第5話 6


 スマホのスヌーズ機能が鳴る前に目覚めて、木藤はぐっと背を伸ばした。

 夏休みも欠かさず毎日掛けているものの、大抵は目覚ましよりも早く起きてしまう。それでも保険として掛けているのは、掛けたことに安心感を覚えているからかもしれない。

 しかし、始業式にも拘わらず今日は少しだけ体が重い。

 まだ太陽が昇り始めたばかりで薄暗い中、カーテンを開けてから、ベッドの布団を畳んでテレビを点ける。けれど、その場で見ることはせずに、ニュースを垂れ流して、重い体を引きずって脱衣所に向かう。

 単身用のワンルームなので、音量はそこまで上げなくても十分に聞こえる。

 顔を洗って、歯を磨いていると、鏡越しに、照明に反射して金色に光る自分の眼が映る。

 視力が悪いわけではないから、家にいるときは眼鏡を外すようにしている。そのせいもあって、金色の眼はより主張をしている。

 この眼に関しては、色々な思い出がある。アイデンティティとして誇らしく思っていた時期もあれば、隠してしまいたいほどコンプレックスになっていた時期もあった。

 歯を磨き終えると、キッチンに移動してトースターに六つ切りの食パンを二枚入れる。パンが焼けている間に、同時進行で二口コンロの一つにフライパンを乗せて、もう片方にケトルを乗せてから火を点ける。

 温まった頃合に、片手で卵を二つ割り入れて蓋をすると、隣で沸かしたお湯をマグに注いで、インスタントコーヒーを溶かす。ブラックのまま一口飲むと、ようやく脳もすっきりと覚めた。

 一人暮らしになってから、朝は大抵このメニューで済ませる。実家に居た頃までは、朝食は和食派だったけれど、自炊となるとつい楽さを優先してしまう。

 それでも、大学のときは目玉焼きすら億劫だったので、それなりに成長しているのだろう。

 窓の向こうの日差しが高くなってきて、部屋が明るく染まっていく。

 のんびりとしている時間はなさそうだ。コーヒーを流し込むと、出かける支度を始めた。


 職員会議が終わると、夏休み明けということと、九月末に控えた学園祭の準備のことで騒がしい教室に踏み込む。生徒達は蜘蛛の子を散らすように席に戻っていった。

 その中でも目立つのは、金の髪の少女。そして体格のいい腹違いの弟のいるグループ。

 桃子と眼が合って、胸の辺りが押されたようにぐっと詰まる。

 桃子と顔を合わせるのは、夏休み以来になる。

 聞きたいことも、言いたいことも山ほどあるけれど、今は教師としての立場を優先しなければならない。

「――ショートホームルームするぞ」

 感情のコントロールできない子供じゃあるまいし。

 そう誤魔化すように教壇に上がると、生徒の視線が集中してくる。木藤も身を引き締めると、一人一人と視線を交わすようにしながら様子を窺う。こうして体調や表情に曇りはないかを確認するのが、朝の日課になっている。

 夏休みで十分に英気を養えたのか、爛々と輝く眼。その中のひとつ――犬飼千和が、大きな眼を見開いてこちらを見ていた。


 孤島にたった一つの高校である鬼ヶ島高校は、あまり部活は盛んではない。その代わりに生徒は学校行事に全力を注いでいる。

 木藤の代も、運動会や学園祭は盛大にやっていたし、鬼ヶ島の住人の多くはこの高校の卒業生に当たるため、なにかと協力的なので、高校のお祭りなのに出店もあったりする。

 お客さんが多ければ、生徒達も意欲が増し、達成感も上がることだろう。

 生徒達は自主的に学園祭に取り組んでいるのを、木藤も大変喜ばしく感じている。始業式にも関わらず、下校時刻まで準備に追われて、その後は教師としての雑務をこなして、帰る頃にはもう時計は九時近くなっていた。

 この時期は仕方ないことなのだが、それなりに体にはきているようだ。

 マンションの二階への階段を、左右に大きく体を揺らしながらえっちらおっちら上る。


「おかえりなさい、先生」


 木藤の部屋の前、壁に寄りかかるようにして立っていたのは、顔が桃子に瓜二つな男。

「……やあ、桃之助くん。今日も来ていたのか」

「ええ。随分遅いお帰りですね。手際が悪いのではないですか?」

 まっすぐで素直な桃子の兄とは思えないほど可愛げがない。昨日は昼から来ていたが、話が平行線のままだった。

「……未成年の君がこんな時間まで待っていることもないと思うが。まして学校をサボって来ているのだろう?」

「ご心配に及びません。親には許可を頂いてます。単位も足りていますし、学業に差し支えはありませんよ」

 木藤も、疲れもあって思わず口調が荒くなる。

 しかし桃之助は余裕のある笑みを浮かべて、どこ吹く風といった然だ。

 いとも簡単に挑発に乗ってしまった自分に苛立ちを覚える。

 木藤は桃之助の前を通り、家に入ると、ドアを閉めようとしたところで邪魔された。閉めかけたドアに、艶のある革靴が挟まれている。

「話も聞かずに来客を追い返すのはどうなんですか?」

 笑顔の裏に凍てついた威圧を感じる。

 ――本当に、高校生なのだろうか。

「……どうぞ」

「お邪魔します」

 靴を綺麗に揃えてから上がってくる。所作のひとつひとつが丁寧で、隙を感じさせない。何故か憎めないのは、彼の人間として尊敬する部分が見えるからだ。

 手洗いうがいを済ませると、木藤はケトルに水を入れて火に掛けた。

 木藤のワンルームは、ベッドと小さなテーブルの主張でスペースがあまりない。

 桃之助は適当なところに正座をしていた。

「コーヒーでいいかな?」

「ええ。昨日のインスタントで構わないです」

 彼の家でならもっといいコーヒーを口にしているだろうけれど、桃之助は不味いとはは一言も漏らさなかった。……もしかしたら、味覚は庶民派なのかもしれないが。

 百均の白いマグカップに注いで、テーブルに乗せて渡す。男二人が向かい合って座ると、部屋は手狭に感じる。

 桃之助は口を湿らせるかのようにそっと一口含むと、マグカップをテーブルに置いた。その瞬間眼の色が変わる。昨日、ここで侃々諤々と論議を交わしたときにしていたのと同じ目付きだ。

 そして、いつの間にか彼の側に寄り添うように置かれた、黒く艶めく鞘に覆われた日本刀。それが本物なのは、昨日抜き身を見たせいで分かる。

「……今日、犬飼に君の匂いがすると言われた。毎日ここに来れば、すぐに桃子にバレるのではないか?」

「構いません。元々連れ帰るつもりでしたから」

 少しもその瞳は揺るがない。頑固なところも桃子を彷彿させる。

「ただ貴方の存在が邪魔なんですよ、木藤先生」

 また水掛け論になることを覚悟して、木藤は首を振った。

「何度言われようが、俺は桃子の意思を尊重する。教師としても、一人の人間としても」

 そこから二人は、コーヒーが冷めるのも気にせずに語り続けた。どちらも折れないので、話は昨日と変わらずに平行線を辿ったままだ。

 木藤は元々の疲れもあって、話しながらいつしか眠っていたらしい。明け方目覚めた際にはもう桃之助の姿はなかった。






  


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