第15話

 彼女は女官に先導され、回廊を進んでいました。

 朱塗りの列柱に花鳥風月の描かれた梁、さざ波のように連なる黄金の瑠璃瓦。地上は嵐だったというのに、ここではすっきりとした蒼穹が広がっていました。

 軽やかな小鳥のさえずりと雅やかな楽は心を和ませ、花の香りには多幸感さえ覚えます。それはあまりにも懐かしく、あまりにも変わっていませんでした。


 ここは『箱庭』で、世界でなにが起ころうが平穏であり、時間の流れも異なるのです。

 彼女もよく知っていましたが、いざ直視するとたとえようのない虚しさが胸を吹き抜けていきました。悶えながらさすらってきた何百年も、ここでは一年にしかならないのでしょう。


 やがて通い慣れた部屋に通され、彼女はみずから跪きました。記憶と少しも違わない香が鼻先をかすめます。


「面を上げよ」


 厳然とした声に、彼女はおもむろに顔を上げました。そうして、やはり、と落胆しました。


 太陽の男神は記憶のままの、若々しく威厳に満ちた面立ちをしていました。この世界でもっとも優れた存在にふさわしい外見と、圧倒される『気』と、双眸で燃える黄金の太陽。懐古さえ抱くほど、兄神は変わっていませんでした。


「……久方ぶりでございます」


 彼女は床についた手先たなさきへと、視線を滑らせました。

 この一年は手入れをしてきたので、爪も薄紅色につやめいています。けれども、地上に堕ちてから爪に土がこびりついていない日など、ほとんどありませんでした。そうして洗い流した土よりよほど大量の泥に、この身はまみれているのだと彼女は思いました。


 ひそかにくちびるを噛む彼女に気づくはずもなく、太陽の男神は昔と同じように椅子を勧めました。

 彼女ははっきりと断りました。


「わたくしは地に堕ちた身にございます。兄上と同じ目線でお話しするわけにはまいりませぬ」

わたしが座れと命じてもか」

「さようでございます」


 かたくなに動かないでいると、男神は袖を軽く振って、ひかえていた女官に退室をうながしました。女官は足音も立てず、部屋を出ていきました。


「わたくしに、何の御用でございましょうか」

 おおよその見当はついていました。そして返ってきた答えは、やはり彼女の予想どおりでした。


「そなたを――『月』を戻したいと思う」


 彼女はそっと嘆息しました。


「可笑しなことをおっしゃる。わたくしを追放したのは、兄上であったと記憶しておりますが」

「朕も覚えている。だが、そなたがおらぬとやたら喧しい者もおるのだ」

「気づくのがあと数百年早かったのなら、とてもうれしゅうございました」


 ふ、と花唇が自嘲に歪みました。彼女にとっては何百年でしたが、男神にとってはほんのわずかな時間だったはずです。嫌味が通じるはずがありません。


「わたくしがおらずとも、兄上の理想は実現いたしましょう。むしろ、わたくしが災いとなるから地に堕とされたはずでは?」

 太陽の男神は鷹揚にうなずきました。

「あのままそなたを放っておけば、近いうちに真の元凶となったであろう。だが、今のそなたはおのれの過ちに気づいているはずだ。同じ轍は踏むまい」

「……たしかに、愚かなことをしたと悔いております」


 どれだけ願いを叶えてやっても、人間は追放された彼女に手を差し伸べてはくれませんでした。月の存在さえ忘れ、老いを知らない彼女を化け物だと厭いました。


「どうせ人間どもが欲するのは、『月』そのものでございます。兄上がかつてのわたくしを所有しておられるのだから、好きになさればよろしいでしょう」


 月が失われてから太陽の男神になにがあったのか――遠く離れていても半身なだけはあって、彼女にはすべて見えていました。男神に仕えるがために太陽の恩恵を多くあずかる人間たちが、月を戻せと盾突いたのです。

 それでも人間たちが求めるのがあくまで『月』であるのを、彼女は知っていました。


 男神はめずらしく難しい顔をしました。

「ひとつの身にふたつを治めるのは無理がある。器が持たぬ」

「器など、いくらでも再生なさればいい」


 彼女は平然と返しました。


「兄上も地上と関わりすぎたようですし、人の子のように幾度も生まれおちるのも暇つぶしになられてよいではありませぬか。今のように仮宿を設ければ、多少は負担も軽くなりましょう」

「朕に人の身に堕ちろと申すか」

「そのような畏れおおいことは申しておりませぬ。ただ、兄上は兄上で過ちを犯されたということでございます」


 それでも、この偉大な兄は自分の罪を自覚しないのでしょう。

 神はあくまで神であり、間違いを犯す存在ではないのです。たとえ神が誤ったとしても、省みて償う必要はありません。

 実際、彼女もおのれの愚かさは理解していますが、いまだ罪の意識はありませんでした。なぜなら神は世界の基礎であり絶対であるからで、よもやもっとも優れた存在である太陽の男神があやまちを犯すはずがないのです。


「朕が誤ったとは思わぬ」

 彼女の考えどおり、男神はきっぱりと言い切りました。

「だが、状況が思わしくないのは事実だ」

 男神は気分を害するわけでもなく、ただ淡々と、しかし従わざるをえない威圧感をもって続けました。


「そなたも把握しているだろうが、そなたの言う仮宿が制御できずに由々しき事態になっている。あれが人間であるのも一因だろうが、それだけではあるまい」

 ぴくり、と彼女のほおが痙攣しました。

「……なにをおっしゃりたいのですか?」

「繋ぎがない」


 彼女を見下ろしたまま、金の瞳がゆるりと細められます。


「『繋ぐもの』がなければ、朕でも治めることはできぬ。そなたにしかあれは扱えぬのだ」

「ですが、わたくしが地に堕ちてから長い時間が経ちました。この身は地上の汚穢にまみれ、とても天上のものを扱える器ではございませぬ」


 彼女の内にさまざまな負の感情が折り重なっているように、肉体はすっかりと地上のものに染まっていました。

 本来、神は天上のものにしか接しませんし、天上のものしか摂取しません。だからこそ外の存在として世界に関われますし、清浄で完璧な存在でいられるのです。


 けれども彼女は世界の流れに放りこまれ、そこでさまざまなものを取りこみました。天上のものだけでできていた身体とは、いまやまったくの別物なのです。


 それゆえに、太陽の男神に奪われた力を返されても、とうてい扱えるはずがありません。彼女は外の存在でありながら中のものでもあり、どちらの枠にも収まらない、まさに異物なのです。


「その仮宿が制御できずに壊れようが、わたくしの手にはもう負えませぬ。どれほど力を尽くそうが、兄上のご期待には応えられぬでしょう。どうか、わたくしのことはお忘れください」


 しかし、知らないはずがないのに、男神は首を縦に振りませんでした。


「そなたでなければ誰があれを治める? たとえあれを我が身に取り入れようと、この身は長くは待つまい。そなたの言うとおり、人のまねごとをしても限界がある。あれはもともとそなたなのだから、そなたにしか扱えぬのだ」

「兄上もご承知のはずです。わたくしはすでにちがうものとなり果てました」

「そなた以外にはおらぬのだ。放っておけば、いずれ手に負えなくなる」


 彼女は床に座したまま、わずかに退きました。


「わたくしには無理です。この身に受ければ、今度こそ存在もろとも消え去るでしょう」

「そなたしかおらぬ」


 ぞっ、と彼女は戦慄しました。相手はたしかに兄神であるのに、得体のしれないなにかと対峙しているようで――そのいびつな違和から生じた危機感が、彼女を素早く立ちあがらせます。


「目を覚まされよ! 兄上は間違っておられる!」

「穢れているというのなら清めればよい」

「そのように単純ではありますまい!!」


 男神は意見を覆しませんでした。虹彩に宿るひとそろいの太陽で彼女を捕らえ、意のままに従わせようとします。金の輝きはひたすら神々しいのに、彼女にはもはや漆黒の搦め手でしかありません。


(……やはり、兄上が絶対なのだ。兄上があやまつなどありえない。ありえないのだから、苦しむ者も存在しないのだ)


 なぜなら、太陽の男神が世界の基礎であり、絶対であり、正義であるから。

 その正義に反する者は、不義であり排除されるものなのです。


 彼女は恐怖に怯えました。神であった彼女が死という『無』を意識したのは、このときが初めてでした。


「兄上は、初めからわたくしを消すつもりであられたのか。わたくしに辛酸をなめさせ、身を穢し、世界の理から逸脱させて、最後には滅ぼすために地上へ堕とされたのか!?」

「そのような思惑はない。だが、そなたが抗えばそうなるやもしれぬ」


 頭から足先へ、ざあっと砂がこぼれるように彼女の血の気が引いていきました。めまいにかすむ視界の中、太陽の男神が腰を上げ、こちらへ近づいてきます。

 彼女は裾をひるがえして逃げ出そうとしました。しかしあまりの衝撃と恐怖が、足から逃げ出す力を奪ってしまいました。


 兄であり半身であり夫である太陽の男神に殺されるなど、とても信じられませんでした。しかも、男神はおのれの決断が彼女に死をもたらすなど考えてもおらず、結果として死んでしまっても、ぴくりとも眉を動かさないのでしょう。


 あまりの哀しみに、彼女の喉からかすれた悲鳴がもれました。けれども、男神の心にはわずかも響きません。


 すらりとした手が、彼女のなめらかなほおにふれます。よく手入れの行きとどいた指先は絹のようで、男神は硬直する彼女を見下ろしながら、そっ、と慕わしげに指を滑らせました。


 瞬間、彼女は奈落の底へと叩きつけられました。


 全身ががたがたと音を立てて震え出します。毛穴という毛穴から、滝のように汗が流れます。

 うつくしいかんばせも完全に色を失い、もはや立っているのさえ限界です。


 男神のくちびるがゆっくりと開くのを、彼女の瞳がとらえました。言葉を舌に乗せるまでのほんの数瞬、それがはてしなく長い時間に感じられます。


(『名』を呼ばれると同時に、私は消えるのだ……)


 ぐらぐらと揺れていた視界が絶望に食われる直前、彼女を呼ぶ声がしました。


「だめだ、玉鏡」


 それは、この場にはいないはずの人間のものでした。

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