残り陽

私掠船柊

第1話


――ある日、東京のどこかで――




 キーボードを操作していた指がとまり、ディスプレイに表示されている数式をしばらくみつめる。しだいに口がゆるんでいく。


「……うむ、いいところだ……」


 椅子に座ったまま背伸びをした。背もたれに身体をあずけながら両腕を天井に向かって思い切り伸ばす。


「おっと」


 バランスを崩して椅子ごと後ろへ倒れそうになってしまう。


 即座に立ち上がり、部屋の中を腕組みしながら行ったり来たりする。ときどき立ち止まっては少し離れた床のあたりを見つめる。窓へ近づき外の景色を眺めてみた。真っ直ぐな針葉樹も目に入る木々。その向こうには森林限界を超えた山々がそびえたつ。


 その上には大空がひろがり、深く透明な蒼色は、人間が手を伸ばしたところで届くことなどかなうはずもなかった。


 彼の視線は部屋の中、一つの机に移る。こみ合う本と書類の中、封を破った数通の手紙。


 彼は家族や大学にも連絡をしばらく取らず、山奥の人里離れた小屋で研究を孤独に続けていたのである。この小屋はもともと宇宙線の観測所として使われていたが、古くなり解体されかかったものを改装した建物だ。


 彼は一度研究している課題が面白くなりはじめると、他の事はすべて忘れてしまう性分を備えていた。


 納得のゆく成果にたどり着いたらしい。隣接する倉庫の奥に眠らせていた一本のワイン・ボトルを探し出した。


 チリ産を示す埃の薄くかかったラベルを見つめ、そっと笑う。栓を抜いて愛用のコップに赤ワインをそそぎ、はじめの一口をぐいと飲む。口端をぬぐい、人生の最高峰に登頂し、世界を見渡した気分の酔いを味わった。


 外部へ連絡を取ろうと思えばインターネットの端末はあるにはある。研究に没頭したい彼は、バッテリーをわざわざはずしていた。それはいつ頃からだろう。この小屋に住み込んだ、初めの日からなのだろうか。


 夢を想いつづけてすでにこの地で数年である。もしかすると十年近くになるかもしれない。ここからちょっと歩けば、自家菜園がある。けれども倉庫に蓄えた缶詰などの食料品はつきかけていた。


 部屋を一通り整理し、荷造りを始める。だがその手は途中で止まる。アイロンのかかっていない皺のよった背広を着た。鞄は持たない。最小限度の貴重品をポケットのあちこちに入れ小屋を後にする。散歩だろうか。早朝のさわやかな朝日を顔や胸にまぶしく受けながらの長い徒歩。


 背後の自分の影がついてくる感覚が、いたずらをする友達といるようで何やら心地よい。


 山々の中、キツツキの鳴き声が聞こえる一本の下り道をすすむ。と、霧が迎えるようにただよい現れてきた。その白くただよう空間が、行く手をさえぎってしまった。すでに背後も視界がきかない。それでも彼は、足下の見える地面を頼りとして道なりに歩むことにした。慣れたところだといっても油断はできない。足を踏み外して転落することもあるからだ。


 しばらくすると霧は水平に流れてゆく。白色の密度がちょうどよく道の先で薄くなる。すると、景色が蜃気楼のようにぼんやり浮かび上がった。歩くにつれ道幅がひろくなり、ところどころ砂利の舗装路へと出た。霧は消え去り、視界の真ん中に現われたのは、切り妻屋根の家屋が一棟。景色になじむ西洋風の、古びた木造の建物だ。


 入口の真ん前に立つ。『月・二四七』と書かれた看板が、扉にかかげられているのを目に止める。把手を握った。鍵はかかっていない。ゆっくりと開いてみた。開くと同時に小さな鈴が、踊るように揺れ軽やかな音色をかなでた。中に入ると、木の香りがたちこめており、窓から入る自然光と小さなランプは灯されているものの、平均して薄暗く、人影は見当たらない。椅子をそろえた木目の小さなテーブル。それが二組あって部屋の中央に据えられている。ただ、一脚の椅子だけは、ゆったりとした特別大きなしつらえだ。周辺には生活用品その他の雑貨、食料品、土産物が訪れる者を待ちわびたように並べられていた。


 不安な目を宿した彼は、店の中をあちこちと見回す。そこへ、奥から一人の老人が待っていたように現れてきた。老眼鏡をかけ、シャツと作業用ズボンを気品よく着こなしている。


「おはよう。何かお探しかね?」


 しわがれ気味の声で挨拶した老人は、手に持っているガラス瓶を見つめながらである。彼は軽く会釈を返す。


「ああ、どうも。それはジャムですか?」


「うむ、この付近で取れたアンズをジャムにしてな。持っていくかね?」


「いえ、今日はその………」


「……そうか、思い出したよ。今日は出かけるのだな。連絡は届いていたのだよ」


 老眼鏡をはずした老人は、接客用のカウンターへジャムのビンを置く。


「ただ通り過ぎるわけではないのなら、そこへかけたまえ」


 うながされた彼は、テーブルの前に腰掛けた。ほんの数分で、彼の前に紅茶が出される。それと同時に角砂糖を入れた小さな陶磁器が、ティーカップのとなりに添えられた。どれもイギリス風の茶器にみえる。


「まだしばらく歩いて行くのだから少し糖分を取るとよいだろう。ああ、そうだな。砂糖よりは、これをすすめるよ」


 そう言うなり、さしむかいにある指定席のような椅子へ座りかけた老人は、ふたたび立ち上がる。さっき置いたカウンターのビンを取ってきて蓋を開けると、小さじでカップの中へジャムを砂糖の代わりに入れた。カップを鼻先へもってきた彼は、香りをたしかめる。納得したように軽くうなずいてから、一口飲む。ほおがゆるんだ。


「……そうか、東京へ出てみるのかね………」


「なにかあるのですか?」


「……いや、なんでもない……」


 老人は髪の少ない、禿げ上がった頭に痩せた体形だ。だがそれでいて、鍛えた背中が上半身を支えているのがシャツの上からでも分かる。


「煙草はかまわんかね?」


「どうぞ……」


 老人はやっと座って、作業ズボンのポケットからパイプを取り出した。口に加えると、別のポケットからライターを探り出し火をつけた。背もたれに身体をあずける。タバコを一息のんで紫煙をゆっくりはきだした。天井へ立ち上る煙を見つめ、くつろいだ老人は、考えにふけった顔を彼に一影みせる。


「……だいぶ前だったかな。ワインを送っただろう? まだ飲んでいないのかい?」


「はい、いただきました……」


「国産がよいと思ったのだが……孫のお礼もあって、想い出の深いところが善いと考えたのだ……」


「ありがとうございます」


 パイプをふかす老人を見て、彼は照れ笑いする。突然、外が暗くなり、屋根から雨音が聞こえはじめた。


「……また、通り雨ですね?」


「山に囲まれた高地だからな。小さな雨雲だろう。いつものように早く通りすぎてまた太陽が顔を出す。心配ない。君の向かう方へは傘の必要もないだろう」


 水滴のつきはじめた窓の外を、彼は背広の襟をなおして眺めた。木々が雨にうたれて枝をしなだらせていた。パイプをくゆらせる老人は、おだやかな無情の顔をつくり、雨音のひとつひとつを聞き分けるふうに耳をすませる。雨音が、木目に囲まれた部屋に、心地よい薄闇の空間を作り出す。


「……ああ……、いやすまなかった。歳をとると華やかなものより、こういった色のない素朴なものが落ちつくのでね。すこしにぎやかにしようか?」


 老人は立ち上がり、カウンターの隅に備え付けてある古いレコード・プレイヤーの電源を入れた。棚から一枚のレコードを選び出し、プレイヤーのターンテーブルに乗せて回す。トーンアームをおろした。店内のどこかから、ちょうどよい音量で音楽が流れはじめる。


「ジャズのように聞こえますが?」


「ガーシュウインだよ。もともと都会育ちだからな。山奥に住んでいると、まれに、こういうものも聞きたくなる。君もそうではないのかい?」


「そういう気分になるときはあります。でも曲目によりますね」


「うむ、ところで、私のところにもインターネットの端末はあるのだが、あまり使わないし、だいぶ前に壊れてそのままだ。テレビもほとんど見ることはない。なにしろこの山奥だからな」


「インターネットなら私に連絡くだされば、すぐにでもうかがいましたが?……」


「いや、研究の時間をさくようなことまではね。そういえば、その研究だが、うまくいったのかね?」


「ええ、思うとおりに。ただ、査読はありますので……」


「たしか、今までにない、革新的な宇宙航法に関するものだったな。それが実現すれば、いずれは未知の惑星の文明と接触するかもしれない。それが人類固有の文化、哲学、それと宗教にまで変革をもたらし、新しい社会が生まれるかもしれない。宇宙の中の行き詰まった孤独から解放されるということかな。いやこれは遠い未来の空想だな」


「……人類未踏の地ですか? そうなるといいですね。でも、確かにまだでき上がったばかりの、理論の段階ですから」


「いや、君のような理想を志す者が継続すれば達成するだろう。でもそうだな。できれば、わしの生きているうちに実現してほしいよ。だがタバコの吸いすぎで、どうかな」


「……では、タバコをやめられたらどうでしょう?」


「禁煙したら人生に味わいがなくなってしまうよ……」


 二人は、おだやかに笑った。


「それで君は、論文を手に東京かね?」


「はい、ああ、いえ今日は挨拶だけにしようと思いまして……」


「ふむ、そうか……」


「私が行くことに賛成ではないようですね。お聞かせ願えますか?」


「……あまり多くは語るつもりはないのだが、山暮らしが長ければ、君も直感しただろう? 自然界を畏怖することと、人間を怖れることとは別なのだ。妙な老人の忠告と受け取ってかまわない。科学では自然界のすべてを知ることはできないという言説がある。だが少なくとも、基礎の学問は必要で、自然を見晴るかしながら、畏怖の眼差しもより深く備わる。ところが人間の中には、どのように紐解こうと理解できないものもいる。そこに人間の恐ろしさが隠れている。ヘーゲルがよくなかったのだろう。近代主観主義という牢獄。さらに量子力学を歪めて広めた者がいた。オカルトと結びつけるなどと、確信があってそうしたのかどうか。そのために、さらに情況を悪くしてしまった。人間の内面世界を奇怪なものに変えてしまった。……ああいかんな……」


 老人は言葉を止めた。傾聴していた彼は、答えにあぐねた様子である。老人は沈黙の間を埋めるようにパイプをくゆらせる。


「……すまない、話が変な方向へ流れたな、歳をとるとつまらない愚痴がよく出てしまう……」


「いえ、胸の内にとめておきます」


「まあまあ、そう畏まるな」


 いつの間にか、雨音は止み、窓の外は明るくなっていた。彼は、アンズの香りがする紅茶をひとすすりすると腕時計を見る。


「では、そろそろ私は……」


 とつぜん店の出入口が、鈴の音を鳴らしながら開いた。彼が入ってきたときとは違い、乱暴な音だ。十歳すぎに見える少女が一人、機嫌の悪さを押さえた顔で、入るなり会釈をしてきた。長いスカートの赤いワンピース。その上に装飾的な深黒の上着を重ねている。どこかから着想を得たらしく、古風な洋装を真似しているようだ。細小な身体は、彼の前へ進み立った。彼女の白い肌は、薄暗い店内の中にあって、周りの空気へほのかな光を与えているように見えた。


「……聞きましたわ、先生、もう帰って来ないのかしら?」


「怖い顔だな。許してくれよ。また、戻ってくるから……」


 少女の茶色がかった黒髪は、片方に三つ編みを一本さげて、赤紫のリボンも結んでいる。その小さな頭がかしげた。


「……お仕事があるのは分かりますけれど、でも、やっと偏微分がわかったところなのに………」


 彼女は、両の手を後ろに組み、眉を曇らせた。幼さに似合わぬ、担当教授の前で単位をもらえないわがままな学生のように振る舞う。


 彼がすぐには答えられないでいると、老人はくゆらせるパイプのくわえ方を変え、目じりに皺をつくった。


「……どうも、わしでは数学の教え方が下手でな。君にまかせて助かった」


 まだ返事をもらえない少女は、大人のすでについた都合へ分別のつかない顔を強調する。


「あたし、もっと勉強したいのに……」


 彼は腰を浮かせて座りなおし、前屈みで少女の顔を覗き込む。


「ごめんね。戻ったら続けようね。ところで本は読んでいるのかい?」


「え? ええ……」


「今はどんなのかな?」


「……ええっと……」


 こたえづらい彼女を見て、老人が、パイプを口から離す。


「孫に本を与えているのだが、もちろん無理やりに読ませているわけではない。本人の気が向いたものだ。それでこの前だったな。モンゴメリーとオールコット、それと、フランク・ハーバートの本が埃をかぶっていたので渡してみたら、しばらくしてフランク・ハーバートが一番よいと言って、夢中になって繰り返し読んでいたのだよ」


 老人が代わりに答えたので、彼は、少女の顔を束の間たしかめる。


「……うむ、何がよかったかな?」


 少女は、三つ編みを片手でもてあそぶようにいじり、ためらい気味に瞼を瞬きしたかと思うと、次には頬をうっすらと赤くした。


「……ベネ・ゲセリット……」


「おやおや、四姉妹とかアンでは駄目なのかい?」


 彼のややもすれば問い詰めるような反応は、少女を不平な顔に変えた。彼女は口を結んで首を左右にふる。彼は自分の顎先を、右手で押さえるようにつまみ、考えるしぐさをしてみせた。


「私は、そうだな。やさしい女性が好きなんだけれど……でもだからって押しつけたりはしないよ。でもなぜだい?」


 思案する彼の調子にあわせたように、少女も小首をかしげてみせる。老人も首をかしげかけたが、思案の二の舞いを避けたい顔をした次には、目尻にまた皺をよせる。


「この子は、気難しくてね。こんな具合なんだよ……」


 老人の投げた言葉のボールを受け取った彼は、おだやかな笑顔で少女と向き合い、また顎先をいじってみるが動きを止める。


「私は映画も見たことはあるけれど、その物語では、ハルコンネン男爵がとても恐ろしかったね。でもこの国には、そういう人間はいないから安心だよ」


「……先生、そのお話しですけれど……」


 それきりに、赤に黒い服装の少女は、別の話題へ何も言わず、いまだに胸のつかえが下がりきらない目を返すだけだ。老人も、少女の気持ちを悟ったようで気に掛けた表情を浮かべている。パイプを手に、口を切り結んだまま黙していた。


「今日は、その三つ編みは綺麗だね。服と似合っているよ」


 また話題を変えた彼に見つめられ、彼女は避けたく瞳を左右へ動かす。


「……そうかしら先生、はじめは鏡を見ながら編んだのですけれど、失敗してしまったの……」


 そのとき何とはなしに、彼は壁にかけてある時計をちらりと見た。


「……そろそろ行かないと。帰ったらまた話そうね。約束するよ」


 立ち上がった彼は、少女の頭をなでると出入口の扉へ向かった。別れ惜しむ顔の少女は、手をふりつつも、テーブルのジャムへ、ちらりと視線を移していた。紫煙の止んだパイプを握る老人は、座ったまま見送る。


「昔なじみと会えるといいね。君が子ども時代に、彼とよく遊んでいたのを思い出す。あの物語を思い出した。ええっと、主人公ともう一人」


「スターリングとオスカーですか?」


「うむ、そこはアメリカのオレゴン州であるが。……土産話は不要だからな。奥さんと息子さんによろしく……」


 彼は、老人へ深く会釈し、少女へ軽く手を振ると、扉の鈴を鳴らして店を出た。


 入ったときよりも日は高く、まぶしさから瞼を閉じ気味にあたりを見渡す。すぐにただよっている濡れた緑の香りを、鼻腔に吸い込んでみる。薄紅葉の混じる、落ち広がっている濡れた葉を靴で踏み、湿った地面の感触を確かめると、ふたたび下山の方向へ歩きはじめた。


 しばらくして後ろを振り返ると、来た道はふたたび霧の白色に閉ざされていた。その向こうにあるはずの木造家屋へ、遠い視線をむける。雨も風もなく、鳥のさえずりもない。あたりは静まっていた。


 さきほど会ったばかりだというのに、彼は面影を目でおう。自分が今いる所に気付いて、踵を返して道をすすもうとした。が、一歩が止まってしまう。足元に咲く二輪のナデシコの花が視界に入ったのだ。気付かなければ踏み潰すところだった。彼はその小さな白い花をよけて道をすすんだ。


 その後バスや鉄道を乗り継ぐ。列車の窓から見える遠ざかる山々の、景観を眺めながら、家族や友人の顔が脳裏に浮かぶ。背広のポケットから一冊の手帳を出した。一つのページで手が止まる。


「また、この本を読んでみるかな。古本屋にあるだろうか。二千百年という未来か……こうなって欲しいものだ」


 つい口の端に笑みがこぼれてしまった。

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