016 ゴミ屋敷の少女

何千体ものステラとの死闘を潜り抜けたおれ達は、休む間もなくスピカの言う「魂が共鳴する」ほうへと駆け抜けた。2号線沿いをしばらく真っ直ぐと走る。向かいの島の造船所の鉄を打つ音も今夜は聞こえない。細い海には、島を繋ぐ大きな橋がかかり、その下でみなもが月明かりに照らされ静かに揺らめいていた。目の前を青白く発光するレースがはためく。知らないはずなのに、なんだか懐かしさを感じる後ろ姿。スピカはかかとの高い不安定なロッキン・ホース・バレリーナを鳴らしながら、躊躇なく夜の闇を切り裂いていく。その姿はまるで流星のようだった。


海沿いの古民家の前でスピカは足を止めた。木造の倒壊寸前の古い長屋。しおかぜ街には空き家が多いが、ここまで劣化した家はなかなか無かった。壁は所々はがれ落ち、排気ガスで黒ずみ、選挙や怪しげな金融機関のポスターが無秩序に貼られていた。傍に停めてある三輪車は潮風に晒されてひどく錆びており、蔦の葉が巻きついていた。


「……この場所から強い魂の共鳴を感じます」

「廃屋ばってん、こげな所にステラのおるとか?」


スピカは頷き、玄関の戸に手を掛けた。鍵は開いていた。ガラガラと立て付きの悪い戸をスピカが開けたその瞬間、おれ達は思わず鼻を摘んだ。腐敗臭だ。ツンとした匂いが鼻から目に向かって走り、目に涙が溜まる。


「木津くん、このお家、ゴミだらけだよ……」


目を凝らして玄関の先を見た。家の中は薄暗くてよく見えないが、溢れんばかりのゴミ袋が家の中に散乱しているのが分かった。そんなことはお構い無しに、家の中へと進もうとするスピカの手を、おれは咄嗟に掴んだ。


「ちょ、ちょっと待てよ。何があるかも分かんねえんあだから、そんな無用心に……」

「それでも行かなければならないのです。私の中で眠る名もない感情が、魂が、そうしろと叫んでいるのです」


スピカはまっすぐな瞳でおれ達を見つめた。潮風が真っ黒な美しいその髪を揺らす。ああ、まただ。おれはあまりにも歪みないその存在に、大切な何かを思い出しそうになる。掴んだ手をそっと離すと、スピカは真っ白のロリータ姿が汚れるのも気にしないで、ずかずかと長屋の奥へと進んでいった。


仕方なく、おれ達もスピカの後に続いた。正直、こういうのは一番の苦手分野だった。足の踏み場もないゴミ屋敷。吐き気がこみ上げる胸をひと撫でして、深呼吸をしてからおれ達は慎重に暗闇の中へと進んだ。


袖で口元を押さえ、出来るだけ浅く呼吸をする。それにしても、酷いなこれは。死体でも見つかるんじゃないかと思うぐらいの腐敗臭だ。こんなところに、本当にステラがいるってのか?玄関をなんとか潜り、台所へと足を進める。何かを踏んだ。血の気が引いていく。黒い虫のようなものがカサカサと四隅に逃げた。みずたまが悲鳴をあげる。


「お、おれやっぱ無理だ! これ以上は無理、絶対無理! もうダメ帰りたい!」

「今さっき! 足元! カサカサって! ねえ木津くん! カサカサって!」

「二人ばおんぶと抱っこして連れてっても良かばってん、どげんすっか?」

「……あたし、おんぶがいい」


八鹿のおっさんに抱っこされる姿を想像して、もっと気持ち悪くなっておれは首を振った。込み上げる吐き気をなんとか抑えながら、一歩、また一歩、確実に足の踏み場を探しながらスピカの後を追う。足元からカビの胞子が舞い上がるような気がする。身体の端からどんどん緑色になって腐っていく気がする。落ち着け。そんな筈はない。ゆっくり呼吸をしろ。


古びた冷蔵庫、食器棚、電話台。昔、確かに此処で誰かが生活していたのだろう。どのぐらい昔の事かは分からないが、それにしてもこんなにもゴミが散乱しているだなんて。足の折れた椅子、煤けた発泡スチロール、割れたブラウン管のテレビ、壊れた湿度計、針のない時計、ふやけた段ボール。不安定に積まれたガラクタたちの間を掻い潜り、おれ達は台所の横の六畳間へと到達した。


先に六畳間に入っていたスピカは、何かを見つめてじっと立ち尽くしていた。おれ達は後ろからその視線の先を覗き込んだ。


「これは……」


スピカがじっと見つめていたのは、写真だった。ゴミだらけの四畳半の壁に、その写真は一枚だけ綺麗に飾られていた。まるで埋もれまいと、必死にもがき、ゴミ山の中から這い出ているようだった。写真には、白髪のおじいさんと三つ編みを小さく結わった小学生ぐらいの女の子が映っている。背景にはメリーゴーランド。遊園地で撮ったのだろうか。鼻の低い、そばかすの女の子は、前歯の一本抜けた口を思い切り開き、満面の笑みでおじいさんの手を握っていた。この雰囲気、どこかで。


「木津くん、これ、この子の名前かな」


みずたまが写真の右下を優しくなぞって埃を拭った。相合傘の落書き。お世辞にも綺麗とは言えない歪な字で、傘の中にはおじいさんと少女と思われる名前が書かれていた。覚えたての漢字。マジックペンで、潰れないように大きな字で。名前。そうだ、きっとこの子の名前だ。なんとなく、おれはその名前を言葉にしなければならないような気がした。壊れないように、滲んでしまわないように、おれは丁寧に発音した。


「水原、香夏子」


おれが名前を読み上げた瞬間だった。視界がぐらりと歪んだ。


「足元ばみんしゃい!」


八鹿の叫び声にはっとした。視界にゴミ山が広がっていく。いや、違う。ぬるりとした感覚がおれの足元を捕えた。まるで底なし沼か、蟻地獄の上にでも立っているかのような気持ち悪さだった。ゴミが広がっているのではなく、おれ達がゴミ山の中に沈んでいるんだ。ずぶずぶと下半身の感覚が重たくなる。逃げようにも、砂のような感触に足を取られて動けない。何か巨大な怪物にでも足を掴まれて引きずり込まれるようだった。


「ど、どうなってんだ……!」

「なにこれ、やだ怖い、助けて!」

「皆さん、落ち着いて下さい! 私達はこれから、この写真の少女の心の中に入ろうとしているみたいです!」

「こ、心の中?」


そうこうしている間にも、おれ達はもう胸のあたりまで沈んでいた。からだが鉛のように重たい。ゴミに隠れてみんなが見えなくなって、おれは途端に不安になる。スピカがどこからか叫ぶようにして言った。


「木津くん、貴方が魔法をかけたのです。言ったでしょう、名前には魔法が宿っていると。この写真の女の子の名前を、貴方は呼んで、魔法を発動させたのです」


さざなみのような、海鳴りのような音が、スピカの声をかき消して、視界は真っ暗になった。


✳︎✳︎✳︎


おれのからだは、鈍い重力の中でゆっくりと沈んでいった。おれは、恐る恐る目を開けた。そこは青い海の中だった。あれ、みんなはどこに行ったんだ。おれはたったの一人ぼっちで、果てしなく続く海の底へと落下してゆく。呼吸は不思議と苦しくなく、だけどほんの少しだけ、喉のあたりが不自由な感じがした。おれは抗う事もなく、沈みゆくからだをただ青に任せて、遠のいてゆく柔らかな光をただ見つめているだけだった。


もうどれぐらい沈んだのだろうか。白、青、群青、そしてゆっくりと暗闇になるほんの少し前。おれは自分のからだが形を成していない事に気付いた。あれ。手は。足は。髪は。どこに行った。泡がぶくぶくと青を揺らす。ああ、これは三人称だ。夢を見るとき、自分自身を客観的に見ているような、あの感覚だ。水面はもう随分と遠く、今にも消えてしまいそうなぐらいの脆い光が静かに揺れていた。


気付くとそこは、先程の古民家の中だった。あのゴミの山が嘘のように、綺麗に整頓されている六畳間。古びた木の玄関がカラカラと開き、天真爛漫な三つ編みの少女が元気よく「ただいまあ!」と叫んだ。青のタイル貼りの台所から、腰の曲がったおじいさんが「おかえり、香夏子」と優しく微笑み、六畳間にお茶を運ぶ。小さな木の丸テーブル。二人は向かい合って座った。少女は宿題の途中だというのに、ランドセルからプリントを取り出して「これ見て!」とおじいさんの前で広げて見せた。それは遊園地の広告だった。右下に小さく乗り物の無料券が二枚付いている。


「あのね、じいじ! 香夏子、ここに行きたいの!」


おじいさんは眼鏡を取り出して、じっくりと広告を読んだ。隅々まで目を通した後、右下の小さな乗り物無料券を二枚、丁寧に切り取って、優しく頷いた。少女はみるみる瞳を大きく開き、からだいっぱいに空気を吸い込んだ。「じいじ大好き!」と大声で言い放ち、少女は腰の曲がった白髪のおじいさんに抱きついた。おじいさんは勢い付いた少女を受け止めきれず、転げ倒れる。二人はげらげらと笑った。少女とおじいさんは幸せだった。少女は、おじいさんの事が大好きだった。


しばらく二人の幸せな日々は続いた。遊園地に行く前日に、おじいさんは少女に新しい服を買った。それはまるでお姫様のようなフリルがたくさん付いた服だった。少女はボロ雑巾みたいな服から、お姫様みたいな服に着替え、おじいさんにお披露目した。おじいさんの前でフランス人形のようにくるりくるりと回ってみせる。二人はきっと楽しい一日を過ごすだろうと思った。


しかし、遊園地から帰ってきた少女は不機嫌な顔をしていた。六畳間に布団を敷くおじいさんの後ろで、少女は「香夏、観覧車に乗りたかったのに!」と叫んでいる。二人の生活は、それは質素なものだった。あの無料券分の乗り物にしか乗れなかったのだろうか。観覧車にはお金がなくて乗れなかったのだろう。「じいじなんか大嫌い!嘘つき!」と泣き叫ぶ少女の頭を、おじいさんは困った顔で撫でながらあやした。


それから月日は流れた。少女が中学生になる頃には、おじいさんの腰はもっと曲がり、耳も遠くなり、少女の伝えたい言葉も少しずつ伝わらなくなっていった。「ご飯いらないって言ってんじゃん」「話しかけてこないでよ」「卒業式とか来なくていいから」少女は度々おじいさんに酷い言葉をぶつけた。酷い言葉をぶつける度に、少女は傷付いた。それでもおじいさんは優しく困ったように笑うだけだった。それが少女には更にストレスだった。少女は家に帰っても自分の部屋にこもるようになった。おじいさんと顔を合わせることは少なくなった。おじいさんは次第に物忘れが激しくなった。


更に月日は流れる。少女は高校生になった。おじいさんはもう少女を「香夏子」と呼ばなくなった。少女の名前を憶えていなかったのだ。六畳間は次第にゴミであふれていった。おじいさんはどこからかガラクタを持ち帰っては、部屋中をゴミだらけにした。少女にはそのガラクタの数々が、自分の存在と重なった。身寄りのなかった少女は幼い頃、このおじいさんに引き取られたからだ。少女がゴミを捨てようとしても、おじいさんは決してそれを手放そうとはしなかった。日々増えていくガラクタ達。自分もその一員なんだ。あの日の思い出も、楽しかった毎日も、全部、全部、全部全部全部全部全部!ただのおじいさんの幻想だったんだ!少女は耐えきれなくなって、ついに声を荒げた。


「あたしのことも、このガラクタを拾って来るような感覚だったんじゃない!」


おじいさんは困ったように笑った。


「あたしの名前だってもう憶えていないくせに!」


おじいさんは困ったように笑った。


「こんな貧乏な家に引き取られて、あんたみたいなのに引き取られて、あたしはとっても不幸だった!」


おじいさんは、困ったように笑うだけだった。

少女はには、それが何よりも辛かった。


「……じいじなんか、大っ嫌い!」


いつか聞いた台詞だった。スクールバッグに荷物を詰め込んで、少女は夜の街へと駆け出した。これがおじいさんと少女の最期の会話になった。誰もいない夜を駆ける、少女のおじいさんとの思い出が、止めどない記憶となって零れ出す。おじいさんと出会った日、一緒に目玉焼きを作った日、肩もみをした日、テストを褒められた日、遊び疲れた少女を、曲がった腰でおんぶして、歩いて帰ったあの日、全部、全部、ガラクタだった。


少女が出て行ってから、おじいさんは拍車をかけるようにみるみる衰弱していった。加速する。誰もいなくなった六畳間で、ガラクタ達に囲まれたまま、誰にも看取られないまま、困ったように笑ったまま、おじいさんは静かに息を引き取った。それでも少女は、この六畳間へは帰らなかった。

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