第2章 第5話 ワンコの発狂、悲壮の兎

「……ぅえぃ――気持ちわる」兎がウぇっぷと嘔吐き、お腹を押えていた。「……若、友だちっつうのは何もやることなすこと一緒じゃなくても良いんですぜぃ?」

「……はい、学びました」志稲もまた、膝に手を置き、呼吸を荒げていた。「もう……二度と大盛り、では頼み、ません」


 そもそも、ここの食堂は並盛と大盛りに天と地ほどの差がある。普通大盛りと言えば、並盛に1、2品追加した程度ではないかと思うのだが、ここはそもそも重さが2、3倍ほどになる。そんなもの、どれだけ腹が空いていても食えるものではないだろう……食えるものではないだろう。


 夜恵、志稲、兎の三人は更衣室から出て、練習用レーンの傍にたむろしていた。

「……で? 嬢ちゃんはどうして満足げなんだ?」

「え? 美味しかったから」まさかの完食――夜恵は大盛りを難なく平らげ、さらには志稲も兎も食べられなかった残りも全部食べたのである。一体、日々どれだけのエネルギーを消費しているのだろうか?「普段、たくさん食べちゃうから抑えてるんだけど、ここの食堂は安くてたくさん食べれて良いね」


「一体、あんだけの量が体のどこに――」

「胸よ!」乙愛が割って入ってきた。「やっほぉ、みんなのアイドル、乙愛ちゃんよ」


「……アイドル名はOMA20ですぜぃ」

「意味はどういうものかしら?」乙愛はわなわなと口角を震わせ、兎と取っ組み合う。

「か、簡単ですぜぃ。お迎えまであと20年の略ですぜ――」

「もうちょっと長生きするわよ!」

「いや、成仏してくだせぇ」

「まだ死んでないわよ!」乙愛は兎の頭を両手で握り、力を込めた後、大きなため息を吐いた。「あ~ぁ――」


「ひぃ! 頭が砕けるですぜ――って? 痛くねぇですぜぃ」兎は血管が浮き出るほど頭に込めていた力を抜き、乙愛をおずおずと見る。

「……あんた、毎日幸せそうねぇ」

「親父にそれを言われるとは思ってもいなかったですぜぃ」

「……あのね、あたしだって色々考えているのよ。あ~、面倒くさい」

「工場長ちゃん? なんかあったの?」夜恵が乙愛の頭を撫でながら顔を覗き込んで、乙愛の悩みを聞こうとする。「何かお手伝いしようか?」


「夜恵ちゃんは良い子ねぇ。兎、あんたは見習いなさい」

「尊敬出来る工場長になってから言ってくだせぃ」普段の乙愛であるなら、ここで兎が壁に叩きつけられるところだが、本当に悩みがあるのか兎に目もくれず、乙愛はまたため息。「……え? 殴らないんですかぃ?」


「そんな気分じゃないのよ」乙愛は木製のパレット(荷役台)に腰を下ろし、両ひざに肘を乗せ、手に顎を乗せて膨れる。黙っていれば美少女。「クソ親父にも呼ばれてるし……は~」


 乙愛の様子がどうにもおかしいのだが、度々兎を半目で睨んではため息を吐き、折り畳み式の携帯電話を開いて、画面を見てはまたため息。


「……あんのクソ社長、絶対面白がってるわ」

「工場長ちゃん……」夜恵が少し表情を歪めたのだが、すぐに明るい笑顔になり、乙愛の頭を自分の胸に寄せる。「よしよしぃ~」


「ふわぁっ――え? 夜恵ちゃん?」乙愛が珍しく困惑している。

「私がこうするとね、難しいことは考えられなくなるんだ。って、みんなに言われるんだぁ。だから、あんまり難しい顔してないで笑顔笑顔――そうすれば、何とかなるもんだよぉ」


 屈託のない笑顔とはこういうものを言うのだろう。悪意も他意もなく、ただただ純粋なだけのもの――夜恵の浮かべた表情はまさにそれなのである。

 悩みも、心の引っかかりも、力んでいた身体も心も全てが解けるように――。


「………………」乙愛はフッと笑みを漏らす。「――ええ、そうね。考えていても仕方ないわ。あのアホ社長が面白がっているのなら、まだやり様はあるわ。ええ、うん――」


「元気出た?」

「うん、ありがとう」花が咲いたような笑みを浮かべた乙愛が顔を上げると同時に、兎に見えない拳を放ち、兎を吹き飛ばした後、夜恵の頭を胸に抱き、夜恵がやったように頭を撫で始める。「もぉ~、夜恵ちゃん本当良い子。雇って良かったわぁ」


 そう言って乙愛は立ち上がり、夜恵たちに背を向ける。


「そうと決まったら……志稲――」

「え? あ、はい」

「明日、あたしと勇雄いないからよろしくね。兎――」乙愛は起き上がった兎に、ポケットから取り出した十円玉を射出する。そして、兎がそれを手で掴んだのを見ると、頷き、口を開く。「あんたも10年ここにいるし、そろそろ半人前でしょ。明日あたしがいないけれど、夜恵ちゃんと志稲の面倒をちゃんと見なさいね」


「え? 死にに行くんですかぃ?」乙愛の言葉を死亡フラグと取った兎であった。

「……うんなわけないでしょ」少し言いよどんだように聞こえたのだが、乙愛は普段通り勝気で自信満々で、カワイこぶった表情でウインクした。「良いから返事しなさいな」


「……ウッす」兎は頭を掻きながら返事をするのだが、ふと思い出したのか、手を叩き、乙愛に訝しげな視線を向ける。「――っと、思い出した。親父、さっきヒヨコが言ってたのは本当ですかぃ? 残業が増えたって話」


「ひよこ?」夜恵が首を傾げていると、志稲が先ほどのラジオの男――雛田(ひなた) 熊陽(ゆうひ)がヒヨコと呼ばれていることを教える。


「何よあんた、勇雄から聞いていないの?」乙愛が肩を竦めるのだが、それを見た志稲が兎の耳を塞ごうとする。「バカ犬がこの工場閉めようと画策してて、変ないちゃもんつけてくんのよ」


 しかし、志稲の行動も空しく、乙愛はワンコのせいで残業が増えたことを兎に話してしまうのである。


「――え?」兎が目を点にするのだが、すぐに表情を引き攣らせ、それを否定する。「い、いやいや、ワンコに何が出来るんですかぃ? どうせ口だけですぜぃ」


「……そうだと良いんだけれどね」乙愛はそれだけ言うと、今度こそ自室に向かって歩き出した。しかし、振り返り、兎を指差す。「まっ、このスーパー可憐で天使系工場長が何とかしてあげるから、あんたはあんたでどうにかなさい」

 手をヒラヒラと振りながら去って行った乙愛を夜恵と志稲、兎は呆然と眺めていた。

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