第13話

 極端に狭い通路を無理やり通る感覚に、彼は歯を食いしばって耐えました。身体に縄をつけられ、ぐいぐいと引きずられているようです。水に溺れた上、獣のようにあつかわれ、本当に散々でした。


 苦痛に堪えるあいだ、彼はさまざまなものを見ました。

 見たこともない奇妙な花やおぞましい動物、この世のものとは思えない――実際彼の世界には存在しない、とてもうつくしい獣やため息が出るほどすばらしい光景。虹色に変化する空や火を噴く大地の中を、あわい光の筋が無数に流れています。


 けれどもそれはすべて視点が異なるだけであり、目に映るのは彼も知っている世界だと、おぼろげに理解しました。普段は気づいていないだけで、視点が変われば仰天するようなものが世界にはあふれていたのです。


 そんな奇妙でめまぐるしい光景を眺めていると、急にふわりと身体が浮き、彼は無造作に地面へ投げ出されました。最後まで乱暴なあつかいにすでに辟易していましたが、頭から落ちなかっただけ運がよかったでしょう。


 打った腰をさすりながら立ちあがれば、そこは一風変わった建物の中でした。

 右手には四方を回廊に囲まれた中庭があり、彼の知らない花々が咲き乱れています。芳しい匂いに誘われてか、浅葱色の蝶がひらりひらりと舞い、どこからか小鳥のさえずりと楽の音が聞こえてきました。

 柱はすべてつやのある朱の塗料で塗られており、天井や手すりにいたるまで、緻密な紋様で飾られていました。床に敷き詰められた石材にも模様が刻まれ、頭上を仰げば屋根には黄色い板が整然と葺かれています。爽やかな青空のもとで、それは黄金のようでした。


(ここはいったい……?)


 彼にはまったくわかりませんでしたが、警戒心を抱こうにも、どうしても小さな芽のうちに枯れてしまいました。

 なぜならそこは感嘆するほど絢爛な建物で、五感が受けるすべてが心地よかったからです。楽園、という言葉が頭をよぎります。


(……どうしてこんなところにたどり着いたのだろう)


 彼が様子をうかがっていると、かすかに女性の声がしました。途端、庭園の花とはちがう、甘い香りがあたりに漂います。

 どこか覚えのある匂いに記憶をたどっていると、声の主が回廊の向こうから現れました。


 あまりのまばゆさに、彼は思わずあとずさってしまいました。


 声の主は彼女でした。光沢のあるつややかな素材の衣装をまとい、結いあげた髪にはいくつもの飾りを挿して、楽しそうに回廊を歩いてきます。甘い花の香りはいつも彼女からするものでしたが、馨しさは桁ちがいです。


 軽やかな足取りの彼女は、まさに女神そのものでした。人智を越えた容姿にようやく慣れた彼にさえ、今の彼女は強烈で、ほんの一瞬目にしただけで魂を抜かれてしまいそうでした。なにより彼女自身、あふれんばかりの自信と神々しさに満ち満ちていて、彼の知る彼女とは天と地ほどの差があります。


 女神はふわりふわりと裙をひらめかせながら近づいてきます。彼はまばたきも忘れて、その場に立ち竦むしかありません。


 ようやく立ち直ったのは女神が横を通りすぎ、近くの部屋に入ってからでした。

 彼はあわててあとを追いました。部屋に入ればまた芳醇な香りが鼻腔を満たし、心がふわりと踊ります。

 室内には大輪の花が生けてあったり、山水画の軸が飾ってあったり、翡翠の彫り物や極彩色の壺が棚に並べてあったりしました。どれも彼は初めて見る物ばかりです。


 当の女神は、隣室で巨大な鏡をのぞいていました。縁に宝石をはめこんだ銀の鏡は、彼の知るどれよりも映りがよく、細工もすばらしいものです。

 しかし鏡面に映っているのは女神の顔ではなく、どうやら風景のようでした。それを女神は楽しそうに眺めていました。

 彼もさりげなくのぞきこむと、線で区切られた大地を小さなものが動きまわっていました。おそらく大地は畑で、小さなものは人間でしょう。


 彼はほほえみながら鏡を見つめる女神に、声をかけようとしました。しかし、やはり名前がわからないので、呼びようがありません。


 ずいぶん悩んだあげく、すみません、とだけ言ってみました。けれども女神は反応しませんでした。

(……もしかしたら、あれだけ釘を刺したのに追いかけてきたことを、怒っているのだろうか)

 おそらく、あの忠告は彼女の厚意だったのでしょう。それでも彼は彼女が心配で、とても隠れてはいられなかったのです。


 あきらめずに何度も声をかけてみましたが、女神は無視に徹しました。ぴくりと眉も動かさないかたくなな態度に、やがて彼も腹が立ってきます。それなりに苦労してここまでやってきたのに、あまりにもひどい仕打ちです。


 彼は話し合いをあきらめ、ふたたび鏡をのぞきました。横に並んでも、女神はやはり彼を空気のようにあつかいました。


 鏡の中では、小さな人間がとても素朴な道具で農作業をしていました。服装もかなり質素で、よくよく見れば作物も野生に近い種類です。

 農業は人々の命に直結する大切な事業ですから、どの地域でも品種改良や農具の開発には力をそそぎます。彼の国は特に鉄の加工が得意なので、農具も周辺にくらべて優れていました。そのことを考慮しても、鏡の中の道具はあまりにも粗末でした。


 その違和を彼が訝しんでいると、女神は右手をすいと動かしました。

 すると、鏡の中で雨が降りはじめました。

 慈雨は畑を潤し、疲れた人々の顔にも笑顔を咲かせます。そしてふたたび手を動かせば、雨はぱたりと止みました。


 映る風景が変わり、今度は渓谷を流れる濁流が見えました。

 上流で豪雨でもあったのか、土砂に濁った川は山肌をけずりながら流れていきます。あっけなく流れに消える大木や岩に、このままでは下流で大きな被害が出るだろうと彼は思いました。

 しかし、女神が手を振りかざせば見る間に濁流は治まり、水は清らかさを取り戻しました。


 彼は目を瞠りながら、女神と鏡を見比べました。横顔には少女のような愛らしい笑みがあり、それだけを注目すれば彼の心も満ちたりたでしょう。けれども、女神が起こしただろう自然への介入に、ひたすら驚くばかりでした。


「――失礼いたします」


 女神以外の女性の声に、彼ははっとしました。

 いつのまにか、入口に女神と似た衣装の人が立っていました。彼はとっさに身構えたのですが、女性――おそらく女官か侍女は、まったく気づいていないようでした。

 女神は鏡面から視線を上げてふりかえります。ふわりと揺れた黒髪から、花の匂いがしました。


「何だ」

「男神様がお召しでございます」

「また兄上か」


 柳眉をひそめつつも、女神はすらりと椅子から立ちあがりました。

 軽やかな身のこなしで一歩を踏み出し――ためらいもなく突進してきた女神に、彼は避ける暇もなくぶつかってしまいました。

 ですが予想した衝撃はいつまでも訪れず、それどころか女神はするりと彼の身体をすりぬけて部屋を出ていってしまったのです。


 なにが起こったのか、とっさに理解できませんでした。そっと銀の鏡に手を伸ばせば、彼の指先は空を泳ぎました。白くきらめく縁飾りの凹凸も感じられません。


 彼は急いで女神のあとを追いかけました。廊下へ出れば、すぐにうしろ姿が見つかります。

 しゃらしゃらと歩揺を歌わせながら歩く女神の横に並ぶと、彼は断ってから細い肩に手を伸ばしました。予想どおり、手は女神をすりぬけてしまいました。


「兄上は、私のすべてが気に入らぬのだ」

 女神が小さな声で言いました。

「兄上はなにもわかっておられない。話も聞いてくださらぬ」


 女神様、と背後にひかえる女官がたしなめました。

「男神様は女神様を心配していらっしゃるのです。そのようなことをおっしゃってはなりませぬ」

 女神は朱唇をいびつにつり上げました。

「兄上が心配しておられるのは私ではない」

 それきり、女神は黙ってしまいました。女官も主に従い、口を閉ざします。


 回廊の先は広々とした庭園に繋がっていて、池にかかる橋を渡って階段をのぼった先に、目的の場所はありました。

 高台になったそこからの眺望はすばらしく、眼下には峻険な山々が連なっています。頂を凍らせる青白い雪を見るに、かなりの標高があるはずですが、ここはあまりにも麗らかな陽気でした。


 女神は絶景に足を竦ませることも見とれることもなく、建物へ入っていきました。彼も女神のあとに続きます。

「失礼いたします」

 返答も待たずに女神は入室し、奥の部屋へと向かいました。造りは女神の部屋と同じようですが、調度品の趣味が異なるのか、厳かな印象を受けました。


 女神は隣室へ入ると優雅に礼をしました。

「お召しとうかがい、参りました」

「面を上げよ」


 扉の影からそっと中をのぞいた彼は、その瞬間、全身が総毛立つのを感じました。足の先から脳天にまで走った怖気に、脂汗がどっと噴き出し、肌をしたたります。神経は茨のようにとげとげしくなり、今にも内側から血が噴き出しそうです。


 ――見てはいけない。

 警鐘が割れんばかりに鳴り響きます。それは彼の本能からの拒絶反応であり、絶対的な存在に対する畏怖でした。

 それでも彼はおのれを叱咤して、物陰から室内を盗み見ました。いくらのぞこうが、相手が自分に気づかない自信があったのです。


 相手は長椅子に腰かけており、女神はその向かい側に用意された椅子に着きました。


 相手はとても整った顔立ちをしていました。どこか中性的な容姿に目立った感情はなく、とても精巧な人形のようです。身にまとう衣は彼の知る技術ではとても真似できず、貴石をふんだんに使用した装飾品も人間にはとうてい作り出せないでしょう。漆黒の髪はひとつに結いあげ、頭頂に箱形をした金の冠をかぶっていました。

 なにより彼が怯えたのは、その存在が持つ瞳でした。女神の双眸が銀河であるように、それは黄金色に燃える太陽そのものだったのです。

 彼はひととおり様子をたしかめると、すぐにのぞき見るのをやめました。万が一にでも視線が合うものなら心臓が止まってしまいそうだったからです。


「相も変わらず、下界に手を出しているようだな」

 相手――女神の兄である太陽の男神が言いました。


「手を出しているのではありませぬ。手を差し伸べているのでございます」

「同じことだ。そなたの行いは、世界の理をねじ曲げる。利己的な行為だ」

「利己的ではありませぬ。わたくしは人間のためを想い、ほんのわずかに助勢しているのでございます」

「それこそそなたの自己満足でしかない」


 衣ずれがして、どちらかが身じろいだのがわかりました。


「この世界のものは、すべてひとつの流れに従い存在している。それが世界の理であり、根本でもある。それを世界の基礎であるそなたが乱してどうするのだ」

「それは存じております。ですから、流れを乱さぬ程度のことしかしておりませぬ」

「程度の問題ではない。そなたは些事ととらえているのだろうが、理に反して雨を降らせれば、降るはずの場所で水が涸れる。氾濫するだろう川を治めれば、肥えるはずの土地が痩せる。そなたは目前のことしか見ていない」

「人間は弱い生き物でございます。ほかの生物ならいざ知らず、荒ぶる自然の中ではとうてい生き残れますまい。わたくしが手を貸してやらねば滅びてしまいます」

「驕るな」


 声は戦慄するほど酷烈な響きでした。自分が諫められたわけでもないのに、彼の背すじを寒気が走ります。


「そなたは弱いと言うが、人間はしたたかな生き物だ。そなたが手を貸さずとも、みずから生き残る術を得られる。たとえそれができずとも人間の責任であり、哀れむことではない。今までにも滅んだ生物は数多とある」


 ふ、と男神はため息をついたようでした。


「なにゆえそなたは人間に執心する? 我々に似ているからか」

「……兄上にはわかりますまい」

「そなたが子を想う母のように、人間に世話を焼きたくなる気持ちはわからないでもない。姿形は似ているが、我々に比べ、ひ弱な生き物だ。だがほかの生物とはちがい、知恵があり文明があり、なにより我々に対する信仰がある。ゆえに目をかけたくなるのだろう」

「では、なにゆえ兄上は気に入られぬのですか」

「気に入らぬのではない。そなたは間違っていると言っている」

「では兄上は間違っておらぬとおっしゃるのですか。兄上の一存で裁かれる者たちはどうなるのです?」

「所詮、我々は神で、あれらは人間だ。箱庭の秩序を正すのも我らの役目だ」

「たしかに驕慢な者を正すのは必要かと思いますが、兄上の気分で断罪されてはたまりますまい」


 ふたりはそれきり押し黙りました。

 空気は緊張に張りつめ、彼も呼吸を忘れてじっとしていました。

 太陽と月の二神はけして声を荒らげてはいませんが、断固とした意思による気迫は、人間である彼を震えあがらせるには充分でした。もし室内にいたならば、とうの昔に気を失っていたでしょう。


 無限に続くかと思われた沈黙は、やがて男神によって破られました。

「そろそろそなたの時間だ」

 玉のふれあう音とともに、女神が立ちあがりました。

「それでは下がらせていただきます」

 ふたたび淑やかに頭を下げると、女神は足早に退室しました。


 彼もふりかえらずに女神に続きました。いくら姿が見えなくても、一刻も早くこの場を去りたかったのです。池のある庭園まで戻ってくると、ようやく肩の緊張がほぐれていきました。


 いまだに速度をゆるめない女神のうしろ姿を見つめながら、冷静になった思考で状況を整理します。

 鏡に映った時代遅れの人々。女神の様子や、男神との会話から察するに――。


(おそらく、これは女神の記憶だ)


 だから自分は関われないのだと、彼は悟りました。

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