第42話 夢の終わり

 ――ジルフォード様!


 エレノアの身体を優しく包み込む力強い腕。この腕の中にいる限り、自分は大丈夫だと思える。

 しかし、実際に悪魔の闇を垣間見て、体は恐怖に震えていた。ジルフォードの胸に顔を埋めて、ぎゅっとその体に抱きつく。

 ついさっき見たものは幻だったと言ってほしかった。目を開けてしまえば、悪魔をこの眼に映してしまえば、エレノアはどうしても悪魔を無視することはできない。

「大丈夫だ。俺がいる」

 今この瞬間だって、ジルフォード自身戸惑っているはずなのに、穏やかな声で優しい言葉をくれる。エレノアが望む言葉を。

 エレノアはこくり、と頷いて目を開けた。

 見上げた視界には、ジルフォードの優しい笑顔がある。

「ありがとうございます、ジルフォード様」

 そして、ジルフォードの胸を軽く押す。エレノアを守るために囲われていた腕がゆっくりと緩む。

 エレノアは覚悟を決めて振り返った。


「……っ!」

 初めて見る父は血まみれだった。流れ出る赤と対照的な青白い顔で、人々を恐怖に陥れてきた皇帝カルロスは倒れていた。しかしその瞳には、あまりにも強い意志がみてとれた。死にかけてなお、皇帝は皇帝として強くあろうとしている。そしてその瞳に映っているのは、紛れもなくエレノアだった。

 カルロスの側には黒い靄が浮かび、その色はどんどん濃さを増していく。不安と恐怖を生む闇色へと。


 「これは、一体何だ?」

 新しい玩具を見つけた子どものように無邪気な顔で、ブライアンは闇を指した。

 エレノアは内心で兄に同情する。

(お兄様は、悪魔のことも、私が閉じ込められていた理由も知らないのね)

 第一皇子ともあろう人間が、この国の背景を知らされていない。ブライアンは、カルロスに何も教えられていないのかもしれない。第一皇子でありながら、何も知らない。父である皇帝から聞かされるのではなく、臣下や騎士から聞かされる情報。自分に関係することなのに、噂でしか耳に入らない。そんな屈辱を、ブライアンはずっと味わってきたのだ。

 だから、父を真似て、人を人とも思わず殺し、恐怖を与えることを覚えていった。

 ブライアンは笑みを浮かべたまま、ゆっくりと闇に近づいていく。

 徐々に、闇はある形をとろうとしていた。ふわりふわりと濃さを増し、それは靄ではなくなっていく。

(悪魔が、実体化しようとしているんだわ……!)

 エレノアがこの部屋に飛び込んだ時、悪魔にはまだ体はなく、ただの闇だった。悪魔の闇に包まれて、エレノアは悪魔の声を聞いたのだ。

 このカザーリオ帝国を最強の国へと変えた、悪魔の力。

 危険すぎるその存在に、ブライアンは何の恐怖も感じずに近づいていく。すべてが自分の思い通りに進むと思っているのだ。自分に逆らう者はいないと。

「お兄様っ!! それは悪魔よ。それ以上近づかないで!」

 自分を殺そうとした相手なのに、エレノアは叫んでいた。しかし、ブライアンはエレノアの制止の声に苛立ちを露にする。

「悪魔だと? それなら尚更、僕が手に入れなければ。この世界を支配するに相応しい、この僕が……あぁそうだ、どうせなら、悪魔にお前を殺させようか」

 にやり、とブライアンは笑う。

 エレノアが言葉を失った直後、ブライアンはジルフォードに殴り飛ばされていた。あまりの早業に、ブライアンの騎士も間に合わなかった。

 ブライアンは一瞬何が起きたのか分からずに、ただ呆然と床に転がっていた。

 しかし、頬の痛みと血の味に、理性を取り戻し、状況を理解した。

「貴様、よくも……っ!!」

 すぐに立ち上がり、ブライアンは剣を構えた。もう闇への興味はまるでない。あるのは、ジルフォードへの激しい怒りのみ。

「殴られたのは初めてだろう、ブライアン皇子」

 ジルフォードが挑戦的に言った。その言葉は、おそらく事実だろう。ブライアンは、自分の手は汚さずに、他人だけを傷つけてきた。自分はそれが許される立場にいるのだと信じ込んで。

 第一皇子であるブライアンに、誰もそれが間違いだと教えられなかった。


「ザルツ、早くこの男を殺れ!」

 もう一秒たりともジルフォードが生きていることが許せない。そんな剣幕で、ブライアンは騎士に命じる。

 命じられるまでもなく、騎士ザルツはジルフォードに剣を向けていた。しかし、斬りかかろうにも剣が震えて言うことをきかない。敵を目の前にして、こんなことは初めてだった。

「どうした? 来ないのか?」

 ジルフォードは片手で大剣を弄ぶ。

「死ねぇぇぇえええ!!!」

 ジルフォードの注意がザルツに向かっているうちに、とブライアンが剣を振り上げた。


「ジルフォード様っ!」

 危ない、と思わず叫んでしまったが、エレノアは目の前の光景にぽかんと口を開けてしまった。

 ブライアンの剣はジルフォードに素手で止められ、その隙にと剣を下から突き上げたザルツの動きもあっさり封じられている。

「悪いな、お前らの相手してる暇はねぇんだよ」

 あっという間に床に転がされた皇子と騎士の二人。縛り上げる紐がないため、ジルフォードは彼らが着ている服を使って後ろ手に縛り上げていた。

 ブライアンは今回、【新月の徒】を利用して皇帝暗殺を企てた中心人物である。にも関わらず、何故か軽んじられている。いつでも自分が中心で、自分が注目されていたかったブライアンにとって、この発言は殴られたことよりも屈辱だった。 

「……な、何様の、つもりだ。この僕に逆らって、ただですむと思うな。お前は、絶対に殺す」

「あぁ、好きなだけやってみな。今この場を生き残ることができたらな」

 ジルフォードはそう言って、闇の塊を鋭く睨んだ。

 もうすでに、そこには人外の美しさを持つ青年が立っていた。

 どこまでも黒く、深い闇を溶かしたような存在。

 人間の姿をとった悪魔は、浅黒い肌、感情を持たない闇色の瞳を持ち、漆黒の軍服を着ていた。


「君たちを生かすかどうかは、花嫁次第だな」


 悪魔の声に、ぞくり、と心臓が震えた。

 冷たい刃物で直接心臓に触れられたような、恐ろしさがあった。

 本物の、悪魔だ。

 死の恐怖が目の前にある。

 その存在が、ジルフォードに視線を向けた。ただそれだけなのに、ジルフォードは苦しげに膝をついた。

「ジルフォード様……!!」

 エレノアは泣きそうになりながら叫ぶ。

 駆け寄りたいのに、悪魔が目の前に立ちはだかる。

「俺のことは気にせず、逃げろ!」

 息苦しいのか、ジルフォードは顔を歪めながら叫ぶ。悪魔の力に押さえつけられて苦しいだろうに、ジルフォードは立ち上がり、その手に剣を握りしめた。

 ジルフォードはエレノアを逃がすために動いてくれるつもりなのだろう。

 しかし、逃げたいのに逃げられない。

 だって悪魔は、ジルフォードの命を簡単に奪うことができる。

 それはこの場にいる誰の命でも。

(私が、ジルフォード様を好きだなんて言ったから……)

 ジルフォードに会うまでは、悪魔になんて嫁がないと思っていた。ジルフォードに会ってからは、側にいたいと思うようになった。

 悪魔の花嫁ではない自分自身の生き方を夢見たりもした。

 しかしそれは、十八になるまでの限られた夢だったのだ。


 エレノアは、ジルフォードの声に耳を塞ぎ、悪魔の手を取った……。

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