした、天にも届きそうなぐらいの、大きな、それは立派な大樹だった。奏。お前、そこにいるのか。悲しみに絡め取られたまま、今もそこで、負の感情にに押し潰されて苦しんでいるというのか。


「……おれは、あんたに、おれと同じ後悔をして欲しくないんだ。本当の友達なら……本当の友達のあんたにしか言えないことがあるはずだ、そうだろう!」


根の喰いこむ腕に俺は力を入れた。傷を舐め合う以外に、共感しあう以外に、俺に出来ることが、本当にあるってんなら、それはきっと。


「目を醒ませ、八鹿!」


はっとして、俺は叫んだ。



「忘れない、絶対にだ!」



俺は大粒の涙をぼろぼろと零していた。喉にまで張った根が、ミシッと音を立てる。俺は息が出来なくなって苦しくなって思わず咳き込んだが、声が掠れて震えたが、それでも叫ぶことを止めなかった。


「奏が俺の悲しみに寄り添ってくれたこと! 俺が奏の悲しみに触れたこと! 彷徨った路地の中で! いつまでん続く階段の途中で! 深い深い闇の中で! 奏は俺の心ば照らしてくれた! ボヤけた視界の先を、鮮やかに魅せてくれた!」


俺の言葉を聞いた途端、奏の木が、枝を伸ばして苦しそうに暴れた。鞭を打つように、枝は地面を叩きつけ、台風に煽られるように木の葉が舞った。苦しいよな。悲しいよな。ごめんな。だけど、俺はこうしないといけないんだ。


「たとえこの世界が嘘や偽りや欲望なんかであふれかえっとろうが、他人の事さえ思いやれんような汚い言葉であふれかえっとろうが! それでも俺のこの感情だけは、絶対に偽物なんかや無か!」


木津も、みずたまも、スピカも、何もしないでいてくれた。俺にしか出来ないことなんだ。そうだ。友達の俺にしか、言えない言葉なんだ。


「奏! 聞いてくれ! 信じてくれ!」


目の前で暴れていた大樹が、ピタッと動きを止めた。俺は最後の力を振り絞って叫んだ。


「世界中の誰もがお前の事を忘れ去ったとしても! 俺は、俺だけは! お前の事を絶対に忘れたりなんかせん!」


視界が真っ暗闇に包まれるその刹那、きらりと一粒の光が俺の胸を貫いた。それはあの時と同じような、希望に満ち溢れた淡い綺麗な輝きだった。俺は思わず眩しくて目を閉じた。


体がふっと軽くなる。そっと瞳を開けると俺を蝕む植物の根は次第にスルスルと地に還り、俺の拘束を解いた。俺はその場に倒れ込み咳き込んだ。


目の前の奏の大樹もやがて、大きな振動と共に岩山に沈みゆき、絡め取った奏の体を解放する。奏はその場にぐったりと倒れ込んだ。俺は奏の元へ走り、その細く青白い体を力の限り抱きしめた。


“……八鹿、最後ノ最後デ、手を抜いタデショ”


奏は虚ろな目で俺を見上げた。弱々しい声で俺の心の中に語りかける。


“ボクと八鹿のドッチが先に閃光寺に辿り着ケルカ、勝負をした時の事ダヨ。本当ハその時カラ分かってタンだ、君がどれダケ優シクて、どれだけ僕の事を想ッテくれていタカ”


なんだよ。ばればれだったのか。やっぱりこいつには全部見透かされているみたいだ。大粒の涙が奏に落ちて、血管のような茎から伸びた蕾を揺らした。


“ゴメンね。八鹿トイる内に、とっクニ僕の孤独という感情ハ浄化されテイタんだヨ。ダケド、どうしテモ、離れがたくなっチャッタンダ”

「……奏、もう良い。分かっとる。全部分かっとるけん」


最後の力を振り絞って、奏は手を伸ばした。冷たい、粘土みたいに固い手が、俺の頬の涙をぬぐった。


“ボクを救ってくれたミタイニ、ドウカ神様のコトも救ってアゲテネ”

「……神、様?」

“そうダヨ。神様ハ、月光ステーションのモット先ノ『記憶の海』とイウ場所デ、今も溺れ苦シンでイル。キミの大事なお友達トナラ、キット……”


奏は言葉に詰まって、苦しそうに呼吸をした。もう喋らなくていい。早く楽にしてあげたい。俺は涙を拭って、スピカを振り向いた。スピカは、頷き、俺の横に膝をついた。白いレースをなびかせ、両手を広げたかと思うと自分の胸の前でそっと手を合わせる。


「……スピカ」


それは、彼女が月光の魔法をかける時の仕草だった。スピカの細い指の隙間から、少しずつ青白い光が零れる。そうだ、月光の魔法だ。


「私の名もなき感情が、こうしろと叫んでいるのです」


静かにそっと呟くと、スピカはその月光を俺の腕の中の奏にかざした。


その時だった。蔓延る血管みたいな茎が、その先の蕾を目掛けて波打つように輝いた。光が蕾に到達すると、それは柔らかい花弁を濡らしながら、真っ直ぐに咲いた。


青い綺麗な花だった。花は奏の白い肌の上で、まるで悲しみを覆い尽くすかのように咲き乱れた。


月光に溶けるように、次第にそれはきらきらと輝きだした。奏の細い体の感覚が無くなって、俺ははっとした。すり抜ける腕。その空虚を俺は抱きしめ続けた。


「待ってくれ、なあ、奏! まだ話したい事がいっぱいあるっちゃん! メシにだって行く約束したろ! それに——!」


「八鹿」


はじめてだった。意識を取り戻したように、ずっと硬直していたその表情を柔らかく砕き、奏は顔をぐしゃぐしゃにして、困ったように笑ってみせた。


「僕と友達になってくれて、本当にありがとう」


ふわり。優しく風が吹いて、奏はきらきらと光を放った。それは美しい、輝きだった。


「当たり前くさ。約束は約束やけんな。俺はずっと、奏の友達で居り続けるよ」


その言葉を聞くと、奏は幸せそうに笑って、月の明かりに溶けていった。

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