第23話 第一皇子の野心

 第一皇子ブライアンは、自室でゆったりとソファに身を預けていた。

 華美な装飾はなく、壁に飾ってあるのは様々な武器。しかも、そのどれもに血が付着している。普通の人間が見たら悲鳴を上げてしまいそうな拷問器具までもがずらりと並んでいる。そんな部屋で、ブライアンは落ち着いて紅茶を口に運ぶ。

「ブライアン殿下、【新月の徒】からの返答です」

 【新月の徒】に接触を図っていた騎士が、新月のマークが入った手紙を差し出す。

 その手紙を広げ、文面に目を通す。ツキは自分に回ってきたようだ。読み終えた手紙を暖炉に放り込み、顔を上げる。

 窓から見える、上弦の月。今頃、憎い妹も同じ月を見ているのだろうか。この先待ち受ける自分の運命も知らずに。

 ブライアンは薄い笑みを浮かべた。


「私は、父上を超える。あんな宝石に夢中になるような皇帝は、もういらないだろう」


 ブライアンは立ち上がり、騎士を一人だけ連れて城を出た。

 帝都の裏路地で、ブライアンは一人の男に会う。


「よくぞまいられました、ブライアン殿下」


 目元を仮面で隠し、黒いマントを羽織った男。その男の首元には、新月のマークが彫られている。穏やかな口調でブライアンに頭を下げた男は、ブライアンを見てにっこりと微笑んだ。

「お前が【新月の徒】のリーダーか」

 冷ややかに、ブライアンが問う。

「はい。【新月の徒】を率いております、ライディ=カイドールと申します」

「ライディ、私はお前達に協力するのではない。自らの野望のためにお前達を使うのだ。それは、分かっているな?」

「勿論でございます。我々があなた様の力になりたいのです」

 そう言ったライディの喉元に、ブライアンは剣を向ける。ライディは動じることなく、微笑んでいる。

「その言葉に、偽りはないな?」

「はい。信じられなければどうぞこの首をお斬りください」

「気に入った」

 剣をおさめ、ブライアンはふっと笑った。脅されて動じるようならそのまま切り捨てるが、この男はまったく動じなかった。それどころか、ブライアンの剣の動きを完全に読んでいた。それなのに、あえて避けなかった。ブライアンの信用を得るためだろう。

 だからこそ、使える。そう判断した。

「父上は今頃お怒りだろうな。臣下の一人や二人、斬っていてもおかしくはない。私の使える駒が減る前に、動け」

 それだけ言って、ブライアンはライディに背を向けた。

「皇子殿下、【新月の徒】を本気で信用するのですか?」

 〈鉄の城〉に帰るなり、騎士のザルツが問うた。主の許可なしに口を開いだのだ。本来であれば、極刑ものである。しかし、ザルツの剣の腕と口の堅さと仕事の速さを買っているブライアンは、君主の慈悲で咎めずにその問いに答えてやった。

「奴らは私に利用されるだけ利用されて、最後には罪人として死ぬのだよ。私が皇帝の座に就いた時、見せしめにしてやってもいいな。そうすれば、私は国民を脅かす犯罪者を捕らえた正義の皇帝となれるだろう」

 冗談のように笑ってみせるが、すべて本気だった。ブライアンの答えを聞いて、ザルツは硬い表情で頷いた。


「ブライアン?」

 自室に向かっていると、か細い声に呼び止められた。第一皇子であるブライアンを敬称なしで呼べる人物は二人しかいない。一人は皇帝カルロス。しかし、父であるカルロスがブライアンを慕わしげに呼んだことなどない。

 そしてもう一人は皇妃、ジャンナ=フォル=ヴィンセント。ブライアンの母親だ。皇妃の容姿は、誰が見ても口を揃えて美しいと評価する。子どもを二人生んでいるとは思えない、ほっそりとしなやかな肢体。色白で、陶器のようになめらかな肌は透明感があり、その大きな薔薇色の瞳は常に潤んでいて男の庇護欲をそそる。しかし、彼女の心は壊れていた。正確には、壊された。皇帝カルロスによって。

 虚ろな瞳をさ迷わせ、青白い顔でジャンナは溜め息を吐いている。

「母上、いかがされました? こんな夜遅くに出歩いては危険です」

 ジャンナは、薄い夜着しか身につけていなかった。身体のラインが、丸わかりだ。皇妃ともあろう者が、その身体を晒して歩いていた。いくらこの場所が皇族の私的空間であるとはいえ、人の目がない訳ではない。ブライアンはすぐに自分が羽織っていた外套を母の身体にかけた。

「あなたこそ、こんな夜遅くにどこへ行っていたの? わたくしを、一人置いてどこに……うぅっ」

 ブライアンにぎゅっと抱きついて、ジャンナは嗚咽を漏らす。毎日、母は泣いている。この細い身体のどこにこれだけの涙を溜めこんでいるのか、ブライアンはいつも不思議でならない。そして、もう二十歳となった立派な男が、母とはいえ薄着の女性に抱きつかれれば、かなりぐらりと理性が揺らぐ。何せ、目の前にいる女性はとにかく美しい。そして、自分の腕の中で弱々しく震えて泣いているのだ。

「怖い夢を見たのです。また、あの子が取り上げられる夢。悪魔が、喰らおうとするのです……わたくしは怖いのです。あなたまで、いなくなるのではないか、と」

 慰めるように抱きしめれば、腰のくびれや、胸の膨らみを感じた。これで欲情しない男などいない。しかし、ジャンナの身体のあちこちには父カルロスの赤い所有印が散りばめられている。それを見て、ブライアンはいつも理性を取り戻すのだ。

「大丈夫です、私は母上の側にずっとおります。母上の憂いも、私がすべて消し去りましょう」

 エレノアの存在が、ジャンナの心を苦しめている。そして、冷酷非道な皇帝カルロスが妻に優しいはずがない。毎夜毎夜、ジャンナの泣き叫ぶ声が聞こえてくる。しかし、ブライアンには止めることはできない。ブライアンの内にも、父と同じ衝動があるからだ。ブライアンは、母以上の女を知らない。

「私を放置していた父上が悪いのですよ。父上のすべてを、私がもらいます」

 皇帝の座も、母も、エレノアの命も。

 ブライアンは、黒い笑みを浮かべた。

 夢うつつに寝室から抜け出してきたジャンナに、ブライアンの言葉は届かない。その病んだ心は、すべてを諦めていた。皇帝カルロスを拒絶することも、息子を止めることも、娘を取り戻すことも。皇帝カルロスに身体を捧げることだけが、ジャンナの皇妃として生き残る道だった。ただの小国の王妃であった頃は、王である夫に愛される穏やかな幸せがあったというのに、どうしてこうなってしまったのだろう。ジャンナは、辛い現実を忘れて、過去の幸せな夢に逃げる。夢の中では、自分も、夫も、息子も、娘も、皆幸せそうに笑っている。


「どうか母上はそのまま夢の中で幸せに笑っていてください」


 もう息子のことも見えていないジャンナに、ブライアンはそっとキスを落とした。

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