捜査編

1.

5月30日 午後7時23分



 まるで質量を持った空気が部屋の底に沈殿していくかのように、沈黙が支配していた。

 創介がいる部屋は四畳半ほどのスペースしかなく、三方を囲む灰色の壁が余計に息苦しい。

 唯一のドアは部屋の反対側にあり、その前を塞ぐように強面の男がテーブルを挟んで対面に座っている。

 〝ベイカー・ベーカリー〟に救急隊や警察、呼んでもいないのに湧いて出てきたマスコミが到着した後、創介たちは場所を中央警察署に移して事情聴取を受けていた。

 型通りの職務質問と持ち物検査が一人ずつ行われ、創介の順番が回ってきたのはとうに日が暮れた後だった。

 しかも取調室に入ってからかれこれ五分以上経過しているが、目の前の刑事は一言も発していない。口を真一文字に引き結んだまま腕を組んでみたり、そうかと思えばこれみよがしに手元のファイルをめくったりしている。

 流石に顔面に電球の光を煌々こうこうと当てられたりはしていないが、創介はこれが単なる事情聴取ではないと悟った。

 目の前の刑事は自分を焦らし、精神的に追い詰めようとしているに違いない。熟練のハンターの如くジっと機を窺い、そして獲物がしびれを切らしたのを見計らって一気に尋問するつもりだろう。

 確かに人を殺したばかりの犯人には有効な戦術かもしれないが、見当違いの相手にやっていては単なる時間のムダでしかない。

 貴重な捜査員の時間を浪費させるのもしのびなかったので、創介は自分から話を切り出した。


「刑事さん、もしかしてこれは事故や病気ではなく殺人事件なんですか?」

 創介のよく透る声がコンクリートの壁に反響する。

「何故、そう思うんだね?」

 刑事はしかめっ面のまま訊き返した。

「亡くなったお客さんの救命措置をしたのは自分です。とても心臓の弱い方には見えませんでした」


 創介はテーブルの半分を占領していたパンの皿を思い出す。

 小麦粉などの精製された炭水化物や、バターやチーズに含まれる飽和脂肪酸は心臓に疾患を抱えている者にとっては最大の禁忌だ。あんなに注文するなんておかしい。

 それに創介は殺人課の刑事独特の雰囲気というものをよく知っていた。

 この世の全てを疑ってかかっているかのような擦れた表情や口調……。それでいて瞳の奥には正義の残り火がくすぶっている。

 程度の差はあっても、目の前の刑事からもそれを確かに感じられた。


「そう、君は発作を起こして倒れた女性に対してAEDによる除細動と心臓マッサージを行ったと、救急隊員に報告したそうだね?」

「はい、救命措置については大学で講義を受けていたので……あのお客さんが左胸を押さえて机に突っ伏してて、唇にチアノーゼも見られたので心室細動しんしつさいどうを疑い、教本通りAEDによる除細動を試みました」

 しかし必死の救命もむなしく、彼女は帰らぬ人となってしまった。

 創介の手には今も人間がただの物に変わっていく、なんとも拭い難い感触が残っている。


〈そう言えば、あれから手を洗ってないな……〉

 創介は無性に洗面所に駆け込みたい衝動に駆られたが、目の前の刑事はまだ解放してくれそうになかった。


「大学ねぇ……確か、君は明智医科大学の二年生だったね。あそこなら隣にデカい病院もあることだし、薬品には不自由しなさそうだな?」

「ちょっと待って下さい。自分が彼女を助けるフリをして毒を盛ったって言うんですか?」

 おもわず創介が聞き返すと、刑事はギラリと目を光らせた。

「何もそこまでは言ってないが、もしそう聞こえるんだとしたら君の方に何かやましい事があるんじゃないのかね?」

 刑事は今まで以上に凄みのある目つきで睨んだ。

 創介は不用意なことを言ってしまったと後悔したがもう遅い。刑事はかかった獲物を一気に釣り上げるように矢継ぎ早に言葉をかぶせる。

「君の言う通り、被害者・逢原由佳あいはらゆかさんの死因はアコニチン中毒による心停止……つまり毒殺だ! だが何故君がそれを知っている?」

 一言一言が砲声のように重たい衝撃となって取調室の壁に反響する中、創介は大学の講義で習った知識を頭の中から引っぱりだしていた。


 アコニチンは神経系に作用する極めて強力なアルカロイド――つまり神経毒の一つだ。

 人体の細胞にはナトリウムイオンポンプやカリウムイオンチャンネル、ナトリウムイオンチャンネルといった細胞の内と外で電荷を持った原子をやりとりする仕組みが備わっていて、イオンを出し入れすることで電位差を生み出し、筋肉を動かしたり、神経伝達を行ったりしている。

 アコニチンはこのナトリウムイオンチャンネルに取り付き、開きっぱなしにすることで神経伝達を阻害する。

 その結果引き起こされるのは、呼吸中枢や循環器系の麻痺、心室細動といった極めて即効性が高く、かつ致命的な中毒症状だ。しかも体重60kgの人間に対して1.7g程度とティースプーン一杯にも満たない量で人を死に至らしめるほど毒性が強い。

 そんな猛毒が自分のすぐ身近で使われたことに恐ろしさと犯人に対する怒りを覚えた。


 一方、刑事の表情もますます険しさを増し、今や仁王像のようだ。

「フン、言えないなら代わりに答えてやろう。毒物は被害者の飲み物から検出された。つまり、君が淹れた飲み物だ! そうだろ!?」

「そんな、違いますよ。だいたい自分がカフェラテを作った後、彼女は席を外しています。その間に他の誰かが毒を入れた可能性だってあるじゃないですか」

「確かに被害者の友人の米田真美よねだまみさんもそう証言している。君が二人に飲み物を淹れている間、由佳さんが先にトイレに立ち、その後、自分も雑誌を取りに行ったり、パンを選んだりしていて五分ほど席を外していたと……」

 ならば尚更、あの時店に居た誰にでも由佳さんのカップに毒を入れるチャンスがあったはずだ。

 創介がそう反論するよりも先に刑事が口を開いた。


「君が淹れたのが普通の飲み物だったらな……」


「え?」

「毒はカプセルに入っていたのだよ」


 刑事はファイルから写真を一枚抜き取ると創介の前に滑らせた。

 写真は店の床を写したもので、テーブルからだらりと垂れ下がった被害者の腕が見切れている。見ていてあまり気持ちの良い写真では無いが、しかし見るべきものが床の上に落ちていた。

 こぼれたカフェラテの上、砕けたカップやラテアートの泡に紛れて長さ一センチほどの白いカプセルが浮かんでいる。カプセルは半分溶けかけていて、中から黄ばんだ液体がドロリと染み出していた。


〈こんな物が落ちてたなんて、あの時は全然気付かなかった……〉

 創介はようやく何故、自分だけが疑われているのか理解した。

「これがただのコーヒーだったら何の問題もない。だが君が作る“立体ラテアート”とやらは、カップの上に泡でクマやウサギの形を作ったりするそうだが、その泡を崩さずにカップの中に毒入りカプセルを中に入れる事は不可能だ」


 そう、液体や顆粒状なら泡の上からでも形を崩さずに毒を入れることができるだろう。しかし毒がカプセルに入れられていたとなると、泡の中に押し込まなくてはいけない。トイレから戻ってきて、不自然に穴の空いた白熊を見たら、あの被害者の性格からしてそのまま大人しく飲むとは思えなかった。


「……刑事さんがおっしゃりたいことはもっともです」

 おもわずうなだれた創介の言葉に刑事は満足そうに腕を組んだ。

 しかし次に続く創介のセリフに再び眉がつり上がっていく。

「でも、失礼を承知で言いますけど、やっぱり自分以外にも毒を入れるチャンスはあったと思います」

「いい加減しろよ? コッチが下手に出てると思って、まだシラを切るつもりか!?」

 刑事はおもわず血管が浮き出るほど硬く握りしめた拳を机に向かって振り下ろした。灰皿が三センチほど浮き上がり、カタカタと耳障りな金属音を立てる。刑事の顔は怒りの形相のまま真っ赤に紅潮し、今や赤不動のようだ。

 もし本当に創介が真犯人だったならば、縮み上がって全てを白状していたことだろう。しかし創介には全くやましい所が無かったため、一連の論理にある綻びに気付いていた。

「だって、床の上に溶けかけのカプセルが落ちていたからといって、それが最初からカップに入っていたとは限らないじゃないですか」


 例えば、誰かがスポイトか何かで液体のままカップに毒を入れたとしよう。

 二次元のラテアートなら模様が崩れてしまうが、泡の塊なら液体の一滴、二滴ではそう簡単に崩れない。被害者の女性は特に不審に思うことなくそれを飲むだろう。

 そして数分で毒が体に回り、発作を起こす。

 心室細動を惹起じゃっきする強力な毒物だ。ドラマのように血を吐いて終わりなんて事はない。心臓が破裂するような激痛と息が出来ない地獄の苦しみを数十秒間味わうことになる。

 その時、カップが割れないにしても、勢い余って中身をこぼしてしまうことは十分に予測できたはずだ。あとは現場の混乱に乗じて、こぼれたカフェラテの上にさり気なく溶けかけのカプセルを落とせば、元々入れられていたものかどうか見分けがつかなくなるはずだ。

 つまり、被害者を直接死に追いやった毒と現場で発見された毒入りカプセルは別物で、この方法なら容疑者は創介だけとは限らない。

 創介がそのことを理論立てて説明すると、刑事は苦虫を半ダースばかりまとめて噛み潰したような顔をした。


「ったく、最近の学生はみんなこうなのか? 君で二人目だよ、〝凶器の誤認〟だ何だと、妙なヘリクツを並べて警察の捜査の揚げ足を取ったのは」

〈学生って……あの待ち合わせをしてた女の子?〉

 あの時、店にはテラス席に座っていたカップルも居たが、何故か創介の頭に思い浮かんだのはあのセーラー服を着た女子高生だった。

 常に俯き加減で、誰とも目を合わせようとしなかったが、深煎りしたコーヒーのような黒い瞳には深い知性の輝きと、常に周囲に注意を向けているような鋭さがあった。


「いいか名探偵? 君たちが読んでるようなマンガに出てくる警察と違って、現実の我々は地道で細かい捜査と裏取りを積み重ねて被疑者を捕まえる。当然、店の中は徹底的に調べ尽くした」

 創介の追懐を断ち切るように刑事は身を乗り出し、強い調子で告げる。

「そしたら出てきたよ、もう一つ毒入りカプセルが! 被害者と同じ席に座っていた米田真美のカップから!」

 最後のカードを切るように、刑事は更に二枚の写真を机に投げつけた。

 一枚はカップの縁に前足をかけ、顔を覗かせた仔犬の立体ラテアートだ。

 テーブルの反対側にあったため、辛うじて被害を免れたのだろう。ソーサーの上に中身が少しこぼれているものの、泡の造形に不審な点は無い。

 そしてもう一枚はそのラテアートと中身のカフェラテを取り除いたもので、カップの底にはクレマと一緒に溶けかけのカプセルが残っていた。


「ああ……これは流石に自分が疑われるのは仕方ないですね……」


 創介は自嘲気味に呻いた。

 確かに自分がコーヒーを注いだ時はこんな物は入っていなかった。その後すぐに〝立体ラテアート〟がカップにフタをしたはずなのに、開けてみたら毒入りカプセルが出て来るなんて、まるで悪趣味なマジックを見ている気分だ。


「ふざけるのもいい加減にしろ!」


 創介のヘラヘラした態度が気に入らなかったのか、刑事が再び机を叩いた。

「お前が犯人なのは分かっているんだ! 薬品なら大学でいくらでも手に入るしな? おおかた、自分で毒物を作って試したくなったんだろ? 頭のイカれた学生が考えそうなことだ!」

「いや、そこまで人間歪んでませんて」

 創介の頭から丸呑みしそうな勢いで身を乗り出す刑事に対し、創介がのらりくらりと追求をかわしていると、不意に取調室のドアが開いた。


「オイオイ、今日は事情聴取だけのはずだろ? いつまで時間かけてるつもりだ?」

箕輪みのわ警部っ!?」

 刑事は慌てて立ち上がると直立不動の姿勢で出迎えた。

 部屋に入ってきたのは年配の刑事で、短く刈り込んだ髪と口ひげには白いものが混じっている。しかし胸板は厚く、背中には鉄の棒でも入っているのかのよにまっすぐ伸びていて、肉体的な衰えを全く感じさせない。むしろ若い刑事よりもムダなぜい肉が無い分、スマートに見えた。

「お言葉ですが箕輪警部、この少年は今回の事件の重要な証言を握っていると思われます。ですから任意取り調べに切り替えて供述を――」

「分かった、分かった。だが、お前さんのその血が昇った頭じゃ、聴けるもんも聴けんだろ? あとは俺がやっておくからお前さんは他の関係者を帰してこい」

 ツバを飛ばしながらまくし立てる刑事を箕輪警部がどうにかなだめ、取調室の外に追い出すと再び沈黙が降りた。


「タバコいいか? ウチじゃアレがうるさくてなかなか吸えなくてな」

 創介が頷くと箕輪警部はひっくり返った灰皿を引き寄せ、タバコに火をつけた。

 紫煙とともに漂うすえた臭いに少し息苦しさを覚えたが顔には出さない。

 そんな創介を見て箕輪警部は声だけで笑った。

「なんだかお前さんと初めて会った時のことを思い出すな。あん時もそうやってケロッとした顔でそこに座ってたっけ……」

「たしか、あの時はまだ辰彦たつひこさんもヒゲは生えてなかったですよね」

 創介はまだ高校生だった頃の事を思い出す。あの時も箕輪警部と創介はこうして取調室のテーブルを挟んで向かい合わせに座っていた。

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