第四回 喜美の声

 千歳がぐずっていた。

 千歳の朝餉と自らの支度を終えて、屋敷を出ようとした時だった。

 最近になって自我が芽生えはじめたのか、何につけ嫌だ嫌だと首を横にする。今日は、尚蔵の家に行きたくないと泣いていた。


(それは、俺とて同じだ)


 誰が愛しい我が子と離れたいと思うだろうか。しかし、勤めに連れていけるはずもない。

 千歳がとうとう土間に座り込んでしまった。


「ああ、もう」


 と、思わず小突きたくなるが、


「男親が叱ると娘に好かれない」


 という、亡き妻の言葉を思い出し、宥めすかして何とか千歳が行くと言った。


(甘やかしてはいかぬと思うのだが……)


 妻とは何となく、役割を決めていた。叱る事は妻。甘やかすのは自分だと。しかしその妻が亡くなった今、このままでもいけないと思いつつ、結局忙しさの中で流してしまう。


「今朝も大変そうだね」


 と、生垣越しに声を掛けたのは、隣家の隠居だった。四十を幾つか過ぎたばかりだが、二十歳の息子に家督を譲って楽隠居を決め込んでいる。


「ええ……」


 覚平は、千歳を抱えたまま答えた。


「儂は隠居したはいいが、毎日暇で暇でたまらんよ」


 そう言う隠居に対し、


「暇なら、千歳の子守をしてくださいませぬか」


 などと、心の声が漏れそうになったが、覚平はただ苦笑いを浮かべただけだった。

 長柄町の尚蔵宅へ着くと、出て来たのは里ではなく喜美であった。


「あ……」


 あの日以来、喜美を何度か見掛ける事はあったが、二人こうして顔を合わせるのは初めてだった。


「里殿は」


 そこまで言って、覚平は後悔した。喜美は耳が利かぬのだ。それを知りながら、言葉で聞いてしまった。口下手のくせに、何たる馬鹿なのだ。


「いや、その」

「……」


 すると、喜美は幾つかの手真似をしてみせた。

 お腹を押さえ、奥を指さし、寝ているという仕草。なるほど。それで覚平は頷いた。


「そ、そうか。里殿は腹が痛いのだな」


 覚平は、ゆっくりと大きな声で言った。その口の動きを読んだのか、喜美は強く頷いた。


「医者には見せたのか?」


 そう訊くと、喜美が首を傾げ、困った顔でもう一回と指を立てた。どうやら聞き取れなかったらしい。


「すまぬ、つい早口になってしまった。……『いしゃ』だ『い・しゃ』」


 口を大きくゆっくりと言うと、喜美は頷いて、


「あいじょうう」


 と、呻くよう言葉で返した。

 初めて聞く、喜美の声だった。それは見た目に似合わぬ、低く枯れたものだった。苦しそうで痛々しくも聞こえるが、そこに喜美の本当の姿を見た気がした。


「大丈夫か。そうか、それは良かった。しかし病ならば仕方がない……。ただ、千歳を預けられぬとなると困ったな」


 そう言って踵を返そうとした覚平の袖を、喜美が無遠慮に掴んだ。

 思った以上に強く引き寄せられた力に、覚平の心に久しく味わっていない細波が立った。


「ど、どうしたのだ?」


 平静を装って聞き返したが、喜美は顔を横にした。そして、自分を指差して、手を広げる。


「ああいが、ああいが」


 何か必死に訴えているようだった。その仕草と枯れた声で、覚平は喜美の考えがわかった。


(自分が千歳を見るというのか)


 だが、喜美は唖だ。里がいるならまだしも、今日は寝込んでいて子守りなど出来ないだろう。他にも四人の子供もいて、その面倒も見なければならない。果たして、その余裕があるのか。


「きぃ、きぃ」


 ふと、千歳が声を挙げた。それは、覚平の迷いを断ち切るような声だった。


「きぃ、きぃ。きぃ、きぃねぇ」


 必死の形相で繰り返し、喜美の胸へ移ろうとする。

 喜美の顔に、笑顔の花が咲いた。そして手を広げると、覚平の腕を振りほどいた千歳を受け止めた。


(まぁ、仕方ないか)


 ここで断ったとしても、他に預ける宛などないのだ。それに千歳も懐いているようにも見える。


「すまぬが、喜美殿。千歳を頼み申す」


 喜美が唖だという事を忘れて早口になり、覚平は慌てて苦笑いを浮かべた。喜美も口を押えて笑い、一つ頭を下げた。


(私も手真似など覚えねばなるまいな)

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