4.発覚と逃走

 視界の端に倉庫が見えて来た時、伊織が右手を横に突き出して皆を制した。

 倉庫の近くを、人が二人歩いている。その人達は辺りを見回すように首を動かしている。


「ねえ、あそこにいる人の、男の人の方って」

「うん。雄一先生だ」


 皆で塀に身を寄せ合って隠れる。私は少し顔を出した。


「あの女の人も先生かな」

「そうだろうね。農場の先生はしょっちゅう変わるからな」


 先生達は暫く倉庫の近くを歩いていたが、やがて去って行った。

 伊織が倉庫の方を見た。頷き、目くばせする。私達は揃って歩き出した。

 

 倉庫の姿を正面に捉えた。一度止まり、耳を澄ます。暫くそのままでいると、遠くから足音が聞こえてきた。

 足音が遠ざかり、消える。

 トラックの走る音が微かに聞こえ、消える。

 辺りを見回す。人影はない。歩き出す。

 腕の中の赤ちゃんが、うぅ、と小さな声を上げる。


 冷たい風が吹く。手の甲に、ぽつ、と何かがしたたる感触があった。

 空を見上げる。

 街灯の光の中を、ぽつ、ぽつ、と雨滴が走っていた。


「伊織、あなたは」


 怜様が言った。囁き声にしているようだが、妙に通る声だ。伊織は目を細めて振り向いた。


「さっき、孤児院のことを『農場』と言いましたね」


 あ、そういえば。


 怜様の指摘に思い出す。

 そうだ、さっき雄一先生を見かけた時、『農場』と言っていた。

 農場関係者以外は、『孤児院』と呼んでいるのに。


「そうでしたっけ」

「そうです。しかも孤児院の職員の名前も知っていたでしょう」


 伊織は眉をひそめて何かを呟いたあと、少し早口で言った。


「その件はあとで話します。今は取り敢えず倉庫の中に入りましょう」


 倉庫に向き直った伊織の服を、井村さんが掴んだ。


「おい、お前、今、なんて呟いた」


 問いに答えず歩こうとした伊織に詰め寄る。声をひそめようともせず、強い口調で言葉を続けた。


「『面倒くせえな』って言ったろ、どういうつもりだ、失礼な」

「ねえ、井村さん、今は早く行きましょうよ。農場の先生が来ちゃう」

「凛子さん、誤魔化しても駄目です。おい伊織、こんなにも寛大な叶様に対して、お前という奴は」


 誤魔化しているつもりはない。井村さんこそ、なにを呑気なことを言っているんだ。今はそれどころじゃないだろう。

 この人は、『農場』の怖さを知らないんだ。


 雨が少しずつ存在を増してきた。顔に、頭に、雨滴が当たる。赤ちゃんに当たらないよう、背中を丸めて庇う。雨滴とは別に、ねばついた汗が額に滲む。


「叶様、失礼いたしました」

「なんだそのおざなりな言い方は!」


 もういいじゃないか。いい加減にしてほしい。雨も降って来たし、倉庫の扉の前には誰もいない。さっさと行って、全ておしまいにしたい。


 私は井村さんを止めようと口を開いたが、怜様の背後で何かが動いたので、視線を動かした。


 視線が止まる。

 傍らで井村さんに掴まれている伊織が強張っているのが分かる。

 怜様が振り返る。


 つう、と雨滴が背筋を滑る。


「あらぁ、久しぶりねえ、凛子ちゃんじゃないの。こんな所で会うとは思わなかったわぁ。それにこちらの方、もしかして……」


 この声。

 この笑顔。

 裾の長いスカート。


 貼りついたような笑顔で、両手を差し出してくる。


「その子、農場にいた子でしょ? 駄目よぉ、こんな雨の中、外に出しちゃ。さ、先生に返して」


 院長先生が、赤ちゃんの方へ手を伸ばしてきた。




「走れっ!」


 伊織は井村さんを引き剥がし、私の腕を掴んだ。慌てて赤ちゃんを片手に抱き直し、腕を引かれて走り出す。一緒に走り出した怜様にぶつかる。赤ちゃんを体に寄せる。院長先生の手をすり抜け、倉庫に向かう。


「何するのっ!」


 院長先生が叫んだ。叫び声と同時に足音が聞こえる。別の道から雄一先生と知らない先生が飛び出してきた。


「そいつらが誘拐犯よっ! 捕まえて!」


 あんたに誘拐犯呼ばわりされたくない、という言葉が頭の端に浮かぶ。雄一先生の手をすり抜ける。背後で何かを叩く音がする。少し振り向いたら、井村さんが雄一先生を叩いたようだった。

 伊織に掴まれて走るが、赤ちゃんを抱え、踵の高い靴を履いた状態では彼の速度についていけない。走りながら靴を脱ぎ捨てる。私の靴に、怜様が軽くつまずいたようだった。


 伊織が倉庫の塀の扉を開けた。振り向き、怜様達に目くばせをする。怜様と井村さんが中に入る。私達が続く。伊織が雄一先生の目の前で思い切り扉を閉める。扉の向こうで「痛っ」という声が聞こえた。伊織は扉を押さえながら閂を掛けた。


「院長先生、誘拐犯が倉庫の中に入りましたあっ」


 知らない先生のものらしき声が聞こえた。私達は庭を突っ切る。倉庫の扉を開ける。私が入ろうとすると、井村さんがわきから体をねじ込んできた。


「院長先生、あいつら、まさか」

「明子先生はもう戻っていいわ。雄一先生、そこ開けてちょうだい」


 塀の上に雄一先生の頭が覗いた。やだ、入ってきてしまう。私は井村さんに続いて入って来た怜様の背中を押し、後に続いた。

 振り返る。雄一先生が塀の内側に降りようとしている。倉庫の扉を閉め、中から鍵を掛けた。




「あっちの部屋ですっ! 急いで!」


 怜様達を促し、地下に続く部屋に向かう。伊織が床を開く。怜様が立ち止まったので、私が先に地下に降りる。


「この中に入って下さい」


 伊織が続いて入り、床に開いた口から顔を出して言った。なのに怜様達が降りてこない。


「何しているんですか、早く」

「なんでこんな所に入るんだ。お前、まさかこのまま叶様を捕らえて」

「下らねえことごちゃごちゃぬかしてんじゃねえよ! さっさとしろっつってんだろ!」

 

 叫びながら怜様の足首を掴む。怜様は伊織の剣幕に押されて地下に降りた。

 続いて井村さん。彼が半分位入った時に、足音が聞こえた。

 伊織は井村さんの服を引っ張って地下に押し込んだ。その勢いで井村さんが尻餅をつく。伊織は構わず戸を閉めた。


 私は赤ちゃんを抱き直し、懐中電灯を点けた。それと同時に天井の戸が開く。

 院長先生のスカートが覗く。驚いて懐中電灯を落としそうになる。それを伊織が受け取り、通路に続く扉を照らす。


「そこへ入っちゃ駄目!」


 院長先生が叫んだ。私は扉を開け、通路に入った。赤ちゃんが動いたので抱き直す。続いて井村さんと怜様。伊織は先生達に向かって地下室にあった何かを投げつけていた。

 扉を閉める。扉の向こうから、何かを叫ぶ院長先生の声が聞こえた。




 通路に入って少しすると、懐中電灯が消えた。怜様が小さく声を上げる。


「ここから先は真っ暗になります。足元も分からなくなりますが、兎に角ひたすら走って下さい」

「懐中電灯はどうしたんだ」

「ここでは点かないんです。もう、ここからは異世界だと思って下さい。音楽みたいなものが聞こえるでしょう。あれに向かって」


 伊織が言い終わらないうちに、扉から先生達が入って来た。伊織が私の腕を掴んで走る。すぐ後ろを怜様達が走っている気配がする。そして、先生達。


 完全な暗闇。

 床の感覚も、壁の感覚も曖昧になる。

 地響きのような音楽が聞こえる。

 この空気に押されたのか、赤ちゃんが泣きだした。

 抱き直す。この子の重みと泣き声、伊織の手の感触、地響きのような音楽だけを頼りに、曖昧な空間を走る。


 ここで捕まってたまるか。あと少しだ。




 伊織の速度が急に落ちた。その勢いで怜様達がぶつかる。


「どうしたんだ、逃げるんだろ! 捕まったら世間体が」

「黙っててよっ!」


 伊織を引っ張るように走る。彼のいる辺りから、荒い息遣いが聞こえる。息切れだ。

 大丈夫? と声を掛けようとして、やめた。その代りに彼の背中のあたりを強く叩いた。


「伊織っ、もうちょっと! 頑張れる! 頼りにしてるっ!」


 荒い息の中から、ふっと笑い声のようなものが漏れた。私を掴む手に力が入る。走る速度が上がる。




 前方から、おっ、という声と、何かがぶつかる音がした。いつの間にか私達の前を走っていた井村さんの声だ。

 立ち止まる。すぐ後ろにいたらしい怜様が軽くぶつかり声を上げる。

 いつの間にか、足の裏に床の感触がある。伊織が荒い息の間から声を掛けた。


「そこが、出口に、繋がる、扉です。どこかに、ノブがあるはずです」


 先生達の足音が迫る。


「どこだ、え、どこだ」


 井村さんの動転した声と扉をあちこち叩く音がする。私は伊織の手から離れ、一緒にノブを探した。


「そこは開けちゃ駄目!」


 院長先生の声がすぐ傍に迫る。何かがぶつかる音がする。伊織と雄一先生の声が聞こえる。捕まったのか、取っ組み合っているのか。

 指先に出っ張った金属の感触が触れる。

 ノブだ。掴んで回す。

 がちゃりと音がする。


「開けちゃ駄目!」


 扉の向こうから色鮮やかな映像と音楽が射し込む。

 すると私の前に井村さんが割って入った。


「叶様、出口です!さあ、こちらへ」


 井村さんの声は、そこで途切れた。


 扉が開く。

 色が溢れる。

 井村さんが体を乗り出す。



 だが、向こうの世界に出た途端、井村さんの体は小さな音を立てて灰になり、床の上に零れ落ちた。

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