使う? 使わない?

「あの槙野って子、生意気じゃないかしら。あのクレエ様に、あんなに馴れ馴れしく……」

「槙野さんにくっついてる河野さんもよ。あの子、いつもクレエ様に楯突いて……」

 始業前の教室の隅で、クレエの親衛隊を名乗る生徒たちがひそひそと話し合いをしていた。

「だいたい、クレエ様に決闘までしかけられていながらクレエ様にあんな風に構っていただいているなんて……うらやましいですわ! いえ、けしからぬことですわ」

「ええ、放置は出来ません。なんらかの手を打つ必要がありますね」

「では……」

「慎重に、かつ的確に。クレエ様を煩わせるものは何人たりとも許されません」

「「「すべては、クレエ様のために」」」



 河津のこと、薄情な友達のこと、怪しげな本屋とその店主のこと……そして、受け取った魔導書のこと。それらが頭から離れず、菜帆はなかなか寝付けなかった。

 寝坊のためやや遅刻気味で参加した朝練。昨日ファーストフード店で奈帆を置き去りにした彼女たちは何事もなかったように話しかけてきた。菜帆も蒸し返すことが出来ず、無理に笑顔を返す。

 汗を流しても胸のモヤモヤは消えないまま、ホームルーム中にこちらを振り向いた河津から咄嗟に目を逸らしてしまった。

 一限目の日本史はろくに頭に入らない。意識の大半は、通学カバンの底のあのハードカバーに向いていた。もし掃除などで部屋に入った母親が見つけてしまったら、と思うと置いてこれなかったのだ。

魔術文字を用いて記された内容には、習っていない単語も多く理解できない部分もあった。だが、それでも分かる部分を拾っていくと、不確かながら何を目的とした魔術かが分かってくる。

 黒魔術を連想した菜帆の感覚は間違っていなかった。なぜなら、書き記されていた魔術式は――

 考えがそこにいたると、思わず針で突かれたように身を縮めてしまう。想像するのも恐ろしい。まさか、人の頭の中を――

「田端さん、鎌倉幕府が成立した年は何年かな」

 ゆったりと落ち着いた声が乱れた思考を打ち切った。見れば、いつも柔らかい笑みを浮かべている米山先生がこちらをじっと見ている。

「は、はいっ!……ええと、1192……や、変わったんだっけ……」

 音を立てて立ち上がり、記憶を探って答える。

「はい、1221年の承久の乱の完結をもって幕府の成立とする説もありますね。ただ、今やっているのは安土桃山時代なので、田端さんは全く話を聞いていなかった、ということですねえ」

 あくまでも穏やかな声と表情で、抉るようにじっくりと語りかけてくる。

「す! すいませんでしたっ!」

 教室にクスクス笑いが広がる。彼女は頭を掻くジェスチャーをして、照れ笑いで応えた。それは身に沁みついたクラスのムードメイカーとしての行動だったが、今はどこか虚しさを感じた。


(いやいや、やっぱりあの魔導書持ってたら危ないよね、補導とかされたくないし……やっぱり帰ったらあの本屋に行って夏樫さんに返そう)

 気が気でないまま午前中を過ごした菜帆は、話しかけたそうな素振りを見せた河津から逃れるために足早に教室を出た。

 どこか人気のない場所で昼を済ませようと校舎をうろつきながら、本を手放すことを考える。

(でも……一回だけなら? 一度だけ河津くんに使って、それで返品するかどこかに捨てちゃえば……いくら警察でもちょっと黒魔術使っただけで分かるわけ、ないよね)

(ううんダメ、もし夏樫さんがわたしのことしゃべったら……やっぱり今日返しに行こうっ)

 胸の中で堂々巡りを続け、足は同じ場所をぐるぐる辿る。

(夏樫さん……なんていうかどこか不気味だよね。笑ってるんだけど何考えてるのか……真っ黒な服に、真っ白な髪……あれ、この組み合わせってどっかで……)

 何かが引っ掛かったとき、目の前に正にその白黒の色彩が飛び込んできた。

(夏樫さんっ!?)

「うわっ!?」

「わああっ?」

 ぶつかりそうになり、お互い声を上げる。そこにいたのは、紙のように白い髪の、黒い制式ローブの、

「は、ハジメちゃん?」

 槙野ハジメが、驚いた拍子に尻餅をついてこちらを見上げていた。

「あ、菜帆ちゃんだ」

 ふにゃっと顔を緩ませるハジメは何というか無防備というか、平和というか、とにかく間の抜けた顔をしていた。

 あの何を考えているのか分からない、不気味な夏樫とは、似ても似つかない。そうは分かっても、まだ心臓が激しく脈打っていた。

「菜帆ちゃんこんなところでどうしたの? お昼は?」

「そういうハジメちゃんは?」

「えっと、さっきの授業でフラスコ割っちゃったから片付けと、桐山先生に怒られてた」

「またやっちゃったのハジメちゃん……」

 思わず呆れてしまう。もはや彼女のそそっかしさは全ての教師の知るところとなっていて、理科や魔術の実験ではハジメには極力割れ物には触らせないようにしているのだが、それでも何も意図しなくてもトラブルを起こしてしまうのがハジメという人物である。

 かと思えばめったに親の帰らない自宅の本屋を切り盛りし暮らしている一面もある。

 菜帆はそんなところも含めてハジメが気に入っているのだが、さすがに今月4件目となる授業中の事故には呆れざるを得ない。

「たはは、だからお昼まだなんだー」

 そう言った瞬間に彼女のお腹が大きな音を立てる。

「一緒に食べる?」

「うん」

 こくん、と素直に頷くハジメ。今はその無邪気さがうらやましかった。


 校舎裏、人気のない場所にポツンと古ぼけたベンチがある。二人はそこに座って購買のサンドイッチを頬張った。

「……ねえ、ハジメちゃん」

 ぽつりと切り出す。

「うん? ふぁに?」

 口をいっぱいにしたハジメがこっちを向く。もしかしたした彼女は、明日になれば自分の話を全部忘れているかも……そう思うとなんだが気が楽になった。

「ハジメちゃんはさ、誰かを嫌って思ったこと、ある?」

「へ?」

 口をもごもごさせながら、ハジメは首を傾げる。

「ほら、ハジメちゃんって何かあるたびにアホだとかマヌケとか言われてるじゃん。たまには嫌だってならないの? 詩織ちゃんにしょちゅうダメ出しされてるけど……」

「うーん……」

 ごくんと口の中のものを飲み込んで、ハジメは考え込むような表情をした。なんだか彼女にそんな顔は似合っていなかった。

「昔からわたしってそんなだから、あんまり思ったことないかなあ。でも、怒られたらわたしだってへこむよ。詩織は文句ばっかりだけど」

 ちょっと口をとがらせて見せる。が、菜帆は不満だった。

「そうじゃなくて……そうだ、こないだクレエちゃんがいきなり決闘しかけてきたじゃない? 何かいいがかり付けてたみたいだけど、嫌いにならなかった?」

 知らず、語気が強まる。自分でもどうしてだろうと、思う。

「うーん……わたしは、うちの本で問題があったからクレエちゃんと話しただけだよ。詩織がやたらと怒ってたし、クレエちゃんも強気だったけど……」

「じゃ、じゃあどうして今、三人で仲良く出来るの」

「うちに来て、家捜しして、おまんじゅう食べて、友達になったよ」

 あっけんからんと言う。その様子に、菜帆の中で何かが軋んだ。

「そうじゃないの!」

 大きな声が口から飛び出す。ハジメはきょとんとしている。

「わたしが聞きたいのは! どうしても嫌な人で、その人のこと考えたくなくて、でも自分からは嫌いって言えない人! それをどうにかしたいって思ったことないかってことなの!」

 一息にまくし立てる。言ってしまってから、独でも吐き出したような気持ちがする。

ハジメは相変わらず、きょとんとした顔である。

「えっと……どうにかしたいって?」

「そ、それは……いなくなって欲しい……とか……」

「いなくなって欲しい人がいるの?」

 珍しい真顔のまま、ハジメは問いを続けてきた。

「……ハジメちゃんはいないの? そういう人」

「わたしはない……かな?」

「そう……」

 まるで手ごたえが感じられず、菜帆は虚しくなった。

「もういいよ……ハジメちゃんに相談したのが間違いだったよ」

 ベンチから腰を上げ、彼女から足早に離れる。

「あれ、菜帆ちゃん?」

 無視した。

 校舎に入るときに、女子生徒の集団とすれ違った。全員、顔には険しい表情が浮かんでいる。どうやら校舎裏に向かうようだ。

(あの子たちって……クレエちゃんのファン……?)

 日頃はクレエを遠巻きに称賛している彼女たちが、たまたまハジメのいる校舎裏に何の用だろうか。引っ掛かるものを感じながらも、菜帆は屋内に戻った。


(……やっぱり、気になる)

 階段を上ったはいいが、足が教室に向かわず、3階の廊下の一番奥、校舎裏側を見下ろせる窓に近づいて下を見た。

(ハジメちゃん!)

 真下では、先ほどの女子生徒たち、通称『クレエ親衛隊』が壁際にハジメを立たせ、半円に並ぶように囲んでいる。リーダー格の一人が何事か口を動かしている。切れ切れに聞こえてくる「クレエ様」「近寄って」という言葉、ハジメを睨みつける表情からすると――

(これ、あれだ……マンガでよくある『貴女、最近調子に乗っているんじゃなくて?』だ……!)

 心の中でおどけてみたはものの、眼下で起きているのは「いじめ」に分類される行為だ。

 彼女たちの信奉するクレエと最近仲が良いという理由で、あの、頭の中にお花畑しかないような顔をした、無防備極まりないハジメを――

(どうしよう、あそこに誘ったのわたしだよ……もし、あの子たちがハジメちゃんが一人になるの待ってたとしたら――)

 角度のせいで、ハジメの顔は見えない。

 だが、彼女がいじめられているとしたら――

 奈帆の胸の中で心臓が早鐘を打ち、その音だけが大きく響く中、

 あまりにもなじみ深い、間の抜けたチャイムが響いた。午後の授業の予鈴。

 リーダー格が最後にハジメを一瞥し、彼女たちは身を翻して去っていき、ハジメは力が抜けたように座り込んだ。

 なおも激しく震える胸元を押さえて、菜帆はハジメの白い頭から無理に目を離して教室に向かった。


 河津、黒魔術の魔導書、ハジメ、クレエ親衛隊。

 菜帆の頭の中は、一気に増えた悩みで溢れかえってしまった。午前以上に授業の内容が頭に入らず、気づけば放課後になっていた。

 そして、何かが菜帆の中で切れた。

 体調が悪いと言って部活を休み、帰宅して自分の部屋にかけ上がる。

「菜帆? 早いのね」

 母親の声にろくに返事もせず、ドアを閉めて通学カバンのジッパーを下ろし、ハードカバーを取り出した。ずしりとした重み。学習机の上に載せ、広げる。黄色く変色したページ、黒々とした魔術インクの文字からはまがまがしい瘴気があふれ出しているようで、菜帆は一瞬戸惑ったが、

「ううん……もうあれこれうだうだ悩むのは嫌! これですっきりするなら……!」

 投げやりな気持ちで、魔術式を辿っていく。

 この魔導書にある魔術は、どうやら空気中の伝子、それを反応させる熱だけでなく、術の対象者に紐づいたものを必要とする。それは主に、体の一部。または想いのこもったもの。

 そんな魔術など習ったこともなければ使ったこともない。だが、やけを起こした奈帆は気に留めなかった。

 河津が毎日送ってきた手紙。今日も一通入っており、溜まりにたまったそれには、偶然封筒に入り込んだのだろう、脂っこい髪の毛が数本混じっていた。気味悪く感じて隅にうっちゃっていたそれが、今役に立つとは。

『――開け、道化の聖堂、糸繰の舞踏会、操り人形の晴れ舞台――』

 菜帆が読み上げる魔術式と重なる、重低音。その怪しげな調べが部屋を満たし、毒々しい黄色の光がページの隙間から溢れる。光は線を描き、四方の壁と足元に紋様……魔術陣を形作る。魔術陣は明滅しながらゆっくりと回転し、黒魔術に手を染めた少女を見つめていた。菜帆の口から紡がれる魔術式は、1時間以上に渡って流れ続けた。

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