7.哀しい人

 その後、勝巳さんは赤ちゃんと女性を病院へ送りに行った。紗良さんは私が取り敢えず履くためのサンダルを買って来ると言って、一旦別れた。あとでそれを警察署に届けてくれるそうだ。


 彼らの会話の最後の方は何のことだか分からなかったが、二人の仲が変化したことだけは分かった。お似合いだと思うので、なんだか嬉しくなってしまう。


 警察署に到着した後、怜様は私達の隣の部屋に入れられた。

 水を飲んだ直後はまだ良かったが、車の中でどんどん具合が悪くなっていっているようだった。あの状態で、何も分からない中、警察官に話せることなどないだろう。


 私達の入れられたのは、机と椅子だけの殺風景な小部屋だ。扉の向こうは大部屋になっていて、何人もの人達が机に向かっている。


 私達を部屋に入れた勝巳さんの知り合いは、何かを取って来ると言って出ていった。


「私、なに話したらいいの?」

「うーん、どうしようか。勝巳さんがあの人に何をどれくらい言っているのか、その辺の話をしたかったんだけど、病院行っちゃったし……」


 取り敢えずどう思われようと、嘘は言わないでおこう、ということだけ決め、何もない部屋の中を見回したりして時間を潰した。




「今更蒸し返すのも格好悪いんだけど」


 伊織が言いにくそうに声を掛けてきた。


「何?」

「さっき、叶様がつらそうだった時、血を吸っていいって言っていただろ」

「ああ、うん。だって苦しそうだったから」

「うん。そうだよね。それが優しさなのかもしれないけれど」


 伊織は一度私から目を逸らし、再び見つめた。


「あれ、凄く嫌だった」


 少し怒ったような声で言い放つ。


「え、ごめん。でも平気だよ、ちょっとなら吸われても。私丈夫だから」

「そうじゃなくて」


 扉の向こうを伺い、私の首筋にそっと触れた。

 声を落とす。

 彼の手のぬくもりが、私の首に流れる血液を伝い、体の中を満たしてゆく。


「もう、この首筋を、俺以外の奴に触れさせたくないんだ」


 彼の細く長い指先が、首筋から肩に這う。

 濡れたように潤んだ鳶色の瞳が、私の心臓を強く掴む。


「この首筋も、唇も、髪も、肌も、なにもかも」


 喘ぐような囁きが、とろりとした熱を帯びて私の中に滴り落ちる。


「俺は凛子の、全てが欲しい」


 私は肩に這う彼の指先を捉えた。自分の指と絡み合わせ、膝の上に乗せる。

 微笑む。扉の向こうを伺い、彼を見つめる。


「あのね、この首筋も、唇も、髪も、肌も、なにもかも」


 躊躇ためらいと恥じらいを一枚ずつ剥がし、剥き出しの心で囁く。


「私は全部、伊織のものだよ」




 この世界の人達からすれば荒唐無稽に聞こえる私達の話を、警察官は戸惑いを見せながら聞いていた。


 本当は扉の向こうで待機しているのは、勝巳さんと赤ちゃんの母親だけのはずだった。あの時、もし警察官が一緒に来てくれなかったら、対応しきれなかったと思う。

 だが、そのことによって、あの扉の存在が明るみに出てしまった。

 以前、勝巳さんは伊織に、あの扉は「あってはならない」と言っていた。それなのに大丈夫なのだろうか。


「――では、今日はここまでにしましょうか。明日また来てもらえますか」


 その一言に、どっと力が抜ける。殆ど伊織が話してくれて、私は椅子に座っていただけなのだが、なんだか疲れた。背中を丸めて廊下に出る。


「凛子、大丈夫?」


 伊織が声を掛けてきたが、心配なのは彼の方だ。顔から疲労が色濃く滲み出ている。そうだ、彼はここのところずっと体調がよくないのだ。


 今日はゆっくり休んでほしいなあ。でも勝巳さんの家に泊まるとなると、また狭い台所の床に直接寝具を敷いて、大男二人で寝ることになるのか。あれでは休まらないだろう。

 どうしよう。でも、二人でどこかに泊まるとなるとお金がかかるし……。


 ……え? 二人で?


「おぅ、お疲れ。異世界往復して赤ん坊取り返してきたっつうのに休みなく色々聞いてごめんな。誘拐犯でもないのに鬼だよな」


 今、何か大事なことが思い浮かんだのだが、勝巳さんの大声で思考が遮られた。彼は伊織の肩を軽く叩いた後、視線を左の方へ移して顎をしゃくった。


「鬼といえば吸血鬼の旦那、あっちの部屋で休ませている。相当具合悪いみたいで、まともに話せない状態なんだ。こんな時どうしたらいい? 俺の血、少しやろうか。めっちゃ濃いよ」

「この世界に来てから牙が出なくなったみたいで、吸血出来ないんです。あの、叶様は誘拐の件とは無関係ですから、このまま向こうの世界へ帰してもいいと思うんですが。多分このままでは脱水が進んでしまうと思うんです」


 私もそれには賛成だ。この世界にずっといると弱ってしまうだろう。

 

「うーん、なんか吸血鬼って言っても、本当に生き物なんだな。じゃあ帰していいか聞いて来る」

「あ、私からもお願いします。あと怜様は吸血『族』です。じゃないですよ」

「いや少なくとも彼は充分おにだろ」


 勝巳さんは眉間に皺を寄せ、私を見た。


「吸血鬼が生きるために多少人から血を吸うのはまあ、しょうがねえよ。母乳や牛乳だって材料は血なんだから、俺らだって血を飲んで育ったって考えられるし。でもよ、不老不病のために人間の命を奪っていいわけねえだろ。姫はサプリじゃねえ。そんな発想で人間を買って育てる奴も、それを罰しない世界も、俺から見ればまるごと人のみちを知らない鬼そのものだよ」


 ――我々は人間の命を少しずつ頂いて生かされていることを、皆、忘れておる。翡翠の命と引き換えに若さを保つなど、おかしいだろう。そんなことを平気でする奴は、もはや自然の生物ではない。吸血の鬼だ。


 勝巳さんの言葉を聞いて、いつか語られたご隠居の言葉を思い出した。

 妻に裏切られ、血を絶たれたまま老いを受け入れたご隠居は、人間の命を尊重し、私や伊織の将来を想っていた、叶家最後の吸血「族」だった。


 その後、怜様は誘拐事件と無関係ということで、向こうの世界へ戻ってよいことになった。




 あのビルまで、勝巳さんも一緒に「タクシー」で向かった。


「叶さん、どうですかね具合は。水、本当にいらないんですか」


 私や伊織と一緒に後部座席に座った怜様は黙って頷いた。だが柘榴石ガーネット色の瞳は濁り、唇も渇いている。いつも完璧に整えられていた艶のある黒髪も、乱れて額の上を這っていた。


「こっちにはあなたがたが元ネタなのかなって思うような伝説が幾つもあるんですよ。だからこの世界のどこかに、伊織以外にも日帰り異世界転移をしている人間がいるかもしれない。でも、叶さんは難しいですかね」


 勝巳さんの話す言葉は所々意味が分からないが、言いたいことはなんとなく分かる。

 そしてそれこそが、秦家がこの世界を活用しきれていない理由なのだろう。

 吸血族はこの世界に入れない。だから秦家の人達は、ごく一部の信頼できる人間を使って動くしかない。それでは大規模な事業を展開したりなんてことは無理だろう。


 だが、怜様は違う。

 体に負担はかかるが、この世界に入れる。怜様は、この世界をどのように扱うのだろうか。




 タクシーはあのビルから少し離れた通りに停まった。怜様は伊織と勝巳さんに支えられ、引き摺られるように歩いている。

 その姿を見ると、なんともいえない思いで胸が詰まる。


 勿論、怜様に恋する気持ちは欠片もない。でも何故か、憎んだり嫌ったりもしていない。恐れてもいない。

 自分の不老不病のために私の命を奪おうとした人。そして一度は実行に移そうとした人。私を愚かな食料として見ていた人。それなのに。


 哀しい人だ。


 怜様に対する気持ちを、私の乏しい知識で表現すると、これが最も近い言葉だ。




 私達がこちらの世界に戻ってきたら、公衆電話で勝巳さんに連絡することを約束して、私達はまたあの部屋に入った。


「怜様、歩くのは難しいですか」


 足下のおぼつかない怜様を、伊織と二人で支える。伊織があの扉を開け、中に入ろうとした時に、怜様は足を止めた。


「少し待っておくれ」


 怜様は扉の前にかがみ、懐から白い絹のハンカチを取り出した。


「井村を、連れて帰るから」


 辺りに散らばった井村さんの灰を掬い、ハンカチの上に乗せる。手が震えて思うように掬えないようだ。私と伊織も一緒になって「井村さん」を掬う。


「大変、申し訳ありませんでした」


 伊織は掬った灰を丁寧にハンカチの上に乗せ、怜様に頭を下げた。


「わざとではないのでしょう?」


 伊織は俯いたまま頷く。灰の積もったハンカチを、怜様は綺麗に畳んで懐に入れた。


「彼の伊織への友好的な態度は、私の思惑を知った上でのものだったし、彼は私が凛子を食べようとするのを助けたのだよ」


 また伊織は頷いた。俯いたまま唇を噛んでいる。その姿を見て、怜様は僅かに微笑んだようにも見える表情を浮かべた。


「叶様、どうぞ」


 立ち上がろうとした怜様に向かって、伊織は扉から少し入った所でかがんで背を向けた。


「どうぞ、とは」


 怪訝そうな声を出す怜様の方は見ず、伊織はかがんだまま言った。


「その体では、あの長い通路を歩くのは難しいでしょう。ですからどうぞ。俺が背負ってあの倉庫までお連れします」

「え、ちょっと待ってよ伊織、ここ、結構距離あるよ。それに足元だってよく分かんないのに」


 彼のいきなりの言葉に、思わず口を出してしまった。背負う、って、赤ちゃんをおんぶするのとはわけが違うのだ。


「凛子、そこの扉を閉めて」


 伊織は私の言葉には答えず、扉の方に顔を向けた。これは私の言うことを聞かないつもりだな、と思い、渋々扉を閉める。通路は完全な闇に閉ざされた。


「今、叶様がどのような姿をしているか誰も分かりません。ですからどうぞ。重くてつらくなったらすぐに降ろしますからご遠慮なく」


 暫く誰もが沈黙し、暗闇の中には音楽が低く流れているだけだった。

 やがて何かが動く気配がした。伊織は小さく声を上げると、私の腕に掴まって立ち上がったようだった。

 伊織の手が離れる。私は手探りで彼の服を掴み、先導するように通路を歩き出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る