第9話

「……なんだと?」


 しばらくの静寂しじまののち、彼女がぽつりとつぶやきました。

 それは驚きからでしたが、やがてふつふつと怒りが沸いてきたようでした。さきほどとは比べものにならない激情が彼女に灯り、みるみると強大な火柱へと成長していきます。


「どういう意味だ」

「私は、私の代であなたを見つけたくはなかったのです」

「だからどういう意味かと訊いている」


 一度口にしたからには翻すのは不可能だと、彼も覚悟していました。有無を言わせぬ声音に怯むことなく、冷静に対峙します。


「私は〈星の民ウァソ・ハマン〉の長として、または王として、女神を見つけるのはなによりも優先すべき使命だと、幼い頃から教えられてきました。父も祖父もそのまた祖父も、喉から手が出るほどあなたを渇望し、そして叶わず死んでいったのです。さきほどあなたが追い払ったすべての者がです」


 それはほとんど本能であり――自分こそが女神を逆境から救うのだと彼らは信じ、そして無念のうちに死んでいったのです。

 月が失われてからの幾百年を、くりかえしくりかえし受け継がれてきた想い。そんなはてしない想いを背負うのだと知ったとき、彼は恐怖に竦みました。彼の想像にあまるほどの長い年月と大勢の人の願いは、どんな荷よりも重く肩にのしかかったのです。


 彼は自分が平凡で、目立った才能を持たないのをよく理解していました。大人の言うことをよく聞くおとなしい子ども、というのが彼の評価でした。一方の弟は傲慢ながらも人を惹きつける魅力を持っており、注目を集めるのは必ず弟の方です。

 そんな彼に、父親は「おまえはおとなしすぎる」とよく言いました。弟びいきの祖父は、最期まで弟が後継者にふさわしいと主張していたほどでした。

 幸か不幸か――父王が急逝したとき、彼は成人する歳であり、弟はまだ十二歳でした。おとなしく目立たない存在であっても、跡継ぎとして育てられてきた成人の彼が王位を継ぐのが、自然の流れでした。

 そうしてようやく王という立場に慣れてきた頃、彼女を拾ってしまったのです。


「彼らは狂信的なまでにあなたを求めていましたが、私は見つけたくはなかった。神は神で、そのまま姿を現さずにいてほしかった。姿がなく捜し求めるからこその女神であって、すでに一種の信仰が成り立っているのです。それを壊してしまったら、私はどうすればいいのかわからなかった。私になにができるとも思えなかった」


 ですが現実に、女神は彼の目の前にいるのです。この世のものとは思えない美貌と力を持つ存在が。


「……なるほど。だからふさわしくないのか」

 ひとりごとにしては大きな呟きに、彼は首を傾げました。

「何ですか?」

「おまえが意識を失っているときに、あれらが言っていた。これは長としての覚悟が足りぬと」

「そうですね。私には覚悟が足りません」

「とんだ王だな。民も哀れな」

「そうですね。……少なくとも長としては、私は失格でしょう」


 嫌味なのは承知していましたが、自覚があったので否定はしませんでした。それが彼女には不服だったのか、目元がぴくりと痙攣します。


「王になるのも長になるのも、私が長男として生まれた瞬間に決まったことです。ですから、どれほど足掻いても逃れられるものではありませんし、自分のさだめだと受け入れられました。しかしあなたに関してはちがいます。誰ひとりとして負わずに済んだものを、なぜ私が背負わなければならないのか。なぜ傑物でもない私が、あなたを見つけてしまったのか」

 彼は微動だにしない女神を見据えて、そっとたずねました。


「――なぜ、私のときに現れたのですか」


 彼の問いは、ほとんど批難でした。緊張に冷え切っていた空気はさらに凍てつき、厳寒の湖を覆う氷のように厚く牢固な壁が、ふたりのあいだに築かれます。それはどれほど努力しようと砕けない、二度と引き返せないところまで来てしまった証でした。

 それでも、彼に撤回する気はありませんでした。彼女の中で燻りつづける憤懣と同じように、彼がひそめつづけてきたものが目覚めてしまったのです。深く深く、誰にも知られないように長年隠してきたものは、女神の登場によって揺さぶられてしまったのです。


「……なぜ、だと?」

 ふ、と彼女の吐息の分だけ空気が震えました。玲瓏な響きに、すでにあたたかさはありません。


「そんなもの、私は知らぬ。あのとき、私はあそこに倒れていただけであって、おまえに拾われようなどと考えていない。そもそもおまえたちの長が誰なのか、私がいちいち把握しているわけがないだろう」

「ではどうして、あそこにいたのですか。なぜあのとき、あの場所におられたのですか」

「単なる偶然だ」

「なぜあと少し――あと二年ほど早く来られなかったのですか? なぜ父が健在のときに現れなかったのですか。神々にとって二年など、ほんのまばたきほどの時間でしょう」


 彼の父も多分にもれず、女神をねがった人でした。

 彼はふと考えたものです。もし父ならば女神をどのように迎えただろうか――と。

 それとも父王が事故で亡くなったのが、なにかの間違いだったのでしょうか。父が生きていたならば、あの日あの道を通ったのは、彼ではなく父王だったのですから。

 けれども現実は父王を殺し、彼を選んだのでした。おそらく代々の家長の中で、もっとも女神を求めていなかった彼を。


「あなたは私になにをさせたいのですか? 私の前に燦然と現れて、どのような試練を与えようと……」

「黙れ」


 彼女の一喝に、彼の興奮は冷めていきました。けっして大声ではありませんでしたが、それはどんな統率者の一声よりも猛々しく彼を打ちました。


「私はおまえになにも求めていない。おまえたちが勝手に私を求めただけだ」

 彼は鼻筋にしわを寄せて反論しました。

「ですが、あなたは神であられる。人間が神を求めるのは当然ではないですか。そして人が神に救いを求めるのも、至極当然ではないですか?」

「それこそ人間の驕りだな。神が無条件にすべてを救うほど慈悲深いと言うのか? 勝手に求められて律儀に応えるほど、神は懐深くない」

「では、人はなにに祈り、救いを求めればいいのですか」

「知らぬ。少なくとも私ではないな」

「あなたは、あなたに縋る我々を見捨てるというのですか!」

「おのれの弱さを私に押しつけるな!!」


 彼は言葉を失いました。彼女の言うとおりだったからです。

 若くして王冠を戴いたのも、彼女を拾ったのも、彼女の処遇に頭を悩ませていることも、そして負いたくなかった重責を担うはめになったのも、すべて女神である彼女に押しつけてしまえばいいと、心のどこかで思ったのです。人をはるかに超越した存在なのだから問題ないと、自分の無力さから目を背けていたのです。


 彼女はそれを見抜き、いかにも穢らわしげに彼を蔑みました。それは出会ってから初めて見る、とても険しい表情でした。


「私に神を求めるな」


 彼女はそう吐き捨てると、荒々しい足どりで退室していきました。下がっていた女官が現れ、事のなりゆきに右往左往としています。

 彼の全身は稲妻に縛められたかのように痺れ、ぴくりとも動けませんでした。なによりも、心が凍りついてしまってなにも考えられませんでした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る