11.いっそ全てを

 例えるならば、薄く柔らかな仮面が張り付いたような感じだ。


 ご隠居の葬儀から暫く経ち、お屋敷の中は少しずつ日常を取り戻していた。怜様と美那様は黒い喪服姿だが、領地の管理や社交などは今までと同じように行っているらしい。

 だが、葬儀の日の朝から、怜様は変わってしまった。

 表面上は、今までと同じだ。にこやかで、穏やかで、優雅。毎朝の吸血以外で会うことはあまりないので、どこがどう違う、とはっきりは言えないけれども。


「ごちそうさま、凛子」


 吸血された後、ベッドに横になりながら、ぼんやりと玲様の後姿を目で追った。


 やっぱり、何か違う。

 さっき見せた吸血前の微笑み。以前はご馳走を前にした子供のような無邪気な微笑みだったのに、紅く輝く瞳の奥に暗い影が潜んでいたような気がする。

 ほかにも美那様や井村さんと話している時、言葉の端に小さな棘があるような気がする。

 お父さんをなくした悲しみがそうさせているのかなあ、と思うことにしているのだが、多分それだけじゃない。


 まあ、私が何かを考えたところで、どうにもならない。

 寝返りを打ち、顔を手で覆い、溜息をつく。

 どうせ私の命は、あと二カ月なのだ。


 何故かは分からない。けれども最近、麻痺したはずの死への恐怖に囚われることがよくある。その度に叫び、取り乱し、泣き喚きたくなる。

 私はそれを押さえ込み、目を逸らし、忘れたことにする。


 


「いい? おとなしくしているんだよ。秦様がお帰りになるときはまた大騒ぎになると思うから、それまではあっちに行かないでね。頼むよ」


 今日は秦様が来る、ということで、例によって私と伊織は部屋に籠っていることを命じられた。秦様の用件は多分、事業のことだろう。さっき井村さんが眉間に皺を寄せ、紙束を持って歩いていたから。

 秦様、と聞いて、私は傍らに立っている伊織を見た。


「かしこまりました」


 彼は特に表情を変えることなく、そう言って軽く頭を下げた。


 秦家。

 異世界に繋がる扉を持ち、その世界の赤ちゃんを攫っているかもしれない人達。

 「向こうの世界」の存在が事実なら、なにも誘拐なんかすることないのに。叶家との事業だって、別に必要はないと思う。


 一度、伊織と話したことがある。


「そんな世界があるんなら、向こうの世界の物を売れば、簡単に大儲けできそうだけど」

「どうかなあ、物を売るのは案外難しいかも。だって仮に仕入れが出来ても、『これ、どこで仕入れたんですか、どうやって作ったんですか』って聞かれたらそれでおしまいだし」

「じゃあさあ、向こうに人を大量に送り込んで、技術を学ばせる、とか」

「あの扉を知っている人が増えればそれだけ秘密が漏れる危険が増えるよ。でも、確かに誘拐なんかしなくても利益は得られるはずだよね」


 そして私を見る。

 彼の視線の意味は分かっている。


 あの世界に逃げれば助かる。

 だから……。ということだろう。

 でも、じゃあ……。とは言えない。

 伊織の事は信じているが、それにしてもやはり「そもそもそんな世界が本当にあるのか」という根本的な問題がある。

 仮にあるとした場合、「逃がしてくれればあとは一人で生きる」と言いたいところだが、今の自分を考えれば難しい。情けないけれど、どうしても伊織に頼らざるを得ない。

 だが、そうすれば、せっかく安定した伊織の生活が再び歪んでしまう。

 

 詰襟をきっちり着込んだ、伊織の左肩に目を向ける。

 ぞろりと這い出す黒い恐怖から目を逸らす。


 怜様のこと。自分の命のこと。思うことはたくさんある。でも。

 もうこれ以上、伊織を苦しませたくない。


 


 暫くすると秦様の大声が聞こえ、到着したのが分かった。

 伊織は耳をすませる仕草をしていたが、物音が聞こえなくなると、箪笥の方に向かった。


「今日、外は結構暖かかったよ」

「わぁ、外出たいなあ。でも、庭に出るのもだめだろうなあ。折角天気がいいのに。ねえ」

「別に部屋に籠っていなくてもいいんじゃない? 秦様に見つからなければいいんだからさ」


 伊織は私の外套を手に、いたずらっぽく笑った。


「これ着て。これから一緒に、凛子の知らない世界に逃げよう」




 こういう時、踵の高い靴は大変だ。梯子の途中で靴を脱ぎ捨てる。右足の靴が、梯子に引っかかってぶら下がっている。私は梯子の上の出入り口から差し出された伊織の手を掴んだ。


 屋上、初めて来た。平らな部分は結構狭くて埃っぽく、落ち葉が散らばっている。明らかに信用できない手摺から離れ、黒い外套姿の伊織の左隣に並んで座った。


「伊織、変わらないね」

「ん?」

「農場にいた時、よく屋根に上っていたじゃない。先生達に盾突いて、ぷいってして上ってさ。一度私を連れて上って、すっごい叱られたよね」

「ああ、なんかあったなあ。『凛子ちゃんが落っこちたら危ないでしょう!』ってね」


 伊織は、無駄に上手な院長先生の物真似つきでそう言って笑ったが、私は言った後で後悔した。

 そうだ、あの時院長先生は、「凛子ちゃんが」落ちたら危ない、と言っていた。

 あの時は気がつかなかった。今更ながら、じくじくした不快感が滲みだしてくる。


 不快感から目を逸らすように、自分の掌を見る。屋上に上る時に手をついたので、少し汚れてしまった。

 さっき、伊織はこの手を掴んで、屋上に引き上げてくれた。そのときの感触を思い出す。

 少し骨ばった、大きな手。細く長い指は見た目に反して強く、私の手が痛むほどの力で掴んでくれた。

 かつて私を農場の屋根に引き上げた時の手とは、違っていた。

 

 ……あれ?

 なんで今、胸が微かに震えたんだろう。




 陽の光が柔らかく輝いている。庭で見るよりも海がはっきりと見える。海は白い波を連れて寄り、海岸を撫でて引いてゆく。

 

「凛子、寒くない?」


 首を横に振った私を見て、彼は微笑み、再び海を眺めた。


 伊織を見る。相変わらず綺麗な横顔だなあ、と思う。

 髪は白く、顔色もあまり良くない。けれども、思わず指でなぞりたくなる程整った輪郭とか、澄んだ大きな目とか、艶やかに締まった唇とかに、ついつい見入ってしまう。


 伊織は綺麗だ。しかも優しい。

 私と離れていた五年間、外の世界の女性達が、伊織を放っておいたわけがない。

 そんな彼は、私を好きだと言ってくれる。

 こんな、私を。


「ねえ」


 私の呼びかけに、伊織は顔を向けた。


「なんで私なんかを好きになったの?」


 質問に伊織は軽く身を引き、頬を淡く染めた。


「ななんでそんな事、聞くんだよ」

「だって謎なんだもん。外の世界に、可愛くていい子なんかいくらでもいたでしょ。

なのに私だよ? 私、見た目は大したことないし、頭悪いし、人の気持ちを汲めないし、自分勝手で、我儘で、思い込みが激しくて、それと」

「いい加減にしろよ、なんだよそれ」


 伊織は言葉を遮り、私を睨み付けた。


「たとえ本人でも、凛子を悪く言うのは許せない」


 真っ直ぐな強い瞳に、思わずひるむ。


「ごっごめんなさい」


 勢いで謝った私を見て、彼は微笑み、少し俯いた。


「農場の中で、俺を好意の目で見てくれたのは、凛子だけだった」


 顔を上げてもう一度微笑み、海を眺める。

 鳶色の瞳に、冬の白い陽ざしが溶ける。


「なかなか貰われない厄介者のくせに、すぐ先生達に反抗的な態度を取る。だから先生達は俺を邪険にする。それが面白くなくてさらに反抗する、の悪循環で。それに農場の仲間は皆、俺を嫌がっていた。俺と関わると良い家を紹介してもらえなくなるとでも思っていたのかな。そんな中で、凛子だけが笑顔で接してくれた」


 当たり前だ。だって大好きだもの。伊織が悪い人じゃないのは分かりきっていたし、ちょっと接すれば優しい人なのはすぐに分かるし、良い家がどうのこうのなんて、ここでは関係ない問題じゃないか。そんなの、理由にならない。


「それに、今もそうなんだけど」


 話し方がゆっくりになり、言葉が途切れた。

 私を見つめる。はにかみ、目を逸らし、再び見つめる。

 右手が上がり、私の頬に近づく。

 手は私に触れることなく、もどかしげに微かなぬくもりだけを伝えて来る。


「凛子のそばにいると、凄く気持ちが穏やかになって、安心するんだ。なんていうか、ぴた、ってうまく居場所に嵌るような」


 右手はぬくもりの余韻だけを残して、そっと下ろされた。


「でも、凛子にとって、俺は」


 下ろした右手を強く握る。

 潤んだ瞳が、私を映す。

 彼は口をつぐみ、海を眺めた。




 伊織の言葉を聞いて、私は不思議な気分になった。

 彼の言う「『好き』の理由」は、曖昧で、弱い気がする。それだけの理由の相手を、自分の人生を歪めてまで救おうとするなんて。

 それに。

 一緒にいると気持ちが穏やかになって安心する、なんて、私も一緒だ。

 私も伊織と一緒にいると、気持ちが穏やかになって、凄く安心する。自分の一番心地いい居場所に、ぴた、と嵌る気がする。


 私は吸血の時、怜様に引き寄せられるとどきどきする。でも、怜様の腕の中で安心感を覚えたことは一度もない。当たり前だ。だって怜様の腕の中は、自分の死と直結しているのだから。


 ひとを好きになるって、恋をするって、どういうことなんだろう。




 冬の割に暖かいとはいえ、屋上にじっと座っているとさすがに寒い。ぬくもりを求めて、私は伊織の左腕に自分の両腕を絡ませた。

 絡ませて、止まり、少し離す。


「あ、ごめん」


 前に私が考えなしに抱きついた時、伊織は「そういうの、もう、やめてくれ」と言った。そのことを思い出し、体を離す。


「どうしたの?」

「えと……私がこうやるの、いや、かなあって」

「嫌じゃないよ。ただ」


 一度、唇を噛み、微笑む。


「嬉しいから、苦しいんだ」


 鈍い胸の痛みを抱えながら伊織の顔を見る。彼は照れたような笑みを浮かべた。


「寒いんだろ。いいよ、ほら」


 そう言って腕を差し出す。

 躊躇ったが、その腕に再び絡みついた。彼のぬくもりが私の体に流れ込む。私は彼の左肩に頬を軽く寄せた。


「ここ、こうやると痛い?」


 伊織はゆっくりと首を横に振り、囁いた。


「ううん。全然、痛くない」


 彼の言葉を受けて、私は少しずつ頬を肩に乗せた。黒い外套の硬い感触の奥から、伊織の呼吸が伝わって来る。心の奥があたたかくなり、ふわりと優しい空気に全身が包まれる。


 一番心地いい居場所、一番安心できる居場所に、ぴたりと嵌る。


 いっそ、伊織の優しさに全てをゆだねてしまいたい。そんな想いが心の隅から顔を覗かせる。

 その想いを追い払う。

 それはあまりに自分勝手で、ご都合主義な考えだ。私は怜様が好きだし、伊織が大切なんじゃないか。


 だから今、この時だけ、こうしていられればいい。

 二カ月後、怜様の冷たい腕の中で、今日のことを思い出すかもしれないけれど。

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