第5話 今日の夕食を尋ねるということ

 駆け足で終わる人生に価値などあるのだろうか。


 ここは少年の部屋だった。今は死体の部屋だ。


 朝日が少年の死体を鮮やかに照らしている。その手元にある小瓶からは海よりも青い液体が僅かに零れていた。少年の死に顔は穏やかであり、目覚まし時計が鳴れば目をこすりながら起きてきそうであった。


 だがそんなことは決して起こらない。死とは不可逆的なであり、少年は引き返せぬ一歩を踏み出したのだ。


 目覚まし時計が静寂をジリリと破り捨てる。死体でない少女は目覚まし時計を蹴飛ばしてアラームを止めた。その乱暴な扱い文句を言う者はいない。所有者はもはや死人だ。


 昨日は父親が自殺し、今日弟が自殺し、母親は家に誰かがいると部屋から出てこない。だから少女はひとりになった。少女は料理ができなかったから、がらんどうのリビングでカップラーメンを食べる。化学調味料が少女の舌を刺激して味を伝えた。


 惰性と習慣で見ている朝のニュースでは、いつからか流行りだした致死性の薬物を問題にしている。


 痛みもなく眠るように天国に連れて行ってくれる薬。


 そう自殺志願者の間で重宝されているが、彼等にとって不幸なことにこの薬は合法でない。病院で処方される風邪薬などと比べれば値が張る。それでも以前よりは安価になり、たとえば少女の弟がおこづかいをありったけ支払えば買えるくらいの値段にはなっている。昔は注射器で投薬する必要があったが今では経口ですむ。実にお手軽だ。


 ――しかしこれを毒と呼ばずに薬と称しているのは、買う人が少なくとも無意識的に自分を救ってくれると思っているからなんでしょうかね。


 そんなことを喋るコメンテイターのしたり顔がアップで映される。ちょうどカップラーメンを食べ終えた少女は用済みとばかりにテレビを消した。


「お母さーん、弟も自殺しちゃったから後はよろしくー。」


 部屋こもる母親に呼びかける。


 返事はない。けれども母親はきちんと弟だった有機物の処理をしてくれるだろう。少なくともこの点において、少女は四番目の母親を信頼していた。


 生体活動を継続している死体予備軍に混じって少女は通学する。少女もまた死体予備軍であった。




 妹は学校の近くで少女を見かけた。視線が合う。


 あれから二人は友人と称していいくらいの関係性を構築することに成功していた。そのため少女を無視することもできず、「おはよう。」とくぐもった声であいさつする。


「あ、おはよう。」


 少女の返す声は死んでいる。


「今朝さー、弟が自殺してて面倒だったわー。」


 寝坊して朝食を食べ損ねた。それくらいの軽さで少女は自分の運の悪さを嘆く。


「ふうん。それはご愁傷様。」

「家で死なれると死体処理課に電話したりするのが面倒だよね。私なら外で自殺するってのに。そう思わない?」

「んー、まあ。」


 妹は曖昧に返事をしてぐるりと過去に思いをめぐらす。


「確かに家族が家で自殺するのは嫌だな。前にお母さんがキッチンで包丁使って自殺してね、血だらけだった。」


 惨状を想像してしまった少女は、自分の感情に従って表情を作る。少女はしかめ面になった。


「それに比べるとうちはまだマシかな。あいつは薬飲んで自殺したから血だらけじゃなかった。」

「家族が自殺するのは嫌だよね。」

「まあね。」


 少女は肯定する。


「でもさ、どうせみんな死ぬんだからさ、今自殺したって別にいいよね。毎日朝起きて、働いて、ご飯を食べて、眠る。そうやって一日を過ごすためにどれだけの力が必要なんだろう。生きることはたくさんの労力が要るけど、その労力に見合う価値のある人間なんてほんの一握りなんだ。泣きたくならない? 本当は私達の人生に維持するほどの価値はないんだ。」

「……そうかもね。」


 昇降口に着く。妹は上履きに履き替えながら溜息をつく。くたびれた上履きは妹の小さな足によく馴染んだ。




 その日は、昼休みにクラスメイトが飛び降り自殺するようなごくありふれた一日だった。彼氏もいつもどおり放課後に妹を呼び、その白い手を握る。


 人生みたいにどんよりとしたくもり空の下、二人は黙って歩き続ける。行先は彼氏しか知らない。


「どこに行くの?」


 よくセックスをしていた公園を通り過ぎたところで、妹が尋ねる。


「どこでもいいだろ。ここじゃないどこだよ。」

「あんたそんなこと言うタイプだっけ?」

「タイプってなんだよ。血液型? 星座? 誕生日? 俺がいつどんなタイプになるんだ?」


 彼氏は舌打ちして路傍の小石を蹴飛ばす。


「生きることは装うことだ。俺は性格を、感情を、反応を装っている。求めるもののために。

 それでも欲しいものが手に入らなかったら? そのときは妥協するんだ。代替するんだ。愛をもらえないなら時間を、心を抱けないなら体を。


 世の中では求められる役割ってのがある。俺がお前の恋人であるように、お前が血のつながりもない男の妹であるように。そういう役割を演じきれなくなったとき、そして代替すべき下位互換がなくなったとき、人は人生という茶番劇から転落するのさ。そう、自殺だ。」


 妹は「ふうん。」とだけ頷いた。何も話すべきことはなかった。


 二人は進む。死体まみれの町を進む。その手はつながれているだけでなんの温もりもない。


 到着したのは郊外のラブホテルだった。エントランスには低い機械音だけ響いている。


 妹が呟く。


「誰もいない。死体すらいない。」

「別にいいだろ。だって誰かが死のうが生きようが、俺達にはなんの価値も関係もないんだから。」


 彼氏は部屋番号を確認してエレベーターのボタンを押す。エレベーターは無機質に開き、二人を無機質に閉じこめた。




 妹はつい声を出してしまった。駅を降りた時、兄と彼女から同じ電車から降りてきたのを見つけてしまったからだ。


 そうすれば当然兄も彼女も妹に気づく。彼女は笑顔で、「妹ちゃんだ!」と手を振る。


 無視なんてできなかった。妹は溜息をついてから二人が来るのを待つ。


「珍しいね、帰りに駅で会うなんて。」

「じゃあこれは素晴らしい偶然だね。」

「そうですか。それはおめでとうございます。」

「ありがとう妹ちゃん!」


 妹の冷淡な対応にも彼女は笑顔のままだった。


「じゃあせっかくだからどっかで喫茶店でも入ってお話ししようよ。」

「お金がないです。」

「大丈夫、今日は君のお兄さんという名のお財布があるじゃないか! なんでも好きなものを頼みなよ。なんならメニューの端から端までとかでオッケーだよ!」

「ちょっと待て。」


 兄が口を挿む。


「僕は君の恋人だったつもりだけど、いつから君と妹の財布だったのかな?」

「あれ、私の恋人は妹のお茶代くらい当然払うような優しい人だと思ってたけど違うのかな?」

「別に払うこと自体はやぶさかではないが、その最初から答えはわかってます的なにやついた顔がむかつく。」

「いひゃいいひゃい。」


 兄は彼女のほっぺたをびよんびよん引っ張る。ほっぺたはやわらかくて、それこそ餅のように伸びた。


 彼女は赤くなった頬をさすりながら唇を尖らせる。


「全く、可愛い可愛い大切な彼女のほっぺをいじめて喜ぶなんて君には性的倒錯があるに違いない。これは治療が必要だね。」

「うん。どちらかというなら非はそっちにあるだとか別に喜んでないだとか僕に性的倒錯はないだとか色々物申したいことはあるけど、海よりも深い寛容さを持つ僕は治療って何するつもりと尋ねて会話を継続してあげよう。」

「治療ってのはね――」


 彼女はミルクチョコレートなキスをする。


「これのことだよ。私の愛の力で君を矯正してあげよう、えっへん。」


 兄は無言でキスを返し、二人で見つめ合う。


「……なるほど。よくわかりました、ええ。とてもよくわかりました。」

 妹が剣のように冷えた声で言う。それを聞いた兄は明らかに狼狽しだすが既に時は遅い。

「つまり私はこのまま帰っていいってことですよね?」


 それから妹をなだめて説得して、駅前の喫茶店に行くまで相応の時間を要した。




 彼女は自分の髪と同じくらい真っ黒なコーヒーとガトーショコラを頼んだ。兄の前にあるコーヒーカップにも同じ黒が揺らいでいる。


「で、なんで兄さんはともかくあなたまでいたんですか? 家、別に近くじゃないですよね。」

「やだなあ、私と妹ちゃんの仲じゃないか。会いたくて来たのさ。」

「そういうつまらない冗談はいいです。」


 妹はそっけなく彼女を切り捨てて、「どうしてですか?」と今度は兄に問いかける。


「あ、ああ。まあ特に深い意味はないだけどね。たまには僕の地元を探索してみたいってことで。」

「ふーん。」


 妹はじと目で二人を見ながらアップルティーを口に含んだ。それから唇を尖らせてチーズケーキに親の仇とばかりにフォークを突き刺す。チーズケーキの体は無慈悲な金属により分断された。


「ふーん。もう夕方ですけど。」


 兄の背中に冷たい汗が流れる。だが妹の態度のほうがもっと冷たかった。


「まあまあ。そう怒らないであげてよ、ね。ほら、ここに評判のイタリアンのお店があって、私がそこに行ってみたかったの。」

「別に怒ってません。」


 フォークに引き裂かれたチーズケーキは声なき悲鳴をあげた。


「じゃあ、兄さん。食べ終わったら帰ってくるんですよね? 私ちょっと宿題でよくわからないところがあるので教えてもらいたいのですが。」

「えーと、あはは。どうかなー、ちょっとどうなるかわからないな。」

「ごめんね。妹ちゃん。」


 無理やり笑って誤魔化す兄に、彼女が助け舟を出す。


「今夜君のお兄さんは売約済みなんだ。宿題なら私が今教えてあげるよ。任せなさい。」

「……いえ、自分でちゃんと考えてみます。」

「そう? なら頑張ってね。」


 アップルティーは甘い。チーズケーキも甘い。それでも妹は苦虫を噛みつぶした表情を作った。




 喫茶店で二人と別れた後、日没の帰り道を妹は歩く。夕焼けの残光はそれでも世界に残り、宵闇に抵抗していた。道路についた赤黒い染みが斜陽に照らされる。今朝そこで中年の女性がトラックに飛びこみ自殺をしていた。


 妹はそこで足を止めてじっとその染みを見つめる。その横を何台もの自動車が殺人可能なスピードで去っていった。


「死ぬの?」


 問いかけに顔を上げると、そこには自転車に乗った母親がいた。籠には食料品のつまったビニール袋が入っている。


「死ぬって言ったら止めるの?」

「いや、夕食作るの減らす。」

「死なないよ。」

「そう。ならあんたの分も作っておく。私先行くから。」

「ねえ。」


 妹は自転車をこぎだした母親を呼びとめる。


「今日の夕食なに?」

「ビーフシチュー。」

「わかった。」


 母親は颯爽と妹の先を走る。夕闇を背負い、妹も家に向かった。

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