016 スーツにエプロン

 俺は高見さんを連れて、予定通り銀座周辺の画廊を訪問しはじめた。

 納品なのだが、大きな絵画を10点近く落札してくれた画廊もある。車から降ろし画廊の中に運ぶのは、それなりに力仕事でもあった。


 高見さんは軽い冗談なんかを口にしながら率先そっせんして手伝ってくれようとする。


「大沼さん! 『パワフル』&『器用』のこの高見が、じゃんじゃん運びますから指示してくださいね。どの絵を持っていけばいいスか?」


 ありがたい。でも、彼女のおろしたての新品のスーツが、初日で汚れるのはさすがに気の毒だ。

 俺は彼女にエプロンを差し出した。


「高見さんは、エプロンを持って来ていないですよね? このエプロンを使ってください」

「えっ?」

「先週のオークションの後片付けが終わった後、洗濯したので綺麗ですよ」


 高見さんは俺の黒いエプロンを受け取ると尋ねてきた。


「大沼さんは、普段からエプロンを持ち歩いているんですか?」

「集荷や納品がたくさんあるときは、エプロンを用意しておきますね」

「そうなんだ……。でも、アタシがエプロンを使ったら、大沼さんのスーツが汚れちゃうんじゃ? 余分よぶんはないんですよね?」


 高見さんが心配そうな顔でそう言うので、俺はにっこりと笑顔をつくった。


「大丈夫ですよ。俺は汚れるのそれほど気にしていませんから。一応、訪問先でスーツが汚れていたらお客さんに与える印象が悪いかなと思って、集荷や納品が多そうなときはエプロンを持ち歩いてはいますけど」

「でも……」

「本当に気にしないでください。高見さんと違って俺は何着もスーツを持っていますし。まあ、ほとんど安いやつですけど」


 スーツは本当に何着も持っている。父親からプレゼントされたオーダーメイドのスーツ以外は、すべて作業着みたいなものだと割り切っている。

 俺は無趣味で、普段はあまりお金を使うような生活をしていない。

 ときどき一人でおいしいものを食べに行ったり、思いついたように仕事用の革靴や安いスーツを買うのにお金を使うくらいなのだ。


 おかげで33歳になるころには、それなりの金額が銀行の口座に貯まっていた。

 まあ、今は26歳なのだけど、贅沢ぜいたくしなければお金には困らないくらいの給料はもらっている。


 家にある通帳の残高は、念のためにこの間しっかり確認しておいた。7年前の生活を思い出し、通帳の隠し場所を探してみたら通帳はきちんとそこにあったのである。


 俺は高見さんと二人で、次々と納品を済ませていった。

 先週のオークションで落札してもらった作品を各画廊に納めながら、銀座周辺をぐるぐる巡る。


 本来は落札者が作品をオークションハウスまで引き取りに来るか、運送業者を介して納品するのが基本だ。

 送料などは落札者側が負担することになっている。


 けれど俺は、会社からそれほど離れていない場所にある画廊などで、いつもうちの会社を利用してくれるお得意様には、営業も兼ねて納品サービスを行っていた。その代わり次の出品もきちんと検討していただく。

 お互いに利益があるからこそ、納品をサービスしているわけだ。


 画廊から画廊への移動中、高見さんが言った。


「大沼さん。営業としては当たり前ですけど、納品しながらオークションへの出品もお願いするんですね?」

「はい。秋のメインセールが近いですからいつもより余計に。今は通常のオークションへの出品物を集めていますけど、次はメインセールの高額作品を集めなくてはいけません。だからこうして納品しながら、探りをいれているわけですよ」


 高見さんが質問を続ける。


「メインセールって、普段よりもお高めの作品を扱うんですよね。高額作品ばかりを集めるのって、かなり大変なんですか?」

「はい。正直、すげえ大変です」

「やっぱり」


 助手席の高見さんはスーツにエプロン姿だ。いちいちエプロンを脱ぐのが面倒なのだろう。

 納品時なんか、車のパーキングから画廊まで、スーツにエプロン姿で道を歩いている。

 チョコレート色の新品のスーツで銀座を歩きたいとか、お客さんの前に立ちたいとかそういう気持ちよりも、いちいちエプロンを脱ぐことの面倒臭さが彼女の中ではまさったのだと思われる。


 メインセールの話題になったので、俺は自分たちの会社の弱点を後輩にハッキリと教えてあげることにした。


「高見さん。うちのオークション会社って、美術品としてはどちらかというと手頃な価格帯の作品を扱うことが多いですよね?」

「はい」

「だから逆に、高額作品の集め方が他のオークション会社より少し下手なのかも……です」

「えっ……」


 と、高見さんは小さく声を漏らした。

 それから数秒の沈黙の後、彼女が尋ねてくる。


「あ、あの……大沼さん。うちって、ひょっとして弱小オークション会社なんですか?」

「弱小……ってことはないと思います。まあ、業界3位~4位あたりをウロウロしていますけど」

「プロ野球でたとえると、業界2位まで何ゲーム差くらいですか?」


 んっ……?

 プロ野球で?


 俺は小首をかしげながら訊いた。


「高見さんって、野球に詳しいんですか?」

「いえ。詳しくはないですけど、父親が昔から好きなもので、ぼんやりとは」


 俺も彼女と同じだ。

 俺自身は野球に詳しくない。けれど、父親が野球好きである。


「うーん、そうですね……。毎年、1位と2位のオークション会社が国内でも圧倒的なシェアを獲得しています。ですので、業界3位と4位は、2位に毎年20ゲーム差以上つけられてシーズンを終了している……みたいな?」

「20ゲーム差以上……ですか」

「そんな感じですかね? すみません。俺、野球はそれほど詳しくないので、このたとえにちょっと自信はないんですけど、あははっ」


 俺の話で理解できたかどうかはわからないけれど、高見さんは小さくうなずいてからこう言った。


「大沼さん、ありがとうございます。まあ、オークションはプロ野球じゃないんで……」


 な……なんだよ、その反応!

 高見さんがプロ野球にたとえろって言ったから、俺だって無理やりプロ野球にたとえて説明したのに!


 とにかく今日一日、彼女と会話して受けた印象だけど、市柳さんと違って高見さんは、この仕事に関わる勉強をそれほど熱心にしているわけでもなさそうだった。

 これから少しは勉強してくれるといいんだけど……。


 やがて、訪問する画廊も最後となった。

 アンティークショップで偶然会った、初老の男の画廊である。


「大沼ちゃん、いらっしゃい。これ、出品物のリストね」


 画廊に足を踏み入れるなり、初老のオーナーからそう声をかけられた。彼の息子はいないようだ。


 俺はリストを受け取ると画廊の一角に目を向ける。

 倉庫から本日出されたばかりの絵画たちが10点ほど、箱に入れられたまま壁に立てかけられていた。

 絵が収まっている外箱そとばこはどれも、薄っすらとねずみ色のほこりをかぶっている。倉庫のほこりだろう。

 タトウ箱といって、ダンボール製の箱よりもいくらか見た目がしっかりした布張りの箱もいくつかあったのだけれど、やはりどれも汚れていた。


 画廊の中で箱の上に積もったほこりを派手に払うわけにもいかない。

 これは……確実にスーツが汚れてしまいそうだ。


 エプロンをしているとはいえ、新品のスーツを着ている高見さんにこれらを触らせるのは可哀想である。

 俺はオーナーからもらったリストを高見さんに渡して言った。


「高見さんは、リストを参考にしながら、預かり伝票の作成をお願いします」


 すると、画廊のオーナーが高見さんに言った。


「伝票を書くなら、この机を使ってくれていいよ」


 オーナーはそれから、高見さんにあれこれ話しかける。

 いい感じでオーナーが彼女に食いついた。そのまま二人でずっと会話をしていてもらおうと俺は考える。

 高見さんは市柳さんと違って、よく知らない人との会話を苦手にしている様子はない。しばらく放っておいても、大丈夫だろう。


 画廊のオーナーに断りを入れてからジャケットを脱ぎ、俺はワイシャツにネクタイ姿となった。

 シャツのそでをまくり、箱から絵を1枚ずつ出しその場で簡単な検品を済ませる。

 どれも古い油絵だった。


 中身の確認が終わると、すべての絵を一人で車に運んだ。

 その途中、高見さんがオーナーと会話しながら、何度かこちらに視線を向けてきた。たぶん彼女は運搬作業に加わろうとしていたのだろう。


 俺は黙ったまま首を横に振ってそれを断った。

 野球でたとえるなら、捕手から出たサインに投手が首を横に振るみたいにである。

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