第5話 恋しい人

 収穫祭の賑わいは、夜になっても続いていた。

 アナスタージアはホテルの最上階から、遠く家々の向こうにある大聖堂前広場の灯りを見つめていた。

 思うのは、バートの事だった。彼はまだあの灯りの下にいるのだろうか。もう家に帰ってしまったのだろうか。今頃何をしているのだろうか、と。

 アナスタージアの頭に浮かぶのは彼のことばかりだった。エルシオンの報復に備えなければならないというのに。




 敵に一矢報いるのだと、奪われた砦に奇襲をかけたのは、二か月前の夏の盛りのことだった。直にエルシオンは動き出すだろう。

 それに、この御忍び行は単なる慰安目的だけではない。秘密裏にエレバスの司教と会うことにもなっているのだ。

 それなのに、どうしてもバートの事が頭から離れない。

 ぼうっと窓の外を眺めて、出会いからの彼の一言一句を、一挙手一投足を、克明に何度も思い出しては、ため息をついていた。

 バートに会いたいと胸を切なくさせていた。




 あの後、彼に手を引かれて公園に行った。

 そこで夕刻までの間、二人きりで語りあったのだ。他愛のない話ばかりだった。身の上に関わることは言えなかったから、彼がどこの誰なのかも聞けなかった。分かっているのは、国境警備兵であることとバートという名前だけ。

 だがそれでも、彼と共にいるだけで胸の躍る時間だった。

 バートは子どもの頃、幼馴染とカエル獲り競争をした話を聞かせてくれた。一番大きなカエルを捕まえた者が勝ちなのだそうだ。彼は負け知らずだったと自慢げに笑った。今でもその幼馴染とは、狩りでは獲物の大きさと数を、戦場では戦果を競っているのだとまた笑う。


「武骨な男だと思うか? まあ、情緒豊かに詩を吟じる趣味は確かに無いが、これでも夜眠りにつく前、必ず神に祈りを捧げる程度には信仰を持っているんだ。だから、今日この収穫祭で君に出会えたこと、神に感謝している……」


 そう言って、熱っぽくアナスタージアを見つめた。

 収穫祭にまつわる言い伝え――祭りで出会った男女は恋に落ちる、結婚を誓い合えば永遠に結ばれる――それを仄めかして、バートはアナスタージアを見つめるのだ。

 激しく鳴りっぱなしの心臓が、また大きく飛び跳ね、アナスタージアは目を閉じた。言い伝えが本当になればいい、そう心から思った。

 エルシオンとの戦が終われば、この願いは叶うだろうか。

 王女の身で、エレバスの兵士との恋を実らせることは、可能だろうか。

 しかし、疑問はすぐに絶望の答えに変わってしまう。


 まつ毛を震わせながら目を開けると、バートの微笑みが間近にあった。声を出しかけた唇は、ついばむような口づけで塞がれた。髪を撫でられ、彼の腕の中に閉じ込められてしまう。アナスタージアが幸福感に酔って身を任せると、遠慮がちだった彼の口づけがだんだんと熱を帯びて、激しくなってくる。

 アンナ、アンナと、それは本当の名前ではなかったが、彼女の名を何度も呼んで抱きしめるのだ。

 ずっとバートの側にいたい。単純かつ強い願いが胸を締め付ける。

 国に帰らずに、このまま彼と逃げてしまえばいい、そんな甘美な誘惑がアナスタージアを苦しめていた。



 リンザールとエルシオンの対立は、聖地エレバスの統治権を争って始り、その後は永い報復合戦となっている。今では教皇領として独立してしまった聖地だったが、どちらが支配下もとい庇護下に置くかを、未だ争ってもいる。

 双方共にエレバスに対しては友好的姿勢をとっており、その地を戦場とすることは極力避けてきた。しかし過去には、戦闘が拡大するとしばしば軍勢が領内に侵入することもあった。そこで教皇領は外周に城壁を巡らし、兵を配置するようになった。バートはその国境警備兵なのだった。

 エレバスは中立であり、バートらの任務は警備と防衛であるから、リンザールとエルシオンの戦いに割って入ることはない。しかし、いざ戦が起きれば、自領に飛んだ火の粉を払うために、時にはいくばくかの犠牲を払うこともあるのだ。


 アナスタージアは、自分たちの争いにこの先バートを巻き込んでしまうことを、心から恐れた。

 二ヶ月前の戦闘の折に、バートは額に傷負ったらしいのだ。もちろん、エレバスが戦に加わったのではない。しかし、エレバスは自衛の為に、常に戦況を把握する必要があり、戦の度に偵察隊を出しているのだ。

 バートはその偵察行動中に、流れ矢に当たったという。



 気が付けば、アナスタージアはバートに抱かれたまま、ベンチに押し倒されていた。頬を紅潮させ少し息を荒げているバートを見上げ、左眉を斜めに横切る傷に手を伸ばした。目を傷つけられなかったのが、奇跡のように思う。


「……痛かったのでしょう?」

「こんなもの、どうということはない。君にフラれる方が俺には致命傷になるよ、アンナ」


 白い歯を見せてニッと笑いかけられて、思わず真っ赤になって目を逸らしてしまった。どうしてこんな歯の浮く台詞をさらりと言えるのか、アナスタージアの方が恥ずかしくてたまらなくなる。

 彼の胸をそっと押し返すと、察しよく身体を離し、バートはアナスタージアを起こしてくれた。


「本当だぞ。俺はまだまだ生きたいんだから、どうか恋人になると言ってくれ」

「……あ……バート、私……」


 何と答えればいいのか。何も言えずに、ドキドキと胸を震わせながら、俯いてしまう。あまり長い間黙っていては、拒否していると受け取られるかもしれない。決して彼を嫌だなんて思ってはいないのに。

 しかし、王女である彼女は、簡単に恋人になると言うこともできないのだ。どうすればいいのだろうと、ぐっと手を握り合わせて俯いていると、バートのクスリと笑う声が聞こえた。


「今すぐ答えなくてもいいさ。……ああ、でももう夕方だな……」


 アナスタージアは、バートの言葉ではじめて気づいた。もうすぐ日が暮れるということに。

 辺りに夕闇が迫ってきて、バートの顔の半分をオレンジ色に染めている。何時間も二人でベンチに座っていたということが信じられない。ほんの数十分ほどしか経っていないような気がするのだ。


「……そろそろ帰った方がいいんじゃないかな? 送っていくよ」


 彼の言葉に、寂しさが沸き起こる。ここで別れてしまったら、もう会えないかもしれない。自分はリンザールに帰らなくてはならないのだから。

 アナスタージアは、小さくイヤイヤと頭を振る。


「もう少し……一緒に」

「俺もそうしたい。できることなら、君を連れ去りたい。…………来るか?」


 バートは優しく問いかける。


――ああ、ついて行きたい、でもそれはできない……。もしも、私がただのエレバスの娘だったら、彼の胸に飛び込めたのに……


 アナスタージアの目にうっすらと涙が浮かぶ。


「ごめんなさい……行けないわ」

「なら……帰ろうか」

「はい」


 バートは、ついて行くと言うはずがないと最初から解って言ったのだと、アナスタージアは思う。

 自分で帰ることを選択させてくれたのだ。

 武骨な兵士のように見えても、バートは優しい、そう思った。

 彼は、アナスタージアの身元を尋ねようとはしなかった。おそらく、ただの町娘で無いことにはもう気づいているだろうに、姓さえも聞こうとはしない。アナスタージアが自ら語ろうとしないから、敢えて訊かずにいてくれているのだと思う。

 きっと、エレバスの貴族の娘だと想像しているのだろう。親の目を盗んでこっそり一人歩きをしていたから、外聞を憚って名乗れないのだと。

 訊ねないということは、そういう事だと思うのだ。

 その考えは一概に外れてはいない。ただアナスタージアは、エレバスの貴族の娘ではなく、リンザールの王女であるのだが。

 バートは立ち上がり、にっこりとアナスタージアに手を差し伸べた。


「お手をどうぞ。瑠璃の似合う姫君……」


 おどけた口調だったが、アナスタージアは心臓が止まる思いがした。

 瑠璃の姫君。まさに自分のことではないかと。リンザールの国色、瑠璃のイヤリングがふるふると震えた。

 彼はただふざけているだけだ。変に慌ててはいけない、とアナスタージアは、平静を装って、微笑みを浮かべる。

 これだけは知られてはならない。自分がリンザールの王女であることを知ったら、彼は態度を変えるかも知れない。いや、そんなことより彼に危険が及ぶかも知れない。彼の身を案じるなら、もう会わぬ方が良いくらいなのだ。

 指が震えそうになるのを懸命に抑えて、バートの手を取りゆっくり立ち上がった。

 するとバートは、握った手を勢いよく引き寄せ、アナスタージアを抱きしめた。


「明日は仕事があるんだ。でも祭りの最終日はまた休める。仮装行列を一緒に見物しないか?」


 バートの言葉は、不安と秘密を抱えて痛むアナスタージアの胸に、歓喜と後ろめたさを与えた。

 これ以上、彼に関わってはならないと、いけないことなのだと分かっていながら、また会おうと誘ってくれたことに、どうしようもなく喜びを感じてしまうのだ。


「……ええ、一緒に」


 バートの胸に唇を寄せて呟いた。

 夕日が二人の影を長く長く引き延ばしていた。影は一つに重なったまま、なかなか離れることは出来なかった。







 アナスタージアがぼうっと窓の外を眺めている頃、エレバスの西の城門の外にある関所で、仁王立ちになっている男がいた。

 いかにも不機嫌そうな顔だったが、元々の顔つきが童顔で柔和なので、然程厳しさはなかった。濃いグレーの軍服に黒いマントを纏い、武官然としているのだが、どこか借りて来た衣装を身に付けている感が否めない。

 真っ直ぐに城門を見つめ、ダリオ・ベルニーニ中将は、かれこれ二時間ほどこの場所に立ち、ずっと待ち人が現れるのを待っていたのだ。

 そしてたった今、彼の前に上機嫌の赤毛の男が現れたところだった。


「お早いですね。てっきり今夜は、もうお帰りにならないのかと思っておりました」

「どうした、ダリオ。誰か待っていたのか?」


 赤毛の男バートは、中将の皮肉を意に介さず、空々しい事を言って笑っている。

 ダリオは大きく溜息をついた。


「友人、幼馴染として、ご忠告申し上げてもよろしいですか?」

「なんだ」

「お慎み下さい。貴方の赤毛はとても目立つのです。不用意な行動が、どのような厄災を運んでくるかも知れないのですよ。遊びはお控え下さい」

「俺はいつでも真剣だし、遊んだ覚えはないのだが?」

「どの口が仰る……」


 とぼけた口調のバートに、ダリオは思い切り顔をしかめた。

 しかしバートはハハハと笑って、用意されていた馬にさっと騎乗してしまう。


「素晴らしい出会いがあった。これは遊びなんかで済ませられるものじゃない……」


 唇をほころばせるバートの目じりが、ほんのりと朱に染まっていた。そして、長時間自分を待っていた友人を、置いてけぼりにするように、さっさと馬の腹を蹴って走り出すのだった。

 その方角は西。エルシオン王国に向けてだった。

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