2.三つの決断

 ある朝、怜様がにこやかな笑みを浮かべて部屋に入って来た。


「凛子の二十歳の誕生日まで、あとひと月だからね。もう、血は貰わないでおくよ。凛子の血を全て私の体に取り込む日まで、心安らかに美しく過ごしておくれ」


 私が二十歳の誕生日を最高の体調で迎えるために、これからは血を吸わない、ということらしい。

 これから命が尽きる時まで、怜様に触れる機会がない。けれどもその事に対して、なんの感情も湧かない。

 ただ、死への恐怖が胸を襲うだけだ。


 自分の心のどこかが変わってしまったのは分かっている。

 もし、捕食者に恋をした、死の感覚が麻痺した、愚かで美味しい『花嫁』として生涯を閉じられたら。

 伊織は悲しんでくれるだろう。でも、私の死によって、彼は私という足枷から解き放たれるのだ。


 怜様が部屋を出ていった。私は両手で顔を覆う仕草をしそうになって、止めた。顔を上げ、伊織に微笑みかけてみる。


 今、両手で顔を覆って俯いたら、伊織はきっと、私が怜様と会えなくて悲しんでいると思うだろう。

 彼に、そんな風に思われたくない。


「お散歩行かない?」


 自分の身に迫る運命から目を逸らし、私は努めて明るく伊織に声を掛けた。


「今日は寒いよ。晴れているけど、風もあるし」


 私の言葉に、伊織は口元だけ微笑むようにして答えた。


「えー、だって暇なんだもぉん。もうねえ、本当に暇なんだよ毎日。伊織が来てから大分良くなったけど、もう毎日することなくって。字が読めたら本とか読めるんだけどね」

「じゃあ字を覚えればいいじゃないか」

「そんな簡単に言わないでよ」


 今更そんな事を言われても、私にはあと一カ月しかないんだよ、という言葉を呑み込む。


 ――じゃあ字を覚えればいいじゃないか。


 何かが、小さく心に引っかかる。




 階段を降り、エントランスを歩いている時に、背後から何やら歪んだ空気が漂って来た。

 振り返ると、女中達が三人、固まって私達を見ている。


「――ねえ、花嫁、叶様べったりだったんじゃなかったの?」

「いい加減気づいたんじゃない? いくら媚び売っても助けてもらえないって」


 一応ひそひそ話の雰囲気は出しているが、明らかに私に聞こえるように話している。私のどこが彼女達の癇に障ったのか分からないが、いい加減にしてほしい。


「最近じゃ、あの掬い上げとべったりだよね。何がいいんだろ」

「あの二人、いくら花嫁と付き人だっていっても、ちょっと仲良すぎじゃない? おかしいよね。やっぱりあのふたり、『深ぁい』仲なのかな」

「やだぁ、そうだよねえ絶対」

「それはどういう意味ですか。『花嫁』の血が穢されて、私が気付かなかったとでも?」


 いきなり降って来た怜様の声に、女中達は狼狽うろたえ、頭を深く下げて詫びた。

 強張った表情の怜様が、ゆっくりと近寄って来る。軽く頭を下げる私達の前を通り過ぎる。

 女中の一人に近づき、顔を覗き込む。彼女がおずおずと怜様を見返すと、怜様は口の端を歪めて嗤った。


「以前も彼らの話題で、間接的に私に失礼を働きましたよね。あなた、自分の口先一つで、路頭に迷うことになるかもしれない事を自覚していますか?」


 女中の顔から、血の気が失せる。何かを言おうと口を開きかけた彼女は、怜様の一瞥を受けて沈黙した。彼女達はその場で俯き、動かなかった。


「伊織」


 怜様は、今度は伊織の方へ向かって来た。目元に険しい色を浮かべている。


「凛子の付き人でありながら、彼女がおとしめられているのに、無視してやり過ごすとは情けない」


 今の伊織の立場では、女中達に言い返せるわけがない。そんな事、分かっているだろうに。伊織が黙って頭を下げると、怜様は私に向かって微笑みかけた。

 首を少し傾げ、目を細め、口角をきゅっと上げる。

 その美しい微笑を見た時、何故か背骨の中を氷が滑り落ちるような感覚を覚えた。


「凛子の血はさらさらと滑らかなのにコクがある。自らを律し、清らかに生活している証拠だよ。これだけ上質な血なら、不老不病以上の効果があるかもしれないね」


 怜様が不老不病になる。つまりは私の命がなくなるという事だ。

 微笑みながら、穏やかな口調で、私を殺す話をする。


 頭の中が黒い粘液で覆われる。苦いものが喉の奥から込み上げて来る。

 伊織を見る。彼は無表情に怜様を見ていた。

 拳を強く握って。


 最近、気付いた。

 昔はそんなことなかった。きっと、五年の間に身につけた、自己防衛法の一つなのだろう。

 伊織は激しく感情がたかぶり、心が振り切れると、何事もないような無表情になる。


「怜様は」


 だが、五年の間に身につけた自己防衛法なら、私だって持っている。私は恐怖を押し潰して微笑んだ。

 私は愚かで美味しい花嫁だ。何も分からない。何も見えない。


「私を食べたら、ずっと今のままの美しい姿なんですね」

「はは、『美しい』が容姿という意味なら、さほど気にはしていないよ」

「そうなんですか? でも美那様のためにも、いつまでも若く美しく」

「美那さんはもう歳だ。たとえ私が凛子を食べなくても、私の容姿が変わる前に亡くなるだろう。別に彼女のために苦労して凛子を手にしたわけじゃないんだよ」


 自らの配偶者の死を、なんの感情も交えずに語る。それこそ、「どうせすぐ死ぬ彼女のためになんか大金は使わない」とでも言いたげに。

 心のどこかで、意地になって灯していた火が、ちいさな泣き声を上げて消えてゆく。


 怜様は顔を上げた。

 自分達の部屋のある方向を見ながら言葉を続ける。


「誰が何と言おうと、私は父のように死にたくない。父が身動きの取れない老いた体になってしまったから、家が苦しくなったり、秦家に付け入れられたりしたのだ」


 涼やかな目元が、険しく吊り上がる。

 視線の先にあるのが、ご隠居の部屋なのか、美那様の部屋なのかは分からない。だが、に、憎悪の念を抱いているのは確かだ。


「私には、不老不病がふさわしい。そして凛子の美しい血がふさわしい。凛子の血が私を証明してくれる。……ああ、話が長くなって悪かったね、散歩に行くところだったのだろう? 寒いから、風邪をひかないようにね」




 完璧に整えられた庭を歩きながら、伊織は向こうの世界の話を沢山してくれた。

 さっきの怜様と私のやりとりは、話題にしなかった。私も話題にすることなく、彼の話だけを聞く。

 伊織の話を聞いていると、「向こうの東京」という世界が本当に存在するのだろうなあ、と思えてくる。もし、これだけの話を嘘で話せたら、それは才能だ。

 

「向こうにいたのって、ふた月くらいでしょ? 随分色んな経験したんだね」

「凛子のことがあるし、そうのんびりできなかったから、出来るだけ色んなことを吸収しようと思って。俺がいる間に、誘拐の件が解決しなかったのが気になるけれど、あれから勝巳さん達の警察がどう動いたか」


 向こうで伊織がお世話になっていた、警察官の勝巳さん。彼は職場の立場上、誘拐の件に直接携われない。だから、信頼できる上役にこっそり相談したそうだ。

 だが案の定まともに取り合ってもらえず、かといってあの部屋の扉を、部屋の所有者に断りなく開けるわけにもいかず、その所有者の所在も分からず、何より証拠がなにもない、という状況なのだそうだ。


「向こうの東京は、文明が発達していて治安もいい。まあ住みやすい世界かどうかというと、はっきり言って住みにくい所も多い。でも、少なくとも、餌ではなく人間として生きることは出来るんだ」


 控えめに私を向こうの世界へいざなう。

 私は曖昧に俯いた。


 伊織の話を聞きながら、実は、私はずっとあることを考えていた。

 二十年近く生きてきて、こんなに考えたのは初めてだ。

 考えなければいけない、三つの大きなこと。

 多分、答えは出ている。だが、それを認めるのが怖い。




 お屋敷と正門の間には木立がある。ここは庭のように人の手があまり入っていないので、暖かい季節には、木漏れ日を浴びながら雑草をさくさく踏んで緑の香りを味わうことが出来る。もっとも今は、頭の寂しい木々がのっそりと立ち並んでいるだけだ。


 その木立の一角に、身を隠すように花園がある。

 花園は背の高い生垣に囲まれており、優美な装飾の施された門は閉ざされている。春になると花の良い香りを辺りに漂わせ、自らの場所をひっそりと主張する。

 そこに入れるのは、庭師と怜様夫妻だけだ。

 だが、今は誰も立ち入っていないのだろう。生垣は好き勝手に枝を伸ばし、来る者を拒絶している。


「ここ、前から気になっているんだよね」


 私はおどけたように背伸びをし、生け垣の隙間から中を覗き込むしぐさをした。


「一応、ここは入っちゃいけないんだけど」

「まあ、花園は逢引あいびきとかにも使うからね」

「でも、今は誰も使っていないらしいの。だから入ってみたいなあ。でもなあ」


 扉の鍵穴を指差す。伊織は少し目を細めて鍵穴を見た後、そっと扉に手を当て、押した。

 金属の軋む音がして、それはあっさりと開いた。


「あ、開いた……」


 私の言葉に、伊織は笑った。私も一緒に笑う。

 目の前のおかしな出来事に、すがるように笑いあう。

 

 互いの顔から、笑みが引く。

 伊織は一瞬、泣き出しそうに顔を歪めたあと、擦れた声で囁いた。


「逃げよう、ここから」


 そこで言葉を切り、お屋敷の方へ目を向けた。


「もし、凛子が叶様の手に掛かったら、俺はこのお屋敷を出る」

「なんで? だって、皆、伊織のことを頼りにしているんだよ。私がいなくても充分仕事は」

「老いを失った叶様の姿を見るたびに、うしなった凛子の姿を見るんだぞ。俺は凛子を殺した奴はゆるせない。だけど奴の死を望む事も出来ないんだ。もしそうなれば、凛子の血も失うから」


 ああ……。

 私は、本当に愚かだ。


 伊織は向き直り、私を見つめた。躊躇ったのち、右手を私の方へ伸ばす。

 長く伸ばした髪をかき分け、左の首筋に触れる。

 彼の目が、私の首筋についた、牙の痕を捉えているのが分かる。

 細く長い指が、痕の上を滑る。

 そういえば、伊織がこのお屋敷に来て間もない頃、彼がここに触れることを拒んだことがある。怜様が触れたところに触るなと。


 私の首筋は彼の指先を受け入れ、微かに伝わるあたたかな感触をむさぼる。

 指先がするりと滑り落ち、離れていく。

 ぞくり、と熱い痺れが体を襲う。


「凛子」


 喘ぐような囁きが、彼の唇から零れ落ちる。

 囁きの先は紡がれず、彼は俯いた。唇をきつく噛んでいる。


 やがて、寒いからそろそろ戻ろうか、と言って、私に背を向けた。




 それからずっと、考えていた。

 花園の前で、伊織の言葉を聞いた時点で、結論は出ていたのだが。

 あとは覚悟をするだけだ。




 夜、皆が寝静まった頃、私は覚悟を決めた。

 正確に言うと、覚悟が決まるのを待つより、先に行動して自分を追い込んでしまえと思ったのだ。


 伊織の部屋と繋がっている扉の前に立つ。

 錠前が鈍く光っている。伊織は一体どういう想いで、ここに錠前を取り付けたのだろうと思う。

 息をひとつ、大きく呑む。

 ノックする。


「りんこ?」


 寝ているところをいきなり起こされましたよ、みたいな、愉快な声が返ってきた。ごそごそと音がする。扉の前に立ったのだろう。


「ごめんね、寝ていたのに。あのね、誰もいない所で話したいことがあるの。今ここで話してもいいんだけど、夜中より朝の方がきちんと話せる気がするから。だから」


 大丈夫。結論は出ている。

 明日、きっと話せる。だから。

 さあ、言え、私。


「明日の朝、一緒に花園へ行かない?」




 きちんと言える。覚悟も出来る。

 もしうまく話せなくても、これだけは伝えたい。


 私は、伊織が。

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