4-2 銀色の兄ぎつね


 小さな頃から、俺はとにかく兄にあこがれていた。年の離れた兄貴だった。

 銀色の毛が光っていた、優雅な顔立ちの銀兄さん。


 いつも兄さんの真似をして、後ろをついて回った。兄さんがやってるから、俺も武道をはじめたんだ。あぶなっかしく不器用に転んでいる俺を見て、いつも兄さんはやさしく微笑んで手を差し伸べてくれた。


 俺の両親も銀兄さんには一目置いていて、きつねの家のことは全て相談して決めていたように思う。それは息子にするというより、一人の大人のきつねに向かって意見を求めているように、俺には見えた。


 兄さんの武道は、舞踊のようだった。

 細長い剣を持って空中を回転する、優雅で大きな風を司る舞い。あれはきっと戦いのものというよりは祈りに近いものだったに違いない。


 腰を低く落として突き上げるような動きは、目を閉じてすぐに思い描けるくらい印象的で、忘れられない美しいものだった。

 ただの稽古着を着ていたはずなのに、記憶の中の兄さんは、まるで薄絹の羽衣を纏った天の遣いのように、空気を自在に操っていた。


 白い息を吐く冬の朝にきらきら舞う粉雪と、兄さんの銀髪が絡まってまぶしかった。シャリと霜柱が崩れる音がして、その上の雪の層が遅れて散らばる。

 剣が朝陽を受けて、空に光の線を返す。何度も繰り返す毎朝の一連の動きは、荘厳な気配に包まれていたんだ。

 俺はいつも兄さんの描く軌道を目で追いかけていた。


 兄さんは兎角目立つ存在であった。きつねの学校でも常に優秀でリーダーだった。廊下を通るだけで風が舞い起こった。常に慌てず騒がず落ち着いた物腰で、皆の面倒をよく見ていた。


 家では暇を見つけては片隅で静かに書物を読んでいた。言葉の使い手でもあったのだ。人間との交渉事に上手く立ち回れたのも、兄さんのお蔭だ。

 俺が構ってほしくて周りをうろちょろしていると、片手は本に集中しながら、もう片方の手で俺をあやしてくれた。

 しまいに疲れてうたたねしてしまった俺に、いつのまにかかけられた上着。近くて遠い存在だった銀色の毛の兄貴。



 今になってわかることがある。

 あの銀色は、つまりは異形だったのだ。


 普通のきつねの家系には生まれるはずもない銀色の毛並み。誰もが息を呑むあの神々しさは、まさに神のものと思われていたにちがいない。


 だから周りから敬遠されていた。美しきもののさだめ。

 ただただ取り囲まれて、だが誰も必要以上には近づかない。どこかで線を引かれている。遠巻きにされる。


 思い返してみても、傍にいたのは俺だけだったような気がする。俺だけの特権、だと思っていたが、誰も怖くて近づけなかったのだろう。


 兄さんが俺に投げた檸檬を思い出す。

 酸っぱくてそのままなどまったく無理なその果実を、兄さんはガリリと音を立てて、顔色一つ変えずに齧っていたんだ。俺はそれを持て余して、ただ手のひらで転がしながら眺めていた。


 きっと誰にも心を許せず、ずっと孤独だった。

 さみしげな瞳をして、それでも真っ直ぐ前を見つめて、年を追うごとにそこには鋭さが増していった。


「こん。お前は」

「なあに、銀兄さん」

「迷った時は、自分がいちばん信用している者に打ち明けるんだよ」


 その時ぱっと浮かんだのは、いつも隣にいる、ぽんだった。今も横にいる紗雪。

 兄さんが誰かに自分の心を打ち明けることは、きっと一度もなかっただろうな。だからこその一言だった気がして、ずっと心に残っている。



 銀兄さんは昨年亡くなった。病気をしてみるみるやせ細っていった。

 だが、ふらふらになりながらも、朝の稽古はやめなかったそうだ。気力だけで立ちながら、目だけはどんどんギラギラしていって怖いくらいだったと、妹が言っていた。


 大雪が降った日が、皆が銀兄さんを見た最後の日になった。

 最期の姿は誰にも見せず、きっと今はひっそり山奥で眠っているだろう。はじめて自らに訪れた静けさ、安らかな空気に包まれて。


 山の上からケーンという悲しい鳴き声が聞こえてくる気がして、俺は時折、裏の山を振り返った。



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