第10話

 サヤとアカリが怯えている。野獣の群れから目を離すことのなかったルシアは、ここで肩越しにサヤたちへ視線を移した。ちょっと笑ってみせた。男たちへ見せた冷笑とは違う。


「フッ、すまない。仕事ができてしまった。サヤ、アカリと一緒にその木から離れるな」


「あ、はい、ルシアさん……」


 ルシアは、あらためて男たちを蒼い瞳でとらえる。


「あわれで臭いブタの諸君、ご期待に応えてやろう。 フフフ……」


 ルシアは、間合いを確かめながら一歩を踏み出す。次にまた一歩。黒光りするブーツを履いた細長い脚で、土埃をたたせぬ静かな歩み。両者に拳銃があれば、頃合いの間合いが定まったところで早撃ちによる決着がついてしまうような歩き方である。ただし、ルシアが握っているのは、拳銃ではなくお菓子の入っている紙袋だ。ともかく、闘いがはじまっているというのに、優美にさえみえる彼女の歩き方は、多くの下劣な視線をその脚に集めてしまった。


 ルシアは、手頃な位置に足を止める。チンピラたちとは対照的にしとやかな姿。一見そう見える。


 おんな一人が相手なのだ。形勢は圧倒的な有利に見えたと自惚れる男たちは、一瞬の後にも飛び掛かり、望みのままに貪り喰おうと虎視眈々である。


 しかし、どうしたことか、脚が前に出ない。一歩すら踏み出すことができない。彼女からの得体の知れぬ殺気を、全身に受けとめてしまった。


「お、おい、なんだよ。お前が行けよ」


「な、なんか、マジ変じゃね?」


「なんだよ、こんなときに、お前こそ行け!」


「たかが女が一人じゃねえか。ここで男を見せなくてどうするよ?」


「もしかして、これヤバくね?」


  奇妙な先手の譲り合いが、群れの中で交わされはじめた。彼女から発する異様な気力が闘技場となった空間を支配している。九人もそろっていながら、一人の女戦士へ初めに斬り込む者が現れない。見えない壁でもある感じだ。女士官の中に潜んでいる、ただならぬ武芸を察知したのか、口角をもひきつらせていた。


 いつの頃かに刷られたヨーロッパの木版画……シャレコウベの姿となり鎌や剣を手に、次々と殺戮、略奪、強姦、拷問に興じる人間たち。その後ろに立っているのは、冠をかぶった王、法衣をまとい聖典を携えた聖職者、そして金品を飲み込む商売人……。


 赤く色づいた太陽は九人の愚連隊と、対する不敵な面構えの女士官へ、墓標のような長い影を地面におとす。


 気迫と恐怖の視線が互いに交差し衝突する。


 男たちの助平笑いはすでに消えうせていた。一人の男は、ナイフを握る手に汗が滲み出て、耐えられなくなり、もう片方の手に持ちかえる。


 女士官の左胸にある略勲章と、肩口に印されたオオカミをかたどる部隊章が、男たちの目に映った。相手の女は若く、華奢で華麗な容姿であるにもかかわらず、彼らのまなこには“本物の狩り”を積み重ねた野生の獣へと写り変わっていた。知性を基盤に測ったというよりも動物の本能からくる直感である。後退しようにも無頼漢のプライドがゆるなさい。


 サヤは、立ったままじっと見守る。アカリが身震いし、サヤのパーカーに身体を思いっきりくっつける。


「……サヤちゃん、怖いよ……」


「大丈夫……ここにいれば大丈夫」


 口を切り結んでいたサヤが、一声答えた。


 冷涼な風が吹いてきた。


 ベレー帽をかぶる女戦士の、紺色の髪は、風により柔らかになびく。


 群集の騒ぎは遠くの小さな風景音になり、向き合う互いの息づかいまでが、耳に入りそうだ。


 ルシア大尉と男九人の動かぬ対決は、長い時間が過ぎていくような錯覚に包まれた。ようやく群れの一人が決意して飛びかからんと前に出た。


「こらあ! 動くなチンピラども!」


 そのとき、遠くから大声が飛んできた。まっしぐらに地面を蹴って迫ってくる人影が一人。逃げたと思われていたはずの軍曹だ。アサルト・ライフルをたずさえている。


 駆けつけてきた軍曹は、息も荒く、唾を飲み込むなりアサルト・ライフルの銃口を男たちへ向けた。男九人の姿が重ならない位置に立っている。


「ギリギリ間に合った。Freeze! 一歩でも動けば鉛の弾、いや、劣化ウランの弾をお見舞いするぜ。……これ言いたかったんだよな……。とにかく! 今からここは治外法権だ。といってもすでにこの国はいろんな意味で治外法権だがな」


 軍曹の勇ましい大声とアサルト・ライフルの銃口は、空気の流れを変えてくれそうだ。ルシアがすでに残りわずかな菓子の入った紙袋を男たちの前へほうりだす。


「弾丸よりもこっちの方がいいだろう? 少しばかりだがデザートはやる。それと……」


 ルシアは次にポケットから財布を取り出し、束ねたドル札を見せると、また男たちの前へばらまいた。


「これでおとなしく引き下がれ。だが、この子たちに手を出せば、部下に発砲を命じるぞ」


「おお! 米ドルだ!」


 とたんに、下っぱらしい一段貧相な服の一人が、続いて遅れまいと二人が、這いつくばり、紙幣をかき集めはじめた。だが、リーダー格はちらりと地面の紙幣を一瞥するだけで一歩も動かず鼻で笑う。


「へへへ、そんな小遣い程度の金だけじゃな。こちとらメンツってもんがあるんだよ。その褐色の肌がどんな味かやらせてくれねえか? それで手打ちといこうじゃねえか」


 刹那、リーダー格の下品な要求と同時にカメラのシャッター音がなった。アサルト・ライフルを構えていたはずの軍曹が、片手で携帯端末を操作している。


「ああ、なんてことだろう! 在日米軍の将校を、脅して金をうばったテロリスト……撮影させてもらったよ。おやおや? しっかりドル紙幣をにぎっていますね? おまえたちの情報は入手したぞお! これで軍のブラック・リストに登録だ。永久におまえたちの記録は保管される。意味は分かるよな?」


 軍曹が、謀略の匂いを染み込ませた言葉を浴びせる。続いて女士官が、あらためて怖い形相に作り直した。


「いいか! もしあの子たちにこれから何かあれば、おまえたちがどこにいようと無人機やロボットで必ず探し出して、死んだほうがマシだと思わせてやる。それでよいのだな!?」


「え!? ……あ、ああ、マジか!?……」


「ヒッ! ヒイイ!」


「お、おれ、親分! どうする?」


 たたみかけられた途端に、怯えた声をもらしたチンピラたち。軍曹は邪悪な微笑で近づいていく。


「そうそう、ついでだから、そこにお集まりの皆さん、捕まったらね、大西洋のど真ん中に、だぁ~れも知らない大きな船があるんだな。そこは政治犯、テロリスト専用の刑務所でね。そこに収監されるとどうなるかサンプルの写真や動画を見せてやるぞ。これ見ちゃうと一週間は食事が喉を通らなくなり、夜はうなされるぞ。ほら、見てみろよ。まず、大事なところがな、ほらほら……」


 間髪を入れずダメ押しを語る軍曹の顔を見つめた男たちは、顔から不健康な汗を吹き出しはじめた。一人が踵を返して走り出す。それを合図に、堰を切ったように一人、また一人と散らばるように逃げていく。最後に残ったリーダーも後退りした。食い縛った歯を見せるだけである。


「クッ! 小娘が! 覚えていろ!」


 チンピラのリーダーは言葉を吐き捨てるなり、背中をルシアへ向けて、逃走した。


 争いのただ中だったはずの群衆は、放心した顔で遠巻きに静観している。無頼漢が去ったからか、武装しているアメリカ兵が現れたからか。事が収まったらしく、軍曹は肩を落としていた。


「やれやれ、大尉に合わせましたけれど、やりすぎです」


「ふむ、何の画像を見せようとした?」


「ええっと、急いで今用意したのは、地下で流行っているB級ホラー映画の、ああ、もっとスゴいのが……オススメですよ」


 軍曹は、疑問をしめした上官に携帯端末の画面を見せようとする。が、ルシアの視線は画面に行かない。


「いや、もういい」


「あれ? 修羅場をいくつも掻い潜った歴戦の勇士が?」


 軍曹のコレクションを拒否したルシアは、憮然となって踵を返し、少女たちへ歩みよっていく。


 土ぼこりも立てない黒ブーツの静かな一歩を重ねてサヤとアカリの前に立つ。


 ルシアは、二人の気が抜けた表情を見下ろした。その眼差しは、二輪の小さな花を愛でるような暖かさに変わっている。次に、片膝を音もなく地面につけて目の高さを少女らに合わせた。


「怖がらせてしまって……許してくれるのならいいけど」


 申し訳なさそうなルシアは、サヤの顔を両の平手で挟んでいとしむ。が、ルシアの唇がおどろいように開いた。


「サヤ?……おまえは、もしや……」


 少女の顔を挟む両の手はかすかに触れかたを変えた。西の空から陽が射してくる。そして穏やかな風。ルシアの影はサヤの顔にかかり、髮もそよぐ。


 ルシアの口元は、微笑を浮かべた。秘密の宝箱を探り当てたときのような笑みがほんの刹那である。そしてポケットから何やら取り出した。


「お菓子のついでだよ。これを持っているといい。防犯ブザーではないよ。日本の警察は死人が出るまで何もしてくれないからね。水に濡れても大丈夫。といっても大切にしまうように。バッテリーは三年はもつ。何かあれば、ここのボタンを押すだけでいい。通話はできなくてもサヤの位置がわかるようになっている」


 受け取ってまばたきしたサヤは、小さな装置を、手の中で束の間、見つめるとルシアへかえした。


「ごめんなさい。街には他の子たちもいるので。特別あつかいで、受け取ることはできません……」


「ふむ……そうだな……」


 サヤに断られ、ルシアは残念そうに肩をすくめる。すぐに元のポケットへしまった。手もちぶたさでサヤの顔を覗きこむ。


「それでは……ううむ、これならどうだろうか……」


 諦めきれないルシアは、ベレー帽を脱ぎサヤの頭へそっとかぶせる。


「……代わりにこれを受け取ってくれないかな?……」


「ルシアさん、これ、大事な帽子では?」


「アメリカは世界一補給物資があるからね」


 想わぬ贈り物に、少女は戸惑い頬を赤らめる。近くに立つ軍曹が楽しそうに目じりを下げてきた。唇をすぼめる。今度は残念なため息ではなく軽く口笛を吹く。


「ヒュー! いいなあ、お嬢ちゃん、俺がほしいくらいだぜ。これを断るのは目上に対して失礼というものだぞ」


 はずかしげにベレー帽を脱ごうとしたサヤだが、男の兵士を見上げて何かを汲み取るようにためらう。サヤの後ろに立つアカリは、畏怖の眼差しを外国の軍人たちへ向けたまま、自分の髪をいじったりしてうろたえていた。


 身を寄せる家もない少女は、褐色の肌つやめく異国の女戦士から、“冠”をさずかった。


「……では。サヤとアカリ、そこのお嬢ちゃんも、いずれまたどこかで……」


 別れの挨拶をかけてルシアは、目を細める。


 深く透明な蒼色をした女軍人の瞳は、サヤにとって手を伸ばせば、簡単にふれることができそうなところにあった。


 が、低い夕陽がサヤの瞳にするどく射し入ってしまう。


 逆光の中でルシアが陰の輪郭となって眩しく浮き上がる。そして消えた。ベレー帽をかぶる少女は、目蓋を閉じてしまうが、蒼い瞳をもとめて必死に目をこすり、ふたたびとらえようとして光の中の扉をこじあける。


 サヤが見えた視界には、すでに離れていくルシアの背中があった。 


 二人の兵士は、そのまま公園の出口へと向かう。が、ふと軍曹が一旦止まり子供たちへ振り返った。


「チョコレートを食べ過ぎて鼻血を出すなよ。あと、知らない大人にはついていくなよ」


「……あ……ルシアさん……」


 おやごころを思わせる軍曹の声を耳に、サヤは返事をしようとしたが、開きかけた口がとまった。彼女の背中にずっと隠れていたアカリは、手の平を振って見送るが、それでも顔の半分はまだ隠れたままだ。


 紅い“残り陽”の中へと遠ざかる、年上の女性の後ろ姿が、影絵となり、名残おしむ目に焼き付いていく。

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