010 小さな女王、レグルス

しばらくして、あたし達は飼育小屋を後にした。お兄さんは携帯灰皿に煙草を押し付け、吸い殻を丁寧にその中に収めた。八鹿のおじちゃんの酔いも醒めた頃だろうか。グラウンドのジャングルジムに戻ろうと踵を返そうとしたそのときだった。鋭い視線があたし達の背中を貫いた。


確かな視線を感じて、あたしとお兄さんは振り返った。その影は継ぎ接ぎだらけのマントを翻して、不敵な笑みを浮かべた。頭の上の王冠が、月明かりに反射してキラリと光る。パレードを先導していた小さな女王様は、校舎の片隅にある、百葉箱の上に胡座をかいて、蔑むようにこちらを見下ろした。


「あんたはさっきの! どうしてここが!」

「……全く、そんなのアタイが聞きたいくらいダヨ。どうも、アタイの魂が、アンタ達に共鳴しているみたいナンダ。魂の高鳴る方へ、カラダが勝手に走り出すんダヨ。不思議な感覚ダッタヨ、まるで無重力みたいナ。確かに地面に足ハついているノニ、カラダが嘘みたいに軽いンダ。そうやッテ、我を忘れて跳ねるヨウニその鼓動を辿ってキたら、どういう訳かアンタ達がイタ」


魂の共鳴。その感覚をあたしは知っている。しおかぜ観光ビルを見つけた時の、きっとああいう感じのことなんだろう。高鳴りが飛躍して、心が体に追いつかなくなるような、あの感覚。まるで自分の体から魂が抜け出して、三人称で自分が見えてしまうような。お兄さんは、腰の重心を低く落として、警戒心をむき出しで女王様の事を睨みつけた。


「……あんた、何者なんだ?」


胡座を解き、女王様は百葉箱の上に立ち上がった。月の光を背後に浴びて、逆光になる。輪郭がくっきりと浮かび上がる。尖った目尻。鋭い視線をあたし達に突き刺したまま、女王様はゆっくりと、そのか細い人差し指を星のない夜の空へと掲げた。


「アタイはレグルス。この街で一番輝きの弱い、劣等星のステラさ!」

「……レグルス? ステラ?」


聞き慣れない言葉の並びにあたし達が混乱していると、レグルスと名乗ったその女王様は、あたしとお兄さんの顔をそれぞれ見比べて、ふーんと呟いた。含み笑い。


「アンタ達、本当に何にも知らないンダ。そりゃあ、そうヨネ。誰も教えちゃくれないわヨネ。だっテ、今この街で起きている悪い子は、アンタ達だけだモノ」

「どういう、ことだ?」

「この街のニンゲンは今、枕にかぶりついて、バカみたいにヨダレを垂らして、素敵な夢でも見ている頃ヨ」

「みんな眠っちまったっていうのか?」

「アンタ達を除いてネ。アンタ達も、見たでショ? 空っぽの街ヲ! 空っぽのアタイの兵隊達ヲ!」


ギシ、ギシと百葉箱の軋む音。レグルスは小さな体を揺らしながら、興奮気味に言った。


「これは、神様がこの街にかけて下さったアリガタイ魔法ヨ。自分に都合のいい夢をずっと見ていられルノ。美味しいものを腹一杯食べる夢。片思いの彼と付き合う夢。誰からも好かれる夢。事業に成功して一攫千金を手にする夢。もう一生、仕事にも学校にも行かなくてイイノ! 辛い現実ハ! 全部忘れテ! 苦しいって感情モ! 悲しいって感情モ! 憎しみモ! 孤独モ! 嫉妬モ! 屈辱モ! 怒りモ! 全部全部全部全部全部全部全部全部、全部! 忘れテ! 消しテ! その醜イちっぽけな欲望ヲ満たすノ! 永遠の眠りにつクノヨ!」


狂気だった。壊れかけた人形のような動きで、零れんばかりに目を見開いて、カタカタカタカタと嗤う。虚ろな焦点。あまりの気味の悪さに、あたしとお兄さんは思わずたじろぎ後ずさる。身体中の神経が虫食まれるかのような威圧感。肩甲骨のあいだを冷たい汗がすべる。お兄さんは、精気を全て奪われたかのような絶望の表情で、絞り出すような声でレグルスに向き直った。


「……あ、ありえない。この街の全員が眠りにつく? そんな事が、本当に起きているっていうのか?」

「そうヨ。でも、アンタ達は魔法にかからなかった。まァ、さっきのあの汚らわしい酔っ払いは突然変異だトシテ。それに、この魂の高揚はいったい何? ねェ、アンタ達は何者ナノ? 何か特別な魔法を持っているノ? 神様を知っていルノ? あァ、それともただの、幸せを拒むマゾヒストだったりしてェ? だとしたら残念、すっごく詰まんなァイ」

「……悲しい気持ちや苦しい気持ちを忘れる事が、幸せなこと?」


情けないぐらいに、声が震えているのが自分でも解った。だけど、脳裏はあの2号線の景色でいっぱいだった。春の夜に、この街のみんなで、どこまでも踊り明かした、埋め尽くした、賑やかな、小さいけれど優しい色の、大好きなこの街。この街の人たちが、誰かの意思で踊らされている。まるで操り人形みたいに。幸せという都合のいい言葉で利用されている。そんなの。そんなの、そんなの!


「そんなの、絶対に間違ってるよ!」


やっとの思いであたしは叫んだ。だけど、それがどうしたという表情で、レグルスは一蹴した。


「だってニンゲンがそう望んでいるんだモノ。じゃあ、なァニ? アンタは違うっていウノ? アンタは、苦しんダリ、悲しンダリシテ、生きていクコトを望んでイルノ? 負ノ感情ハ、生キてイクウえで絶対に避けテは通れナイ道ダケド、そんな事をシテまで生きてイタイト、アンタは言ウノ!?」

「それはっ」



——この問いに答える資格は、きみにはないよ。



どこからか声が聞こえた気がした。何か言葉にしようとしているのに、喉が焼けるように熱くなった。痛い。何。何なの。誰なの。あたしの中で、あたしを支配しようとする声は。


「ほゥラ、答えられないじゃナイ」

「でも!」

「都合のいいことばァッかリ。ねェ、アタイ、ニンゲンって、大ッ嫌イ!」


消えた。


瞬きをする間もなかった。残された百葉箱。一瞬だった。獲物に狙いを定めた獅子の牙が、あと3センチであたしの喉元を噛みちぎる、ところだった。


レグルスの後ろに白い影。真珠のような発光。


レグルスの動きは止まった。正確には、止められた、のだと思う。時間が止まったのかと錯覚したが、夜風になびくレースを見て、それは違うと確信した。ジャングルジムのロリータのお姉さんは、氷のような表情のまま、そこに佇んでいた。何をしたのか、何をされたのか、ここにいる全員が理解できなかった。レグルスは後ろを振り返ることも出来ないまま、混乱した表情で、焦点を狂わせた。


「そこまでです」

「……ア、アンタは!」


あたしと目を合わせたまま、お姉さんの声に、レグルスは過剰に反応した。恐怖からか、安堵からか、あたしは膝から崩れ落ちて尻餅をついた。どういう訳か、お姉さんはレグルスに直接触れていないというのに、彼女の動きを制していた。あたし達を見て、凛とした声色でお姉さんは言った。


「貴方達、お逃げなさい、さあ早く」


あたしが動き出す前に、お兄さんが飛び出した。へたるあたしの腕を掴んで立たせ、ロリータのお姉さんの白く細い腕も引っ掴み、顔面蒼白のまま一目散に駆け出した。あたし達は、お兄さんに引っ張られるがまま、わけもわからずに夜のグラウンドを駆け抜けた。ど真ん中を突っ切って走る。まだ動けないでいるのか、レグルスが追ってくる様子はない。


「なんなんだよもう! わっけ分かんねえよ! ふざけんなよなんだよこれ! 休憩明けちまうだろうが!」


堰を切ったようにお兄さんが叫んだ。こんな非常事態だというのに、お兄さんはこの後に及んでバイトの心配をしていたのだった。

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