015

 とりあえず滞在しているホテルの部屋へジキル博士を連行してすぐ、エドワーズたち三人は世にも奇怪な光景を目の当たりにした。

 ジキル博士は突然叫び声を上げて、悶え苦しみ出した。医者を呼ぶべきか迷ったが、彼はあえぎながら「不要」と告げ、そうこうしているうちにヘンリー・ジキルの善良そのものだった人相が溶け落ちるかのように変貌し、また全身のあちらこちらが膨れ上がったりしぼんだりして、みるみるうちにそのカタチを変え――やがて彼らが手配書の人相書きで何度も見た、あの醜悪なエドワード・ハイドへと変身を遂げた。つまりはトーマス・スタビンズ博士の持つ写真と同じ、若きジェームズ・モリアーティ青年うりふたつの姿だ。ただし目の前にいる彼のほうが、より凶悪な面構えである。見た目のささいな違いではなく、にじみ出る雰囲気の差だ。

 部屋の中心で彼をイスに座らせ、三人が取り囲むようにして見下ろす。尋問の主導権は依頼人であるマイクロフトに与えられた。

「ミスター・ハイド、それともジキル博士と呼んだほうが?」

「おまえらの好きに呼ぶがいいさ。もはや今の俺は、その区別にたいした意味を見出さないからな」

「では、ジキル博士と。私に用があるのは、あくまで医学博士としてのあなたですから。当然、最低限の敬意を表させてもらいます。エドワーズ、彼の手錠を外して差し上げてくれ」

「いいのか?」

「この状況で逃げられると思うほど、彼もバカではあるまい。それと、たとえ暴れたところで、こちらには優秀な用心棒がいる」

「おまかせください。僕の直心影流は無敵ですから」

 マイクロフトの希望したとおり、手錠のカギを開けてジキル博士の両手を自由にさせた。新十郎だけではなく、エドワーズも何かあれば即座にピストルを抜けるよう、警戒を怠らない。

「英国へ戻ったら、俺は絞首刑になるんだろうな」

「それは裁判の結果しだいでしょうね。まァ取り調べに協力的であれば、判事の心証は多少よくなるかと。死刑を逃れるチャンスはあります。――さて、まずはあなたに訃報を伝えなければならない。あなたの友人であるアタスン氏が亡くなりました。死因は首吊りによる縊死。ようするに自殺です」

 そう告げられたジキル博士は、目に見えて落ち込んでいるように見えた。「自殺……もしかして、俺のせいか……?」

「それは不明です。肝心の遺書が見つかっていないので。一応、自殺以外の可能性がないか捜査しましたが、おそらく自殺で間違いないと見ていいでしょう。……そして、ここからが本題になりますが、私は捜査の過程であなたが書いた例の手紙を読みました」

「……ナルホド。どうりでジキルの姿なのに一目でハイドと見抜いたり、ハイドへ変身する瞬間を見てもほとんど動じなかったワケだ」

「実際この目で見るまで半信半疑でしたがね。事情を知らないほかのふたりのためにも、あなたの口から直接語っていただきたい」

「あの手紙の内容を?」

「すべてを。手紙に書いた内容だけではなく、あなたが手紙に書かなかったコトも。手紙を書いたあとに起きたコトも。あなたが作ったあの秘薬の効用と、秘薬を作った目的。アメリカでの行動について。なぜアイルランド独立運動を支援しようとしていたのか。あちらこちらで秘薬をバラまいたのはなぜか。そしてなぜハイドとなったあなたは、若き日のジェームズ・モリアーティ教授にソックリなのか」

「それをあまさず語るのは、さすがに時間がかかりすぎる。まァ要点をかいつまんで話すとしようか。ジャス――ジェームズ・モリアーティと俺の関係については知っているのか?」

「存じています。スタビンズ博士から話をうかがいました」

「ほう、アイツと会えたとは運がいい。元気だったか?」

「ええ。インド人の若い弟子を取っていらっしゃいました」

「そうかい。そいつはよかったぜ。……さて、トミーから聞いてるんなら話は早い。俺は学生時代、ジャスからありとあらゆる悪い遊びを教わり、みごとにハマっちまったが、そのうち大人としての節度を身に着け、あさましい欲望を理性で抑え込めるようになった。その努力のおかげで、私はロンドンで名高い紳士になれたワケだが。

 ……しかしその一方で、心の奥深くにはずっと、若いころ経験した悪徳の快楽を味わいたいと求める、もうひとりの俺がいた。つまりはこの俺だ。だがその欲求に身をまかせるコトは、皮肉にも歳を重ねるごとにむずかしくなっていった。これまで必死で積み上げてきた名誉と栄光は捨てがたく、また昔よりも羞恥心が増してしまい、恥ずべき愉悦に心おきなくひたれるか、不安もあった。私が別人になりたいと夢見るまでに、そう長く時間がかからなかったコトは、キミたちでも容易に想像がつくだろう。

 もしおのれの人格を善と悪に分裂させて、別々の肉体に宿すコトができたなら、どんなにすばらしいだろうか。善なる私は、おのれの破廉恥な欲望をうしろ暗く思わずに済み、対して悪なる俺は、まっとうな倫理道徳および良心の呵責に囚われずにいられる。そういう淫靡な妄想を抱くだけで、股ぐらがいきり立っちまったもんだぜ。その白日夢を現実とするには、どうすればいいか――私は長年培った薬学の知識を駆使し、この問題を解決できないか研究を始めた。

 そもそも人間の外見というものは、日ごろのおこないで形成されていくところが大きい。例えば怒りっぽい者は、年老いてからシワが鬼の形相で刻まれ、逆に心優しい者は、聖母のごとき慈愛の面貌を得る。キミたちもこれにかぎらず、善人は善人らしく、悪人は悪人らしく、内面と外見の一致した人間に少なからず心当たりがあるだろう。むろん例外的に、天使の顔をした悪魔、娼婦の肢体を持った聖女も存在しなくはないが、やはり彼らも表向きは、外見どおりの人物を装っている場合が多い。ようするに本性がどうであろうと、結局は日常的な行動しだいというワケだ。

 けれども、舌の根も乾かぬうちにおのれの言った内容を否定するようで恐縮だが、ときに人間は、隠された本性がおもてに引きずり出されるコトもある。例えば酒やアヘンに酔いしれているとき、例えばいつもは聖母のごとき母親がわが子を叱るとき、例えば長年連れ添った伴侶を失って悲嘆に暮れているとき、例えば目もくらむような金銀財宝を目の前にしたとき――ふだんの日常とは違う一面を垣間見た際、キミたちもこう感じたコトはないかな? まるで別人のようだ、と。これらは大抵、一時的な印象で終わるものだが、恒常的に変貌を遂げるコトもある。重度の薬物中毒者が良い例だろう。

 私はそれらの疑いようもない事実を鑑みた末、特殊な薬物の力でもって、ふだんは抑え込まれている人間の本性をおもてへと引きずり出し、さらにその本性と見合った仮初めの肉体へと変身させるコトは、十分可能だと判断するに至ったのだ。そして実験に実験を重ね――東インド会社製のアヘンチンキをベースに、数種のリン酸化合物を加えた薬液と、マサチューセッツ州の港町インスマウスの海水から採取された結晶塩を混ぜ合わせるコトで、ついに私が望むとおりの薬効を得られると突き止めた。その結果は、ごらんのありさまってワケだ。

 初めて実験に成功し、新たな肉体を得て最初に吸った空気の美味さは、言葉ではとても伝えられねえほどの歓喜に、俺を陶酔させてくれた。新たな肉体には新たな名前が必要だ。私は、俺が隠れてハイドいた本性であるコトと、好色で有名なイングランド王エドワード四世にちなみ、俺をエドワード・ハイドと名付けた。

 ただし、実験には思わぬ誤算もあった。ハイドとしての俺が、善良さのいっさいを切り離せたのに対して、ジキルとしての私は、従来と変わらず善悪両方を併せ持つ、悩める仔羊のままだった。とはいえハイドに変身できるようになったおかげで、以前に比べるとかなり気分はラクになったが。

 ほかにうれしい誤算もあった。単に別人へと変身できただけじゃなくて、年齢まで若返ったコトだ。年老いて衰えた体力で、下劣な遊戯を昔と同じように愉しめるか不安もあったしな。こうなった理由はおそらく、ふたつ考えられる。ひとつはハイドが長年封じ込められたままで、人生の九割を善良な人間として過ごしてきたから、邪悪が活動して疲れるヒマがなかったせいだろう。もうひとつの理由は、私にとっての邪悪とは、すなわち青春をともに過ごした無二の悪友、ジェームズ・モリアーティそのものだったからだ。私は裕福な家に生まれ、穏やかな環境で順風満帆に成長してきた、いわば未使用の真っ白なカンバスだった。それをジャスは自分好みの色へと染め上げたのだ。

 話は前後するが、あとあとジャスがIRBの活動に関与していたコトと、スコットランドヤードに殺されたってうわさを聞いた。それでアメリカへ渡ったあと、アイルランド移民がけっこう多いコトを知って、ふとひらめいたのさ。アイルランド独立運動を支援してやったら、わが友はよろこんでくれるんじゃねえか――ってな。ようするに、手向けの花代わりってトコだ。

 話を戻すぜ。こうして第二の人生を手に入れた俺は、まさしくこの世の春を謳歌し始めたワケだが――破滅が訪れるまでに、そう長い時間はかからなかった。もともと私がいだいていた欲求は、言ってしまえば単に背徳的で淫靡というだけのものに過ぎなかった。しかしハイドとして行為に耽っているうち、欲求がしだいにエスカレートしてきやがった。ただ過激になるだけならまだしも、ジキルなら逆立ちしても絶対やらなかったであろう悪事にまで、手を染めるようになっていった。曲がり角でぶつかった少女を容赦なく踏みつけにしたコトや、ダンヴァース・カルー卿殺害などはその最たるものだ。私が解き放った野獣は、徐々にその残忍さと凶悪さを成長させていく。私は理解に苦しんだが、俺はただムシャクシャして暴れたかっただけなのにな。いつもジキルに戻ってから、ハイドのおこないに良心の呵責ばかり感じていた。

 さらに追い打ちをかけたのは、ジキルとハイドの立場が、少しずつ入れ替わり始めたコトだ。秘薬の効果はもともと不安定で、ときに二倍飲まなければ変身できないコトもあったし、三倍でなければ効かないコトもあった。そうして秘薬を使う量がだんだん増えていくうち、やがてふとしたときをさかいに、秘薬なしでも勝手にハイドへ変身してしまうようになった。そのタイミングは突然でまったく予測できず、私の精神はみるみる疲弊した。しばらく秘薬の使用を控えてみてもムダだった。そしてついには、秘薬がなければ俺がジキルへ戻るコトも出来なくなってしまったのだ。

 この上さらに、状況は悪化の一途をたどっていく。はじめに作った秘薬が残り少なくなってきたので、私はふたたび材料を調達した。けれども、まったく同じ材料を同じ手順で調合しているハズにもかかわらず、秘薬が出来上がらなかったのだ。本来、材料のチンキ剤と結晶塩を混ぜ合わせると、最初は赤みを帯びていたのが、結晶が溶けるにしたがって明るみを増し、ブツブツと音を立てて沸騰しはじめ、そのうち小さく湯気が立ちのぼったかと思うと瞬間、沸騰が収まって薬液は暗紫色へ変化、さらにゆっくり時間をかけて淡い緑色へと変わる。しかし、新たに仕入れた材料で何度も試してみたのだが、沸騰して一度目の変色は起こっても、二度目の変色へ至らない。

 私は結晶塩に不純物が混ざっているせいだと考え、執事のプールを使ってロンドンじゅう探させたが、すべて徒労に終わってしまった。最終的に、私はこう結論づけざるをえなかった――最初使った結晶塩に混ざっていた不純物こそが、奇跡の薬効をもたらしたに違いない、と。

 ジキルの姿に戻れさえすれば、私は誰はばかるコトなく、大手を振ってロンドンの往来を歩ける。だがハイドのままでいるかぎり、俺はおぞましき殺人犯だ。残された最後の秘薬でジキルへ戻った私は、アタスンへ告白の手紙を書いたのち、ロンドンから――英国から逃亡した。ハイドでいるとき、不思議と頭脳が研ぎ澄まされて、精神はしなやかで何事にも動じなくなる。スコットランドヤードの目をかいくぐるのはカンタンだったぜ。

 そしてリバプールから定期船に乗り、目指すははるかなるアメリカ。誰もが大きな夢を抱ける、自由の国へ」

「そこまでは手紙に書いてあったとおりです。問題はアメリカへわたってからだ。そもそもあなたは、偶然生み出された秘薬が尽きたせいで、もとの姿へ戻れなくなっていたハズ。それなのにいったいどうやって、秘薬をふたたび作るコトができたんです?」

「何のコトはない。またもや偶然に助けられたのさ。無事にニューヨーク港へ到着した俺は、自由の身を満喫したくなった。しばらくロンドンの屋敷に引きこもったままだで、最近ご無沙汰だった、お愉しみってヤツをな。ソーホーでの知識と経験を総動員して探してみれば、男娼のいる場所はすぐにわかった。ちょうど俺好みのヤツがいたからソイツを買って、アヘンでハイになりながら肛門性交マジサイコー――と、そこで異変が発生した。男娼が俺の精液をケツ穴で搾り取ったとたん、突然苦しみ出したんだ――ってオイ! あからさまにイヤそうなツラしてんじゃねえよてめえら! 失礼なヤツらだ。俺はべつにここで話をやめたっていいんだぜ」

「……悪かった。どうぞ続けてくれ。いや、続けてください」

「まったく――それで、えー、どこまでしゃべったっけ? ――そうそう、セディのキュートなケツに突っ込んで、濃厚な精液ぶっ放してやったトコまでだったな。ああ、セディってのは男娼の名前だ。気品のあるたたずまいから〈小公子〉って呼ばれてて、でも秘薬のせいで〈小公女〉になっちまったんだが――」

「男娼のコトはいいから! さっさと話を先へ進めろ!」

「そうカッカするなよ。チョットしたジョークじゃねえか。まァそれで、だ。最初は絶頂しすぎておかしくなっちまったのかと思ったが、どうも彼の様子がおかしい。どうしようかとあわてふためいているうちに、セディのカラダがみるみる縮んでいって、なんと肉づきのいい美少女へと変貌しちまったじゃねえか! ふざけんなコノヤロウッ! 俺にそっちの趣味はねえんだバーカ! ――とまァ怒りはさておき、俺は幸運にも、とんでもない事実に気がついた。俺自身のカラダが、秘薬となっているコトに。

 それがわかってから、ふたたび実験の日々が舞い戻って来た。精液だけじゃなくて体液なら何でも薬として使えたが、特に効果が出やすいのはヤッパリ精液と、それから血液だった。しばらくはかつてと同じくアヘンチンキに混ぜて使っていたが、結局それはムダな手間に過ぎなくて、よけいな調合はいっさい必要ないコトが判明した。ただ相手の飲み物にでも、この血を一滴垂らしてやればそれでいい。

 しかも以前とは違って、接種する分量で薬効を調整できるようになった。少量であれば抑圧されていた心を表に出すだけで、姿かたちまでは変えないコトも可能だ。それとまだ試してはいなかったが、もし相当な量を接種させたら、あるいは俺と同じ存在を作り出せるかもしれない――とにかくこれで、格段に使い勝手がよくなったと言えるだろう。

 シカゴではまじめな職人を偽札作りに引き込み、ニューオーリンズでは労働者のくすぶっていた不満を爆発させてやった。それからテキサスでのソーヤー一味――もともとロンドンにいた段階で仮説を立てていたが、私の作った秘薬はあくまで、その人間の隠された本性を暴き出すだけのものであって、善人が使って悪人になるのなら、逆に悪人が使えば善人になるのではないか。どんな人間も心に善悪両方を抱えている。だったら悪人にも良心はあるだろう。そして良心を抑え込んでいるなら、秘薬は容赦なくそれを引きずり出すハズだ。ソーヤー一味を使った実験は大成功で、良心に目覚めたメンバーの脱走を大勢誘発できた。

 こうしてロンドンでの研究と比べて、研究は飛躍的に進歩を遂げた――だが肝心の、ジキルの姿へ戻るという目的は、いまだ果たせないままだった。考えてみればアタリマエの話だ。俺が自分の体液を接種したところで、効果なんか出るワケがねえ。しかし俺は幸運だった。またも偶然に助けられたのさ。きっと神のご加護に違いねえ。とはいえ、正直なところ地獄を垣間見たがね。

 トム・ソーヤーに目をつけられて、騎兵隊を引きつけるオトリ役をやらされた俺は、逃げるとき肩に被弾して、けっこうな量を出血した――そのときだった。あのなつかしい感覚が、俺のカラダに走ったのは。気がつくと私は、ふたたびヘンリー・ジキルへと戻っていたのだ。わかってみれば実に単純なカラクリで、全身の体液が秘薬として効果を発揮しているなら、カラダから抜いてしまえばよかったのだ。ようするに瀉血だ。

 むろん、大量に血液が失われるのは大きなリスクをともなうものの、リスクを犯すだけのメリットはある。完全に元通りとはいかないが、十分満足いく結果と言えるだろう。

 ――以上が、ジキルとハイドにまつわる秘密のすべてだ」

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