第2話 

「落ち着きましたか?」転は胸から華秀を離し、顔を覗き込んだ。「まさか泣かれるとは思っていなかったので、吃驚しましたよ?」

「後半はころちゃんのアイアンクローがあたしの脳をデストロイし始めたから、うれし泣きじゃなくてガチ泣きしてたよ?」


「そうですか? はい、それじゃあ」転は頷き、自分の胸を指差す。「転さんの胸は――」

「ふかふか等身大ぬいぐるみぃ」

「はい、良く出来ました」


「洗脳じゃねぇか」アキラが呆けた顔で転にツッコミを入れると、華秀に目で何かを訴えかけるのだが、まったく気が付く様子がないため、諦めたのか口を開く。「え~っと――」


「中村 転――と、申します」

「え? あ、えっと……私のことはアキラで」

「アキラさんですね。よろしくお願いします」転は深々と頭を下げると、まだまだ余所余所しく困惑しているアキラと未だに呆けているマヤに、どこか高貴で高級商品のように感じられる笑顔を向けた。


 すると、アキラが華秀の腕を引っ張り、チラチラと転を見ながら耳打ちする。

「お、おい、あんな綺麗な子、この学校にいたか? なんだあれ、オーラがバリバリお嬢様じゃねぇか」

「え? あ、そっか、アキラちゃんもマヤちゃんもこの島の人じゃないから知らないんだ」華秀は一人納得したように手を叩くと、転は有名人だと言う。「中村海運って聞いたことない? そこの1人娘だよ」


「は?」

「ふぇ?」マヤは昼食のオレンジを丁寧に食べていたが、その手を止めた。

 アキラもマヤも素っ頓狂な声を上げた後、まじまじと転を見た。


 当然である。この灯乃府群島に住んでいれば、必ず目にする名前で、転の叔母であり、現在の社長である中村(なかむら) 律子(のりこ)は商売委員会会長でもあるのだ。例え、商売委員会に詳しくない者でも、その名は全ての島に広がっているものであり、海運の中村と言えば誰もが顔を思い出せる程度には知名度がある。


 そもそも、何故それだけの知名度があるのかと言うと、この灯乃府群島は本土とは隔離されており、本土での普通が通用しないこともしばしば――それは海運業もそうで、本土では決まった会社がそれを行なっているが、ここでは海運の全てを中村海運が引き受けているのである。つまり、学校の選択によっては定期的に船を使わなくてはならず、荷物も船、さらには群島であるために使用頻度も多く、1日に一定数は確実にお世話になるものがいるのだ。そして、他に海運会社はなく、中村海運だけしか使えないのである。


「うぇ? え? そ、そんなお嬢様がどうしてここに?」本当に驚いたのか、マヤはほとんど離さなかった携帯端末をテーブルに置き、どこか懐疑的な視線を転と華秀に向けた。


「ころちゃんはあたしの友だちだよ。小学校の時、ずっとクラスが同じでよく遊んでたんだよぉ」華秀は自慢げに胸を張り、したり顔で「がぅがう」し始めた。しかし、落ち着いて冷静になれたからか、人差し指を顎に添えて、首をコテンと傾ける。「でも、ころちゃんって本土に行っちゃったよね? あたし、もう会えないかと思ってたよぉ」


「大袈裟ですよ。ここは私の故郷なんですから――」

「でも船乗るのも面倒くさがるよね?」

「………………」転はそっぽを向き、今どきの女子高生のように、執着に髪と爪を弄りだした。


「ころちゃん、どうして帰ってきたの?」

「……」すると、転は芝居がかったようにその場に膝から崩れ、袖を目に当てながら泣き真似をし始める。「ヨヨヨ――華秀さんは私が戻ってきても嬉しくないのですね」

「え? そ、そんなこと言ってないでしょ! あたしはただ、その理由を聞いてるだけで――」


「叔母様と理事長に戻って来いと強制されました」転は両人差し指を頬に添え、舌をベッと出しながら満面のスマイル。一級品の笑顔に三流以下の言動。「……まったく、私の自堕落生活を返してほしいですよ」


「……ころちゃん、一体何やったのさ」

「華秀さん――」転は悟りきった表情で、窓から臨む天涯に想いを馳せるように手を伸ばした。「何も……していなかったから、ですよ」


「え? 大学は!」

「そんなところに私が行くと思いますか?」手のひらに顎を乗せ、心底困ったようにため息を吐く転。「お母様とお父様が残してくれた財産は、私が一生遊んで暮らせる程のものでした……何故、働かなくてはならないのです? 何故、働くためのステップである大学に行かなくてはならないのです?」

「あ、うん、ころちゃんそういう人だったね」


「……お嬢様って拗らせるとこうなんだなぁ」

「アハハ……」この群島で知らぬ者なし。と、言われる中村家の跡取りのこのような姿に驚いているのだろう。微妙な表情でアキラとマヤは苦笑い。すると、マヤの携帯が振動し始めた。「あ――」


「あら、素敵な顔」転は、マヤが携帯の画面を覗き込んだ瞬間にパッと咲いたような笑顔になったのを言っているのだろう。確かに、それはとても綺麗で、儚い――しかし、転はどこか不安そうな瞳をマヤに向けていた。「………………」

「ころちゃん?」

「え? あ、いえ――ああいう素敵な笑顔は好きですよ。私、老若男女可愛らしい人の幸せは大好きですから」転は先ほどと同じようなお嬢様スマイルで返事をした。「これはもしや、あれですか? あぁ、その幸せをちょっとでも肌に触れさせるだけで満足ですわ。これで私は恋愛しなくても大丈夫――いい加減、私にお見合い写真を寄越す『センリツ』と理事長は気付くべきです」


「……ころちゃん」転を可愛らしく半目で睨む華秀は、もう諦めきっているのか、ハフっと息を吐き、アキラと一緒にマヤを見る。「マヤちゃんの初めての彼氏さんだっけ?」

「そ、そ――まぁ、色々あってさ、マヤ、男が苦手だったんだけどな、良かったよ。何だか、当てられて暑くなっちまうな」

「へ~……」アキラの保護者のような笑みに釣られてなのか、華秀も落ち着いた笑みを浮かべ、友人であるマヤを祝う。「マヤちゃんマヤちゃん、もうご飯も終わったし、会いに行って来れば? ここにいるところちゃんのせいで怠惰の悪魔がやってくるよぉ」

「どういう意味ですかぁ?」

「え? そのままの意味だイタタタタタっ」


 転が華秀の頭を掴んでいると、マヤがクスクスと声を漏らしている。

「うん――」マヤは控えめな上目遣いでアキラを覗いており、そのアキラが頷いたことで、昼食の食器を重ね始めた。「それじゃあお言葉に甘えるね。またね――」

 そう言って去っていくマヤを転も華秀も、アキラもホッコリした顔で見送る。

 マヤの背中はどこまでもご機嫌であり、これから素敵な時間を過ごすのだろう。と、雰囲気からでも察することができ、相手を心の底から好いていることが窺える。

 彼女は良い子だ。と、彼女と接した誰もが感じるだろう。そう、それだけ彼女は人に好かれる。どこか危うい雰囲気に、守ってあげたくなるような儚さ――。


「………………」

「ころちゃんはすぐ難しい顔をするよね?」

「……お気になさらず。私が彼女を語るには、5分は短過ぎます」


「――?」どこか突き放したような言い方の転に、華秀は控えめに「がぅがう?」と、答え、まるでヒツジのような能天気さでアキラに向かって口を開く。「アキラちゃん、マヤちゃんの彼氏さんって伊彩さんだよね」


「うん? ああそうだぜ、伊彩(いさや) ツカサ――マヤも中々の大物捕まえたよな。羨ましい」

「伊彩?」転はその名前に憶えがあるのか、案山子のように微動だせず思案顔を浮かべ、記憶の底に潜っても出てこなかったのか、首を横に振り、諦めたように手を上げる。「どちら様でしたっけ?」


「え? ころちゃんの所のお得意様だよね? ほら、呉服の衣蚕屋(いさや)さん」

「あ~……ああ! 画渡蚕(かくとかいこ)の!」

 衣蚕屋とは名前の通り、蚕の糸で織った衣服を扱っている店であり、衣蚕屋印の着物と言えばブランドが付いている。さらに最近は着物だけではなく、小物やどこへでも着て行けるデザインの服なども出しており、そこそこ裕福な層の婦女子には人気がある。


 そして、その衣服を別の島に運ぶのはもちろん中村海運であり、専用の船があるほどだ。


「もぉ、自分の所のお客さんを忘れるなんて、ころちゃんダメダメだよねぇ」

「私のお客様ではありませんもの。故にノーカンです」

「本当、親不孝と言うか、何と言うか――」したり顔(お嬢様ver.)で、華秀が使っていた紅茶入りのカップを口に運ぶ転を華秀はジト目で眺め、あまりにも自分勝手な言葉を咎める。「ころちゃん、もう子どもじゃないんだから、自分自身を見直した方が良いよ?」


「……一番子どもっぽい華秀さんに言われるとは」と、ショックだったのか、顔を伏せる転なのだが、すぐに開き直ったように顔を上げた。「しかしですよ? それは自身を顧みなくては生きていけない人がやることです。その点私はお金がたくさんありますから生きていけます。私の周りの人は、やれ働け、やれ何のために生きているんだ。など宣(のたま)いますが、生きるためのツールは全て揃っているのですから、それ以上増やす必要などありません。今回の強制帰郷も私のためだとか言っていますけれど、裏に隠れている真意が見え見えで――ハッ!」


「――? ころちゃん?」

 文句を長々と垂れていた転だが、突然何かを恐れるようにキョロキョロと辺りを見渡した。そして、脂汗を流し、青い顔で突然華秀に頭を下げたのである。

「華秀さん少し隠れさせてください」華秀を椅子から立たせる転の表情は真剣そのものである。


「え? 隠れるって――ひゃぁぁっ」エプロンドレスのスカートに頭を突っ込む転に、華秀はあたふたとして、スカートがめくり上がらないように押えた。「ちょ、ちょッ! ころちゃん何やって――」

「あ、おいヒデ、あれ――」

「えぅ?」


 動揺する華秀とアキラだが、2人に向かってくる人影――顔面に張り付いているのは確かに笑顔だが、所々に青筋が浮かんでおり、さらには腕に力がこもっているように見え、右手が大きく膨らんでいた。画渡総合教育機関理事長である速水(はやみ) 菊江(きくえ)である。


「わ、わ――理事長さん」

「華秀ちゃ――土屋さん、転さんを見ませんでしたか?」

「へ? ころちゃん――」

「ああ、ごめんなさい。実は1週間ほど前から帰ってきているのですよ」

 華秀は転が帰ってきていることはすでに知っているのだが、菊江の鬼のような形相に尻込みし、口をパクパク動かしていた。


「大事な用があって、今日の8時に私の部屋で待ち合わせをしたのだけれど、あの子、寝坊をしてさらにはバッくれようとしたのよ……」菊江の深いため息から、その苦労が窺える。「でも、街で見たという報告はないから、多分ここにいると思うのだけれど……土屋さんに絶対に会いに来ると思ってこうして尋ね――」

「あ、あはは――」


 菊江の視線が華秀のスカートに向けられた。当然であろう。華秀のスカートは不自然に膨らんでおり、モゾモゾと虫のように動いているのだ。


「……わ、私はスカートですよぉ。華秀さんのスカート――あら、懐かしい匂い。小学生の時からボディソープ変わっていませんね? 未だクマさん印のハニーフレグランス――」

「ちょ――ころちゃん何言ってるの! ちょっと大人になったもん! 増量デカクマさん使ってるもん!」

 既存のクマさんよりも容器が大きくなり、射出部分のクマの手も少し大きくなり、たくさん入っているデカクマさんボディソープ(320円税抜き)


「もう! ころちゃんなんて嫌い嫌い! がぅがう!」

「か、華秀さん! わ、私はここから出ていきませんよ! 私は華秀さんのスカートとして生きていくことを決めたのです! 例えスカートが千切られようともこのトラさんパンツは私が守りますから!」

「わーっ! わーっ!」


「………………」転と華秀のスカートでの攻防を静かに見ていた菊江だが、プッツンと青筋が破れたことで周囲の空気が凍り付いた。


 ある者は食欲が失せたのか、まだ皿に料理が残っているにも関わらず、そそくさと食器を持って移動したり、あるものは食堂に入った瞬間に、速攻で踵を返したり――鬼のお菊さん。この画渡総合教育機関には鬼が2人おり、もう一方の鬼に比べ、菊江はただただ怖い。と、評判である。


「転さん……」

「ひっ――え? あ……す、スカートですよ――」

「来なさい」有無も言わせない迫力。菊江は華秀のスカートに潜んでいる転の腕を取り、ニッコリと華秀のスカートをめくり上げた。「あなたが出てこないと、土屋さんが下着丸出しで引きずられる幼女というあだ名で、これから生活をしなくてはならなくなりますよ」


「ひ、卑怯ですよ! 華秀さんを人質に取るとは、それでも教育者ですか?」転はそっとスカートから顔を出し、菊江を睨む。「む~、そちらがその気なら……菊江おば様が華秀さんのスカートをめくるというのなら、私は華秀さんの下着を取っ払いますわ! それでもまだ、華秀さんのスカートをめくるというのなら、私は菊江おば様のことを生涯鬼鬼畜と呼び続けますわ」

「あなたが華秀ちゃんの下着を取らなければ良いだけじゃない! それと、すでにあなた、似たような名前を陰で呼んでいますわよね? 鬼のお菊さんはあなた発祥でしょうに!」


「も、もう! イヤイヤイヤッ! あたしを巻き込まないでよぉ!」可愛く顔を真っ赤にして、華秀は転をスカートから押し出した。

「か、華秀さん! 裏切るのですか! 私を――私を裏切るのですか!」どこか芝居がかったセリフと表情で、菊江に腕を引っ張られる転は大きく首を横に振る。「嗚呼、何と言うことでしょう。私は悪い鬼に食べられてしまうのですわ。それはもう残酷に……」


 引きずられているにも関わらず、それでもどこか余裕が感じられる声。

 指先をゴリゴリと鳴らしながら一本一本噛み砕き、体を舌で嬲りながらその長く鋭い爪を柔肌へと突き立てる。そして、悲鳴を上げ続ける私をあざ笑うように鬼のお菊さんは頬を爪先で撫で、滴る血に舌を伸ばす――転はそんなストーリーを周囲に聞こえるようよく通る声で謡う。


「私は一体何者ですか! さぁ! こっちへいらっしゃい!」

「い、嫌ですわ! 私はただ、自由を満喫したいだけ――」

「あなたに拒否権はありません」

「あ~――」


 菊江はそうして、転を引きずって行った。

 食堂には薄気味悪い、何とも後味の悪い静寂がクラゲのように揺蕩(たゆた)っており、何かしたわけでもないのに、罪悪感に頭を下げる学生が数人いた。

 そんな中、未だに顔を赤らめている華秀がぷっくりと頬を膨らませながら、スカートの埃を払うように叩(はた)いた。


「もう……猫被っていないころちゃんは、本当やりたい放題だなぁ」

「え? 猫――?」

「うん、小学中学の時は、友だち以外には良い子だったんだよ。でも、あたしたちの前じゃあんなのなんだよぉ。それでそういうのを知っている人からは、がっかりお嬢様――ってね」落ち着いたのか、ウインクを投げて転の説明をアキラにする華秀。「極端なことを言うと、縁側で寝そべってお尻掻いていてもお嬢様オーラだけは出てるようなガッカリ感」

「ああぁ、うん――ああ」


 納得したアキラに笑みをこぼす華秀は、転と菊江が去って行った方向を眺めた後、アキラに頭を下げる。心配だから、様子を見に行ってくる。と、アキラに断り、華秀は食器を重ねて、そのまま動き出した。

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