第3話 真っ赤な舌で嘘をつかない

 父親のいなくなった家には大きな隙間ができた。


 コトリ、と朝食が並べられる。それは二人分だ。朝刊は誰にも読まれぬまま灰色の塔となって部屋の片隅にうず高く積まれている。来月には解約するかもしれない。


 兄妹は身を寄せ合って吹きこむ寒さをしのいだ。しかしお互いの体温は、剥ぎ取られた一枚の毛布の温もりをかえって強調するばかりであった。




 信号が赤になると歩行者は足を止める。代わりに自動車が人を殺せる速度で動き出す。歩行者のうち幾人が自殺志願者なのかはわからないが、少なくとも今は誰も車道に飛びこまなかった。


 青信号を待つ歩行者の中にはデートする二人が混じっていた。彼らを見下す青空は絶望みたいに澄みきっていて、この狭い世界、今日も誰かが自殺している。


 微睡んだ冬風にふわりと漆黒の天鵞絨ビロードが揺れた。兄がそっと手を差しこんでみるとなめらかに黒髪は滑る。彼女は兄の頬に両の手を添えた。


「急にどうしたの? こんな所で。」

「別に。」


 兄が視線を逸らして答えると、彼女はビターチョコレートなキスをする。


「嘘つき。」


 信号が青になる。兄は交差点を渡ろうとしたが、彼女がその手を握り動こうとしない。他の歩行者が交差点を渡ってしまうのにもかかわらず二人だけが動かない。


「死んじゃ駄目だよ。」

「死なないよ。青だから。」

「青だろうが赤だろうが君は死んじゃいそうじゃない。明日の天気を尋ねるみたいにふらっと自殺しそうだよ。」

「まさか。大丈夫だよ。」


 兄は笑った。彼女は笑わなかった。ただ黙って瞳の奥を見つめる。そうやって彼女が覗けたのは自身の姿だけだったが、それでも彼女は見つめ続けた。


 信号が点滅してから人間の世界は再び停止する。


「死ねないよ。怖いから。」


 兄は自動車へ視線を逸らし吐露する。彼女が「うん。」と相槌をうつ。


「いつ僕らの命に意味が生まれるのだろう。大切なものを失ったとしても僕らに価値はあるのかな。」

「別に無くてもいいじゃない。」

「駄目だよ。自分が許せないんだ。」


 兄はきつく顔を歪める。晴天だというのに雨が降りそうだった。


「産まれて。生きて。死んで。それが自然というのなら、全ては誤差の範囲内で無意味かもしれない。無価値かもしれない。でもね、誰かがその無意から大切を拾いあげてくれたとき、私達の意味は生まれるんだと思うよ。私達の価値はそうやって大切に思ってくれた人がいたという証明なんだよ。」

「僕はそうは信じられない。」

「じゃあ嘘でいいよ。だから騙されてよ。好き。大好き。愛してる。だから死なないで。」


 彼女は真っ赤な舌で嘘をつかない。だから兄は騙されて、涙を零すこともなかった。


 信号が青になった。

 交差点を渡る。車道のトラックは二人を轢き殺さない。




 二人は幾つもの交差点で轢死を免れ、閉じた世界を闊歩する。繁華街からいくらか離れた道は喧騒を彼方へと忘れ去ってしまったかのようだ。道はなだらかな下り坂だった。


 彼女は一歩先んじて、兄を振り返る。手にさげた大きなバスケットがくるりと揺れた。


「ねえ、これからどこに行こうか。」

「え、何も決めてないのにこんなとこに来てるの?」

「うん。でも別に決めなくていいでしょ。デートなんだし。」

「そうなの?」

「そうだよ。だって君がいるんだもの。」


 彼女は笑って兄の腕を取る。太陽が投下する熱のおかげで彼女の肉体は温かい。二人は陽だまりの中にいた。


「どこかでお昼にしようよ。お腹減ってきた。ほら、公園あるし。」


 兄は前方に注意を促す。少し歩いたところに開けた公園が見えた。


「仕方ないなあ。特別だよ。」


 彼女はこれ見よがしにバスケットを掲げてみせた。


 公園には芝生が敷き詰められ青々と飼い慣らされている。そして端にある雲梯うんていで制服姿の少女が首を吊っていた。


「ねえ、あの子まだ生きてるんじゃない?」


 彼女が少女を指さす。重力に垂れ下がっていた指が微かに動いた。


「行こう。」


 兄は走って少女の元へ行く。首を括る麻縄は雲梯に固く結われていた。兄は縄をほどこうと苦闘するが成果は芳しくない。追いついた彼女が少女の体を持ち上げる。麻縄と重力による絞首が緩み、少女の口から呻き声が漏れた。


 そうして二人でどうにか少女を麻縄と重力から解放する。だがその時既に少女の呼吸は止まっていた。


 兄は少女の気道を確保し、何度か呼びかけてみるが反応はない。


「AEDないね。人工呼吸する?」

「うん。」

「じゃあ私がする。胸押すのお願い。」

「わかった。」


 兄が少女の胸を押す。傍らの彼女が少女に口づけし、小さな肺に酸素を送りこむ。自殺者が増加する現代において救命講習は必修だ。もっともそれを活用する人間はほとんどいないが。


 胸部圧迫と人工呼吸を数度繰り返すと、少女が急に咳きこみ顔をしかめる。心肺蘇生が成功し、意識を取り戻したのだ。それは幸運なことでもあったし、不幸なことでもあった。


「大丈夫?」


 彼女が尋ねる。

 少女は咳きこみ続けながらもゆっくりと体を起こし、自身の現状を確認した。


「生きてる……。どうして……?」

「少なくとも死んでないね。」


 彼女が歌うように茶化すと、少女がきっと睨みつける。


「私は死にたかったのに、私は死にたかったのに! どうしてこんな酷いことをするの?」

「君が勝手に死にたかったように、僕が死んで欲しくないと勝手に思ったから。ごめんね。悪いとは感じないけど。」


 両手で顔を覆った少女は涙する。顔を上げずにしゃくりあげるまで泣き続けた。


 兄と彼女は顔を見合わせる。彼女が頷いた。つまり、面倒なので全部兄に任せるということだ。兄は少しだけ眉をひそめる。


「あのさ。」


 兄は少女の頭に手を置き、そっと髪を撫でる。


「ご飯、一緒に食べない? お弁当あるんだ。」

「い、いりません……」

「でも、生きてるんだからご飯を食べても損はないと思うよ。今日は彼女がお弁当を作ってくれてね、どうせ二人じゃ食べ切れない量だろうから。」

「どうせって何さ、どうせって。私の溢れんばかりの愛をぞんざいに扱うなんて非道ひどいね。極悪だね。」


 彼女が口を挿む。


「いや、もちろん気持ちは嬉しいって。だけどこれを全部食べると僕の口から溢れるのは愛じゃなくて胃の内容物になるよ。それでいいのかい?」

「それは困るね。そこは根性で乗り切ってくれないかな。」

「愛に根性がいるのかい?」

「必須だよ。」

「根性にはちょっと自信がないなあ。」

「仕方ないな。じゃあ特別に私が応援してあげよう。」


 少しだけ背伸びして、彼女はミルクチョコレートなキスをする。


「ほら、これでどうだろう?」

「とりあえずもう一度キスをしたくなったよ。」

「仕方ないな。じゃあ特別に――」

「いい加減にしてください!」


 いつの間にか泣き止んでしまった少女が叫ぶ。


「なんで二人して乳繰り合ってるんですか、馬鹿ですか、馬鹿なんですよね、この下半身動物病患者! ワンニャン仲良くセックスでもしてろ!」


 怒られた二人は顔を見合わせる。兄が頷く。つまり、選手交代ということだ。


 彼女が答える。


「セックスはするよ。食後に。」

「このっ、変態!」

「どうして相手に好意を伝えるためのコミュニケーションをしたら変態扱いされなきゃいけないの? 私達は恋人なんだから普通でしょ?」


 彼女は堂々とのたまってから、子猫を追いやるようにひらひらと手を払う。どう反論していいかわからず、感情の矛先を見失った少女は地団駄を踏む。


「それよりも自殺かランチかはっきりしてくれない?」

「あんたの目の前で死んでやるもんか、ランチ!」


 少し前の自分の行動と真逆の答えを出した少女は、そこでふと声の調子を落とす。


「でも、ここは寒いと思う。」


 兄は冬の公園を見渡す。三人の他誰もいない。一陣の寒風が吹いた。


「君の意見を採用しよう。」




 少女が案内したのは、複合娯楽施設のフードコーナーだった。


 フードコーナーはそれなりに混雑している。ほとんどの席が埋まっていて誰も動こうとしていない。


 どうにか空いている席に座った後、彼女が満を持してと言わんばかりの笑みでバスケットから弁当箱を取りだす。大きい。明らかに二人分を超えたサイズだ。


 彼女は「じゃじゃーんっ。」と自ら効果音を出しながら蓋を開けた。


「どう、凄いでしょ? ミートボール手作りなんだ。美味しいよ。きんぴらは冷凍モノだけど。」

「うん、凄いけどそれは普通逆じゃないかな。」

「ミートボールは弁当の命だよ。」

「それは君しか言ってない。」

「はいはい。そーですよーだ。」

「というかさ、箸は三膳あるの?」


 兄の問いに、彼女は再び「じゃじゃーんっ。」と効果音付きで一膳の割り箸を取り出す。


「ふふふ。備えあれば憂いナッシングなのです。はい、どうぞ。」

「あ、どうも。」


 割り箸を受け取った少女はさっそくミートボールを食べる。


「どう?」

「美味しい。」

「そうでしょうそうでしょう。」


 彼女は何度も頷いてから自分もミートボールを食べる。


「うん、美味しい。」

「そうだ。君のその制服ってさ――」と兄が高校名を口にする。

「そうですけどそれが何か。」

「やっぱり。僕の妹も同じ高校なんだ。」


 兄は妹の名前と学年を言う。


「そうですか。まあ、何度か話したことあるくらいの仲ですが。」

「でも会ったらもっと仲良くしてあげてよ。」

「はあ、わかりました。」

「やれやれ、君は本当に妹思いだねえ。お姉さん嫉妬しちゃうわ。」


 彼女は肩をすくめ芝居がかった笑みを作る。


「別に、家族だからね。」

「私は本当にそれだけなのか勘ぐりたくなるときがあるよ、正直。」

「僕は大切な人には幸福であって欲しいんだ。」

「家族が大切なんですか?」少女は首を傾げる。「家族なんて茶番劇ですよ。というか大切の意味がわからないですね。」

「どういうこと?」

「だって、どうせみんな自殺するじゃないですか。」


 ほら、と少女が割り箸で隣の丸テーブルを示す。そこでは、家族が揃って服毒自殺をしていた。どの死体の表情も酷く歪んでいる。


「最後の晩餐がこんなとこって何考えてるんでしょうね。」


 ほとんどの席を埋めてしまっている死体の群れを見回し、少女は深い溜息をつく。


 彼女がきんぴらを食べてから言う。


「きっと晩餐じゃなくてお昼ご飯だったんだよ。」

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