4.花園と紅椿(2)

 好きなの、の言葉が溢れた途端、自分の発した言葉の意味が、遅れて胸に突き刺さった。寒空の中、熱いくらいに頬が火照る。

 多分今、私は怒ったような顔をしていると思う。なんでなのか分からないが、心が暴走してそうなってしまったのだ。

 伊織は戸惑うような表情を見せた後、微笑んだ。


「ありがとう」


 ベンチに座ったまま私を見上げ、言葉を続ける。


「いつもそう言ってくれて。やっぱり嬉しい」


 その言葉を聞いた途端、鉛を流し込まれたような重い失望感が体を襲った。


 違う、その「好き」じゃない。


 分かっている。悪いのは私の方だ。私が同じ勘違いをして、「伊織、大好き」と言いながら、彼の心を拒絶し続けていたせいだ。

 私はベンチに座り直し、伊織の方に向いた。彼の膝の上で組まれた手を、両手で包み込む。

 私の掌の中で、彼の手がびくりと震えた。それを押さえ込む。私の小さな手では全然包み込めていないが、力を籠める。


「こういう状況で、こういう話の流れで『好き』って言った時は、そういう意味じゃないでしょ。私が言うのもなんだけど」


 遅れてやってきた恥ずかしさのせいで、物凄く感じ悪い言い方をしてしまった。もしこれが他人事で、こんな恋慕の告白をしている女を見かけたら、背後から回り込んで後頭部を叩いてしまいそうだ。


「いままでの『好き』じゃないの。いつから『好き』の意味が変わったのか、分からないんだけど。でも、友達でもない、お兄ちゃんでもない、『伊織』と一緒にここを逃げたいの。で、一緒に苦労して、ずっと一緒に幸せになって、んで、ずっと一緒に」


 分かって。分かってお願い。恥ずかしさと、分かってほしい必死さと、あとよく分からない感情が入り混じって、言葉がぐちゃぐちゃになっていく。


 ぐちゃぐちゃの言葉を吐き出し続ける私を、伊織は真っ直ぐ見つめていた。

 私の手の中で、彼の手に力が入る。

 目は大きく開かれ、鳶色の瞳が揺れる。


 下瞼に光の筋が走り、揺れて潤む。

 光が溢れ、一粒零れる。


 その途端、伊織は私の手を振りほどき、わざとらしく咳込みながら後ろを向いた。


「伊織、どう……」

「見んなよっ!」


 私に背を向け、何度も咳込む。手で乱暴に目の辺りをこすっている。不規則に息を吸い、すすり上げる音がする。僅かに肩を震わせ、呟く。


「ああ、もう、情けない……」


 私はそっと視線を外し、自分の胸に手を置いた。

 とくとくと早まる胸の音を聞きながら、彼への想いと、彼の想いを包み込む。


「も……やだ……。なんで俺って、こんなに、格好悪いんだ。最悪だ」


 震える声で言いながら、私の方に向き直った。少し充血した目元を乱暴にこすると、きまり悪そうに微笑む。


「凛子」


 胸から離した私の手を、今度は伊織の両手が包み込んだ。

 あたたかな大きな手に、すっぽりと包み込まれる。


「その『好き』は、俺と同じ意味、って、取ってもいい?」


 頷く。また恥ずかしさがぶり返し、俯きたくなったが、一生懸命顔を上げてみる。

 伊織は私から手を離し、両腕を広げ、そっと私を抱き締めた。


「やっぱり、凛子はずっと、俺が守る」


 甘く低い声が、彼の広い胸から振動になって伝わって来る。


「縛るつもりはないよ。でも、俺と一緒に苦労して、ずっと一緒に幸せになるって言ってくれる愛しいひとを、俺は今度こそ守り抜く」


 私を抱く腕に力が入る。

 硬い外套の奥から、彼の鼓動を微かに感じる。

 少しずつ早まる鼓動と、ぬくもり。


 私は、なんでこんなに遠回りをしてしまったのだろう。

 この胸の中が自分の居場所だということは、ずっと前から知っていたのに。




 やがて伊織は私をそっと離した。


「そろそろ部屋に戻ろう」


 少しかがんで私と視線を合わせ、顔の前に手を差し出す。

 暫く何かを躊躇ったのち、手を下ろす。

 そして昔のように、私の頬に唇を触れた。


 あたたかな唇の感触。

 柔らかくて、くすぐったくて、たまらなくいとおしい。


「えーと、あの」


 伊織は私から顔を離した後、私を見つめたり、斜め上を見たりした。


「それ、絶対つけていないとだめなの?」

「え、何?」

「ほら、それ」


 自分の唇に手を当てている。

 

「え、ああ、口紅のこと? うん、そう言われている」

「でもさ、凛子真面目だから、寝る直前までつけているだろ。風呂上りもつけなおしたりして」


 別に真面目なわけではなく、単に言われたことを何も考えずにしているだけだ。で、それが今更どうしたというのだ。


「叶様、どうせもう、殆ど顔を合せないからさ、せめて夕食の後は取って欲しいんだけど」

「え、もしかして赤い口紅、嫌い? 似合わない? だよねぇ、こういうのって、美那様みたいな綺麗な人が」

「違うよ。似合うけど。でも怖いんだよそれ」

「怖い?」


 伊織はこくりと大きく頷くと、私の耳元に顔を寄せた。


「自分の唇につきそうで、凛子に接吻くちづけができな」


 できない、の語尾まで言うことが出来ず、伊織は頬を染めて叫んだ。


「うあー寒い! 帰る!」


 私達を静かに見守っていた紅い椿が、微笑むように揺れた。




 お屋敷の目の前に来た時には、既に大分日が昇っていた。いつもの朝食の時間はとっくに過ぎているだろう。


「ねえ、手、繋いでいい?」


 子供の頃は当たり前のように繋いでいた手も、今は全く意味が違う。我ながら気色悪い甘え声だと思いながら、これまた気色悪いであろう上目遣いで聞いてみた。

 だが伊織は少し困ったように首を横に振った。


「ごめん。嬉しいけど、やめておく。この時間だと、人の目もあるから」


 そう言ってお屋敷を見上げる。


「明日の夜まで、行動には気をつけて。いつもと同じように過ごして」


 私が頷くと、彼はお屋敷を見上げたまま言葉を続けた。


「人の目に気をつけて。決して、逃げる事を気づかれないように」

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