第4話 4

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「鬼藤くん、お手洗い借りていい?」

「ここ出て左を真っ直ぐ行って、突き当たりを右」

「……うん、わかった」

「大丈夫? 一緒に行こうか?」

「大丈夫だよ」

 鏡花の申し出を断って、鬼藤くんの言葉を反芻する。確か、出て左の――

 立派な日本庭園が見える廊下を歩いていると、人影に気付いた。

 見間違え、じゃないよね?

 人影は庭を横切って、ひっそりと佇む離れへと向かっていく。

 この島では珍しい黒髪に、痩身。先生だと確信したわたしは、靴脱ぎ石に置かれていたサンダルを拝借して、先生の影を追いかけた。

「……えっと、せ、先生!」

「……桃子か、びっくりした」

 先生に頭をぽんぽんと優しく叩かれる。今日はよく頭を撫でられるなぁ。

「こんなところで会うとはな。遊んでるのか?」

「班のみんなで、勉強会です。居間をお借りさせてもらってるんです」

「そうか」

 先生の視線が離れへと向く。あっちに用事があるのかな。

「……一緒に来るか?」

 わたしは肯くと、先生の後に続いた。

 先生は慣れた手付きでドアを開けると、勝手知ったる様子で奥へと入っていく。

「お邪魔します」

 入った離れは人の気配はないものの、住んでいた温かみは残っている。

 リビングは特に顕著で、まるで家主は長期旅行でも行っていて、今にも戻ってきそうな雰囲気だ。

「昔、ここに住んでいたんだ」

 木藤先生と鬼藤くんは腹違いのご兄弟、なんだっけ。

 先生は、懐かしそうに目を細めていた。壁に触れた手も、愛しいものを慰めるかのように映る。

「……そうなんですね」

「最近また寄るようになったけど、去年までは寄り付こうとも思わなかった。亡くなった母さんとの思い出が色濃くて、息が苦しくなるんだ」

 リビングに家族向けの四席あるテーブルがある。そこに向かい合うように腰を下ろした。

 眼鏡の奥の、あの優しく輝く金の眼は、今どんな感情を宿しているだろう。

 先生は、今、どうしてわたしに話してくれたのだろう。

 なあ、先生にそう呼びかけられて、どきりと体を強張らせる。

「……桃子がこの島に来たかった理由はなんだ?」

 先生の眼に強く光が宿る。

「わたしは――」

 ガチャっとドアの開く音がして、不機嫌な顔をした鬼藤くんが現れた。

「なにサボってやがるんだ」

「え……っと、あはは」

「まあまあ、初。お前も座らないか」

「あ?」

 話すまでもなく、顔になんでオレがと書いてある。

 昼間にプールで眼を逸らされたことを思い出す。

 そっか。もしかしたら、壁を作っていたのは、わたしの方かもしれない。

 エンジや千和にすら、ちゃんと話したことがないことに今更気付いた。

 それで壁が、なんて……お門違いにも程がある。

「……わたしも、鬼藤くんに聞いてほしい」

「鏡花にLINE入れとく。……早くしろよ」

 片手で器用にスマホを操作して、鬼藤くんは先生の横に腰を下ろした。

 相変わらず仏頂面だけど、耳は貸してくれるみたいだ。

 わたしは意を決して、視線を自分の指先へ落とした。記憶を解きほぐしながら、伝わるように言葉を探す。

「――わたしには、お兄ちゃんがいるんだけどね」

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