(2)突発的慰労会

「やっと終わったぁ……」

 夕刻もかなり遅くなってから商談先の社屋を出た沙織は、達成感と疲労感をない交ぜにした声音で一言漏らした。それを受けて、一緒に商談を進めていた朝永がスマホを操作する手を止め、後輩である沙織に笑いかける。


「ああ、何とか正式契約にまで持ち込めて良かったな」

「全くです。話を進めている段階で、あんな横槍が入るなんて。しかもあんなパチモンの分際で」

 憤然としながら口にした沙織を、朝永が呆れ気味に宥めた。


「こら、言い過ぎだぞ。別に偽物とか、粗悪品ってわけじゃないんだから」

「だけど品質はうちの製品の方が、段違いに良いですよ」

「だから仕事が取れたんだろ? その話はここまでだ」

「……分かりました」

 商談を進めていた段階で他社からの横槍が入り、契約締結が頓挫しかかった経緯もあって、沙織はこの間かなり神経をすり減らしていた。それは十分に分かっていた朝永は、苦笑気味に彼女に先程まで操作していたスマホの画面を見せる。


「そんな頑張った俺達に、課長からご褒美だ。無事契約成立の祝いに、今日俺とお前と佐々木に酒を奢ってくれるそうだ。時間が時間だし、用事がなければこのまま行くが、お前はどうする?」

「それは……」

 願ってもない話ではあったが、それを聞いた沙織は一瞬躊躇した。


(本音を言えば、お酒とか飲む気分じゃないんだけど……。このまま帰って鬱々していても、ジョニーが来てくれるとは限らないし……)

 しかし悩んだのは少しの間で、すぐに明るい表情で頷く。


「分かりました。ここは素直にご相伴に与って、徹底的に勝利の美酒を味わいましょう」

 既に飲む気満々の沙織を見て、朝永は若干不安そうな顔になった。


「お前、いける口だしな……。課長のことだから居酒屋じゃなくて、ちゃんとした店だろうから、際限なく飲んだりはするなよ?」

「勿論です。私はいつもちゃんと、限度と節度をわきまえてますよ?」

「うん、まあ……、確かにお前は、これまで一度も酒の席で失態をやらかした事はないし、そこら辺は信用しているがな」

 そこで話を切り上げ、朝永は沙織と共に合流予定の店に向かった。しかしこの時に彼が感じた漠然とした不安は、何時間か後に現実のものとなった。




「それでは、無事契約成立を祝って、乾杯」

「乾杯」

 テーブル毎に壁で仕切ってある、落ち着いた雰囲気の小料理屋で待ち合わせた四人は、笑顔で通された席に落ち着いた。それからさほど時間を要さずにお通しと友之が見繕った酒が運ばれ、中心となって商談を進めた朝永の音頭で乾杯し、青い切り子のグラスを傾ける。そして一口飲んだ友之がこの間頑張ってきた部下達に、改めて労いの言葉をかけた。


「三人ともお疲れ様。無事、契約成立にこぎ着けて良かったな。今日は俺の奢りだから、好きなだけ飲んでくれ」

「はい、早速ご馳走になります。それでは取り敢えず、清月華の純米大吟醸を」

「関本! お前、少しは遠慮しろ!」

 早速店に揃えてある酒のリストを引き寄せつつ、店員の呼び出しボタンを押した沙織を、朝永がテーブルの向かい側から呆れ気味に窘める。そんな中、沙織の隣に座っている佐々木が、恐縮気味に向かい側に座る友之に頭を下げた。


「すみません、課長。大した働きをしていないのに、俺までご相伴に与りまして……」

「気にするな。確かに表立って動いていたのは朝永と関本の二人だが、その下でデータの整理や書類の作成をしっかりやっていただろう?」

「はぁ、それはそうですが……」

「あと一年か二年したら、二人のように大きな仕事を任せることになるから、今のうちにしっかり二人の仕事ぶりを見ておけ。契約は締結したが、これから実際に納品を済ませるまで、まだまだやる事はたくさんあるからな」

「はい。分かりました」

 そう友之に言い聞かされた佐々木は真顔で頷き、ありがたく思いながら飲み始めた。すると隣の沙織が手酌で飲みながら、上機嫌に上司を褒め称える。


「課長。相変わらず男前で太っ腹! タダ酒だと思うと、ただでさえ美味しい酒が余計に美味しいですね!」

「だあぁぁっ、関本! お前、今日は飛ばし過ぎだ! それでもう何杯目だよ!? 女なんだからおとなしく、奢ってくれる課長に酌位しろ!」

 朝永がそう喚いた途端、沙織は彼に白い目を向けた。


「あ~、セクハラぁ~、男女差別ぅ~、いぃ~けないんだ~いけないんだぁ~」

「それは確かに悪かったし、失言だったのは認めるが!」

 ムキになって言い返そうとした朝永だったが、ここで沙織は隣の佐々木に向き直り、いきなり真顔で言い出した。


「佐々木君。『女の腐ったような』とか『男の癖に泣くな』とか『女の癖に生意気』とか口にする、頭が腐ったパワハラ野郎は、問答無用で蹴り倒すのよ? 高校の部活はサッカーで、FWだったよね?」

「はぁ……」

「よし! 今日は後輩に一つ、良い指導をした!」

 困惑顔で曖昧に頷いた佐々木を見て、沙織は満足そうに自画自賛して再び酒を飲み始めた。それを見た朝永が、頭を抱えながら友之に詫びを入れる。


「すみません、課長。こいつ今日、ちょっとノリが変で」

「ああ……、うん。大丈夫だ。気にしてないから。勿論、お酌なんかしなくても良いし」

「ですよね~。課長は新進気鋭の方ですもんね~」

「関本! お前、新進気鋭の意味、本当に分かってんのか!?」

 へラッと笑いながら言ってきた沙織を、朝永がすかさず叱りつける。その様子を横目で見ながら、佐々木は僅かにテーブル越しに身を乗り出して友之に囁いた。


「課長。いつもクールと言うか、感情が乏しいと周囲に誤解されがちな関本先輩にしては、確かに今日はちょっと変ですね」

 それに小さく溜め息を吐き、友之が答える。


「この仕事に関しては、これまでに色々あったしな……。ストレスが結構溜まっていたんだろう。きちんと帰れるか怪しかったら、今日は責任を持って俺が家まで送っていくから、佐々木は気にしないで飲んでくれ」

「本当にすみません、課長。今夜はご馳走になります」

 当初からその事を懸念していたらしい友之が、これまで殆ど酒を口にしていない事実に、佐々木はそこで漸く気が付いた。反射的に佐々木は頭を下げたが、それに友之が笑って頷く。それを見た佐々木は、その好意を無にするのは却って失礼だと割り切り、安心して飲み進めていった。


(それにしても……、関本は今日は本当にどうしたんだ? いつもは酒の席でも場を盛り下げたりはしないが、変に絡まれてもするりとかわして、冷静に飲み進めるタイプなのに)

 一人冷静に部下達の様子を観察しながら、控え目にグラスを口に運びつつ食べていた友之だったが、それから二時間経たないうちに事態が急変した。

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